平岩康長
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 生年不明 |
死没 | 天正18年5月20日(1590年6月21日) |
別名 | 通称:助六郎 |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 平岩氏 |
父母 | 父:平岩親重、母:某氏 |
兄弟 | 親吉、正広、康重、山田半右衛門室、康長、平岩真野左衛門室、渡辺守綱室、山田内右衛門室 |
妻 | 本多重次の娘 |
子 | 吉範、縫殿、伯耆、杢之助 |
平岩 康長(ひらいわ やすなが)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。
生涯
[編集]兄弟と同じく徳川家康に仕えていたが、榊原康政と不仲となり、仕えを辞して兄である親吉の家に蟄居した[1][2]。
天正18年(1590年)、小田原征伐において武蔵国岩槻城の攻略戦に参加し、本戦2日目の5月20日に鳥居元忠、親吉らの徳川勢が城内に突入した際に迎撃する岡野房恒らと激戦となり、康長は城兵と槍を合わせて奮戦した末に戦死した[2]。