平岩吉範
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 生年不明 |
死没 | 元和5年4月25日(1619年6月7日) |
別名 |
吉軌 通称:助太郎、掃部 |
戒名 | 善養院殿法誉道活大禅定門 |
墓所 | 専念寺(愛知県犬山市) |
主君 | 平岩親吉、徳川義直 |
藩 | 尾張藩 犬山城代、成瀬隼人正組同心組頭 |
氏族 | 平岩氏 |
父母 | 父:平岩康長、母:本多重次の娘? |
兄弟 | 吉範、縫殿、伯耆、杢之助 |
子 | 吉縁、吉忠、松平新五左衛門室、鈴木助左衛門室、平岩五左衛門室、鈴木隆次室 |
平岩 吉範(ひらいわ よしのり)は、江戸時代前期の尾張藩士。犬山城の城代[1]。
犬山城主平岩親吉の甥。通称は助太郎[2]、掃部[3]。名は吉軌とも書かれる[4]。
生涯
[編集]天正18年(1590年)、小田原征伐の武蔵国岩槻城攻略戦で父が戦死した後、上野国厩橋(前橋)を領する大名となった伯父の親吉に仕えて2000石を与えられ[5]、6組の備からなる平岩家臣団のうち1組を預かった[6]。
慶長12年(1607年)、徳川家康の九男徳川義直が尾張藩主となり、その傅役である親吉は犬山城を与えられた。尾張に入部した親吉は駿府城の家康の下で養育されている義直に代わって清洲城(のち名古屋城)で国政を執り、吉範を城主不在の犬山城の城代とした[7]。
慶長16年12月30日(1612年2月1日)に親吉が名古屋城で病死すると、吉範は徳川義直の直臣となった[5]。犬山城は後任の城主が置かれずに空き城とされ、吉範が引き続き城代を務めた[1]。このため犬山城主の歴代を挙げる際に、親吉死去から成瀬氏入城までの間の城主に平岩吉範を数えることもある[2]。
慶長19年(1614年)・20年(1615年)の大坂の陣に当たって平岩親吉旧臣の6組は3隊に再編されて成瀬正成と渡辺守綱の指揮下に入れられたが、吉範は病気のために出陣できずに名代として弟の平岩伯耆に隊を率いさせ[6]、犬山城を守衛した[8]。
元和3年(1617年)、犬山城が義直の御附家老である成瀬正成に与えられ、犬山城代を成瀬家臣の千田胤保と交代した[9]。吉範が率いて犬山城を守衛してきた平岩掃部組は他の親吉旧臣3組とともに成瀬正成に同心として附属され、吉範は引き続き組頭となった[10]。
元和5年(1619年)死去し、犬山における平岩家の菩提所[11]となる専念寺に葬られた。墓は同心組頭を世襲した子孫[5]の墓とともに同寺に現存する[12]。
系譜
[編集]参考文献
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 成瀬美雄編『犬山城沿革』智仁勇社, 1937年, pp.15-16.
- ^ a b 横山住雄『犬山城史 : 新編』横山住雄, 1968年, pp.50-51.
- ^ a b 『寛政重脩諸家譜』第7輯, 國民圖書, 1923年, p.133.
- ^ 深田正韶等編 『尾張志 7 羽栗郡』博文社, 1898年, pp.59-60.
- ^ a b c d e f g h i 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 続編 第17巻 士林泝洄 第1』名古屋市教育委員会, 1966年, pp.174-175.
- ^ a b 名古屋市編『名古屋市史 政治編 第1』名古屋市, 1915, p.420.
- ^ 名古屋市編『名古屋市史 人物編 第1』川瀬書店, 1934年, p.97.
- ^ 名古屋市編『名古屋市史 政治編 第1』名古屋市, 1915年, p.97.
- ^ 可児桝太郎『日本ラインの犬山』犬山町保勝会, 1936年, p.48.
- ^ 名古屋市教育委員会編『名古屋叢書 第4巻 記録編 第1』名古屋市教育委員会, 1962年, p.208.
- ^ 愛知県教育委員会文化課編『愛知県の近世社寺建築 : 近世社寺建築緊急調査報告書』愛知県教育委員会, 1980年, p.50.
- ^ 横山住雄『犬山市の金石文』石黒印刷, 1970年, p.16.