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平沢隆好

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平沢 隆好
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛知県一宮市
生年月日 (1953-07-30) 1953年7月30日(71歳)
身長
体重
178 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1975年 ドラフト5位
初出場 1978年4月13日
最終出場 1982年7月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

平沢 隆好(ひらさわ たかよし、1953年7月30日 - )は、愛知県一宮市出身の元プロ野球選手投手[1]

来歴・人物

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津島高卒業後の1974年日本通運名古屋へ入社し、1975年都市対抗では補強選手となるも登板は無かった。

同年のドラフト5位で南海ホークスに入団[1]。スライダー、シュートが武器であったが、最初の2年間は二軍生活を送る。2年目の1977年はケガ続きで、ウエスタン・リーグでも4試合にしか投げられなかったが、江夏豊らが抜けた投手陣で「ワンポイントでも左なら使えるだろう」と一軍入り。3年目の1978年4月13日近鉄戦(大阪)で初登板を果たし、8回表から星野秀孝佐々木宏一郎の3番手で2回を無失点に抑えた。6月12日の近鉄戦(日生)では初先発を果たすが、6回0/3を2失点で初敗戦。8月19日ロッテ戦(大阪)では先発で二塁も踏ませないという完璧なピッチングをし、5安打散発のシャットアウト勝ちでプロ初勝利を飾った。首脳陣が左腕不足に頭を抱え、唯一、実績のある星野が投げられず、上田卓三サブマネージャーを現役復帰させるなどしていた中、平沢は初完投初完封初勝利という離れ業をやってのけた。1980年にはフォームを左腕の横手投げに変え、8月16日のロッテ戦(大阪)で2回途中から田村政雄を救援してシュート、スライダーでうまく攻め、1失点のロングリリーフで1年ぶりの勝ち星を挙げた。これが最後の勝ち星となり、1981年には開幕直後こそ一軍に名を連ねるも二軍落ち。左打者用のワンポイントに使ってみても四球や安打を許したため、首脳陣が二軍で鍛え直しを命じたが、一軍再昇格後は好投。8月15日日本ハム戦(大阪)では4回までに3失点の山内新一の2番手で5回からマウンドに上がったが、残りの5回を被安打3の無失点に切り抜けた。板に付いた新しいフォームでカーブ、シュートを巧みに操り、上手から投げるストレートは重く入った。同18日の近鉄戦(日生)でも3回途中から登板し、5回を被安打2の無失点に抑えた。チームは3-3で引き分けたが、ドン・ブレイザー監督は「平沢の好投が光った。こんな投球をしてくれるのなら、ローテーション入りも考える」と言った。3試合11イニング無失点と首脳陣の期待に応えていたが、30日阪急戦(西宮)の6回に山内新をリリーフして登板し、6、7回を無難に抑えるも、8回に先頭の中沢伸二に左翼席へ6号本塁打をかけられ、これが決勝打となり敗戦。1983年には一軍登板が無くなり、自由契約となったため現役を引退。

引退後は南海→ダイエーで打撃投手1984年 - 1992年)を務めた。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1978 南海 23 5 1 1 0 1 4 0 -- .200 278 64.2 75 11 19 0 2 20 0 0 44 40 5.54 1.45
1979 33 13 2 0 1 2 11 0 -- .154 427 94.1 113 20 41 1 3 37 0 0 79 74 7.09 1.63
1980 18 1 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 152 33.1 44 9 12 0 0 20 0 0 27 27 7.36 1.68
1981 12 0 0 0 0 0 2 0 -- .000 79 18.0 19 3 6 0 1 8 0 0 10 9 4.50 1.39
1982 15 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 82 17.2 21 4 8 1 0 7 0 0 11 11 5.50 1.64
通算:5年 101 19 3 1 1 4 17 0 -- .190 1018 228.0 272 47 86 2 6 92 0 0 171 161 6.36 1.57

記録

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  • 初登板:1978年4月13日、対近鉄バファローズ前期2回戦(大阪スタヂアム)、8回表から3番手で救援登板・完了、2回無失点
  • 初先発登板:1978年6月12日、対近鉄バファローズ前期10回戦(日本生命球場)、6回0/3を2失点で敗戦投手
  • 初勝利・初先発勝利・初完投勝利・初完封勝利:1978年8月19日、対ロッテオリオンズ後期7回戦(大阪スタヂアム)

背番号

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  • 42 (1976年)
  • 34 (1977年 - 1983年)
  • 93 (1984年 - 1989年)[2]
  • 102 (1990年 - 1992年)[3]

脚注

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  1. ^ a b 『南海ホークスFOREVER』、ベースボールマガジン社、2015年12月、P79。
  2. ^ “背番号の変遷(No.81~100)”. 福岡ソフトバンクホークス. https://www.softbankhawks.co.jp/ocms/pc/team/number/number05.html 2020年10月3日閲覧。  ※一覧のデータが1989年以降のものであるため、1988年以前に着用していたことは示されていない。
  3. ^ “背番号の変遷(No.101~120)”. 福岡ソフトバンクホークス. https://www.softbankhawks.co.jp/ocms/pc/team/number/number06.html 2020年10月3日閲覧。 

関連項目

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