形原藩
形原藩(かたのはらはん[1]、かたはらはん[注釈 1])は、三河国宝飯郡形原(現在の愛知県蒲郡市形原町)を居所として、江戸時代初期にごく短期間存在した藩[9]。関ヶ原の戦いののち、旧領に復帰して5000石を領していた形原松平家が、1618年に関東地方で加増を受けて大名に列した。ただし、翌1619年には摂津高槻藩に移されて廃藩となった。
歴史
[編集]前史
[編集]形原松平家は松平氏の一族で、桶狭間の戦いの時点の当主は松平家広である[10]。家広の跡を継いだ松平家忠(又七郎、紀伊守)[注釈 3]は天正10年(1582年)に36歳で死去し、子の松平家信が家督を継いだが、家信が成長するまでの間[注釈 4]、家忠の弟の松平家房が軍代を務めた[10]。
天正18年(1590年)、徳川家康が関東に移されると、家信もこれに従って移転した。関東に移る直前の松平家信の領分は2250石とされるが[1]、関東移転後は上総国五井(現在の千葉県市原市五井)で5000石を領した[11]。
形原松平家は水軍と関わった家であり[注釈 5]、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては、西軍についた九鬼嘉隆の押さえとして、小笠原安元・小笠原広勝(ともに幡豆小笠原家)・千賀重親(師崎旧領主)とともに知多半島の師崎に派遣された[11]。
関ヶ原の合戦後
[編集]形原松平家の復領
[編集]関ケ原の合戦後の慶長6年(1601年)、家信は上総五井に代わり、旧領である三河形原で5000石を与えられた[11]。同年2月には領地入りの暇を得ている[11]。このときの家信の領地は、宝飯郡形原村など13か村であり[1][12]、かつての形原城を陣屋とした[13]。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の際、家信は当初駿府の留守を命じられたものの、家康に呼び出されて大坂に参陣した[11]。翌慶長20年/元和元年(1615年)の大坂夏の陣の際には病気であり、嫡男の松平康信(15歳)を陣代として従軍させた[11]。その後しばらく、家信は形原で療養した[11]。
立藩から廃藩まで
[編集]元和4年(1618年)9月、家信は御留守居に就任するとともに、安房国長狭郡内において5000石を加増されて1万石の大名となり[11][1]、形原藩を立藩した。『角川日本地名大辞典』によれば、藩政は嫡男の康信と、城代の松平家房[注釈 6]に委ねられていたという[1]。
元和5年(1619年)9月、徳川秀忠が上洛した際、家信・康信父子は伏見城に召し出され、領地を摂津国に移した上で2万石を与える(うち5000石は康信の知行とする)こととされた[14]。これにより松平家信は高槻藩に加増転封され、形原藩は廃藩となった[1]。
歴代藩主
[編集]- 松平(形原)家
譜代。1万石。
- 家信(いえのぶ)
領地
[編集]分布と変遷
[編集]形原家は三河国に13か村を有し、元和4年(1618年)に安房国内で5000石を加増された[1]。
地理
[編集]形原
[編集]形原は『和名抄』にも見られる地名で、古代の形原郷は現在の蒲郡市形原町周辺一帯と比定されている[2]。室町時代、寛正6年(1465年)の額田郡一揆以降に松平氏一族が進出し[16]、形原松平家が形成された[3]。江戸時代に編纂された『寛政譜』等の系譜によれば、松平信光の四男・松平与副が中山郷から形原に移ったと記され[4]、与副を初代として家広は4代目にあたる[10]。ただし、松平氏の形原進出の状況や系譜関係には諸説ある[3][16][注釈 8]。
元和5年(1619年)の松平家信の転出により、三河国の13か村は収公され[1]、同年末には松平清直(長沢松平家)に与えられた[1][12]。松平清直は形原に陣屋を置く5000石の交代寄合となったが[1]、延宝元年(1673年)に3代目の松平信実が無嗣のまま没し断絶[12][注釈 9]。延宝8年(1680年)、5000石の旗本であった松平乗親(大給松平家分家)の知行地となるが、正徳2年(1712年)に収公[12][注釈 10]。その後、享保年間には旗本3家の相給となる[12]。そのうちの1人、巨勢至信は徳川吉宗の従兄弟(生母浄円院の甥)で、加増を重ねて享保17年(1732年)には5000石に達し、形原に陣屋を置いた[12][注釈 11]。
江戸時代、形原村には歴代領主が陣屋を置いたが、形原松平家・長沢松平家・巨勢家の陣屋はそれぞれ別の地点であり、『蒲郡の諸城』などの文献では「形原陣屋」に以下のように記号を付して区別している[22]。
- 形原陣屋A(形原町御獄) - 巨勢家の陣屋。別名「形原役所」[13][22]。
- 形原陣屋B(形原町西御屋敷) - 松平清直の陣屋[13]。
- 形原陣屋C(形原町東古城) - 形原松平家の陣屋。別名「稲生城」。跡地には古城稲荷神社が立つ[13]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「形原」は古くは「かたのはら」であった。『和名抄』に「加多乃波良」[2]、『家忠日記』に「かたのハら」とあり[3]、『寛政重修諸家譜』でも「かたのはら」と振り仮名を付している[4]。現代では一般に「かたはら」と読まれ[5][6]、当地に所在する名古屋鉄道の駅(形原駅)や児童館[7]等の公共施設も「かたはら」であるが、「かたのはら」の読みも残るという[6]。形原郵便局は2017年に「かたのはら」から「かたはら」に読みを変更した[8]。
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 同時代の松平一族には「家忠」を名乗った人物が複数いる。『家忠日記』を記した深溝松平家の松平家忠(主殿助)や、東条松平家の松平家忠(甚太郎)は別人。
- ^ 『寛政譜』では、家信は永禄8年(1565年)生まれと記す一方、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで武功を挙げた際に16歳とも記しており[11]矛盾がある。天正10年(1582年)時点の年齢は、前者によれば18歳、後者によれば14歳となる。
- ^ 『寛政譜』によれば、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵に際して家信は「船手のことをうけたまはり」、家臣に命じて兵船1隻を肥前名護屋に派遣するとともに、家信自身は江戸にとどまって浅草で船2隻を建造した[11]。
- ^ 『寛政譜』によれば、松平家房は元和3年(1617年)に鳥居忠政に附属され、家臣となったとされる[10]。松平家広の娘の一人(家忠・家房兄弟の姉妹にあたる)が鳥居元忠に嫁ぎ、その間に生まれたのが忠政である。家房の長男・松平広房の子孫は鳥居家の家臣として続いたが、二男・石川正重、三男・松平正成は旗本となった。
- ^ のち額田郡に所属[1][15]。
- ^ 文亀元年(1501年)に作成された松平一門の連判状(大樹寺文書)には「形原左近将監貞光」の名がある[3][16]。岡崎城主・松平光重(大草(岡崎)松平家初代に位置づけられる人物)は、形原に入った兄の遺児を後見したとする史料がある[17]。村岡(2008)は、光重の甥を与副とし、岡崎の光重・貞光父子の後見を受けたとする[18]。
- ^ 2代目の松平清須が弟に上之郷村など700石を分知しており、この系統は『寛政譜』編纂時も存続している。
- ^ 乗親の子・松平乗包は不行跡から家中騒動を引き起こし、正徳2年(1712年)に評定所の沙汰によって3000石に減知の上逼塞の処分を受けた[19]。
- ^ 旗本巨勢家は2家ある。享保3年(1718年)、浄円院が江戸城に迎えられた際、浄円院の甥である至信と、弟である由利が召し出されて旗本となり、最終的にはともに5000石を領した[20]。由利の家は長沢村(現在の豊川市長沢町)に陣屋を置いた[12][21]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k “形原藩”. 角川日本地名大辞典. 2024年11月22日閲覧。
- ^ a b “形原郷(古代)”. 角川日本地名大辞典. 2024年11月22日閲覧。
- ^ a b c d “形原(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年11月22日閲覧。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第二十三「松平 形原」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.120。
- ^ “蒲郡市の郵便番号一覧”. 郵便番号検索. 日本郵便. 2024年11月22日閲覧。
- ^ a b 蒲郡市立図書館(回答). “形原のことをお年寄りが「かたのはら」と呼ぶが、昔は「かたのはら」だったのか。いつ頃から「かたはら」になったのかを知りたい。”. レファレンス協同データベース. 2022年11月22日閲覧。
- ^ “かたはら児童館”. 蒲郡市. 2024年11月22日閲覧。
- ^ “改称:形原郵便局(愛知県)”. 日本郵便. 2024年11月22日閲覧。
- ^ 『藩と城下町の事典』, p. 345.
- ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第二十三「松平 形原」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.121。
- ^ a b c d e f g h i j 『寛政重修諸家譜』巻第二十三「松平 形原」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.122。
- ^ a b c d e f g “形原村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年11月22日閲覧。
- ^ a b c d “三河 形原陣屋”. 城郭写真記録. 2021年11月8日閲覧。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第二十三「松平 形原」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.123。
- ^ “荻村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2024年11月22日閲覧。
- ^ a b c 村岡幹生 2008, p. 47.
- ^ 村岡幹生 2008, p. 53.
- ^ 村岡幹生 2008, p. 56.
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第十二「松平 大給」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.46。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第千三百六十八「巨勢」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第八輯』p.161。
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第千三百六十八「巨勢」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第八輯』p.163。
- ^ a b 蒲郡市立図書館(回答). “明治期の宝飯地区において、以下の人物の概要が知りたい。巨勢大隅守利光、通称鎌吉”. レファレンス協同データベース. 2021年11月8日閲覧。
参考文献
[編集]- 二木謙一監修、工藤寛正編『藩と城下町の事典』東京堂出版、2004年。
- 村岡幹生「大草・岡崎松平家の光重・貞光父子と初期の形原松平家」『愛知県史研究』第12号、2008年。doi:10.24707/aichikenshikenkyu.12.0_47。