岩沢庸徳
いわさわ つねのり 岩澤 庸徳 | |
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生年月日 | 1912年2月12日 |
没年月日 | 1970年10月3日(58歳没) |
出生地 | 日本 東京府東京市 |
職業 | 映画監督、脚本家 |
ジャンル | 劇場用映画(現代劇) |
活動期間 | 1940年 - 1964年 |
著名な家族 |
長男 岩沢幸矢 次男 岩沢二弓 |
主な作品 | |
脚本 『そよかぜ』 監督 『阿蘭』 |
岩澤 庸徳(いわさわ つねのり、1912年2月12日 - 1970年10月3日)は、日本の映画監督、脚本家である[1][2][3][4][5][6][7][8]。新漢字表記岩沢 庸徳。並木路子『リンゴの唄』を挿入歌とした映画『そよかぜ』の脚本家として知られる[4][5][6]。台湾に招かれて監督した1958年(昭和33年)に公開された『阿蘭』は同地で大ヒットを記録した[9][10]。長男・次男はのちに長じてフォークデュオ「ブレッド&バター」を結成した[11]。
人物・来歴
[編集]松竹大船の時代
[編集]1912年(明治45年)2月12日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[1][2]。
日本美術学校図案科(現在の日本美術専門学校デザイン科)を卒業し、松竹大船撮影所に入社する[1][2][12]。当初は美術部に配属されたが、企画部に異動、次いで助監督部に転じた[1][2][12]。同部では、小津安二郎門下の原研吉に師事する[1]。1940年(昭和15年)8月1日に公開された五所平之助監督の『木石』ではサード助監督、同年12月16日に公開された『幸福な家族』ではセカンドであった[6]。第二次世界大戦が始まり、松竹のみならず日本映画全体の製作本数が激減する。1943年(昭和18年)7月11日、満31歳のときに長男・幸矢が生まれる。戦争末期の1945年(昭和20年)6月28日、同じ助監督部の岩間鶴夫と共同で脚本を執筆した映画『ことぶき座』(監督原研吉)が公開され、脚本家としてデビューした[4][5][6]。
戦後間もない同年10月11日、戦時中に執筆していた『百万人の合唱』という題の脚本を改稿・改題し[13]、『そよかぜ』(監督佐々木康)として公開される[3][4][5][6]。同作は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)検閲第1号の映画としても知られるが、並木路子が劇中で歌った『リンゴの唄』のレコードが12万枚(1947年末時点)も売れ、同作とともに大ヒットを生んだ[14]。1947年(昭和22年)1月21日には、新藤兼人・中山隆三と共同で執筆したオリジナル脚本が『仮面の街』(監督原研吉)として公開され、同年11月11日には、中山の脚本を映画化した『乙女の祈り』という短篇映画を監督し、初監督を経験する[4][5][6]。正式に監督昇進したのは1949年(昭和24年)で、ふたたび中山の脚本を得て、清水金一の主演作『シミキンの忍術凸凹道中』を監督、同作は同年5月23日に公開された[1][4][5][6]。同年2月23日には次男・二弓が生まれている。
フリーランス以降
[編集]その後、同社を退社してフリーランスの監督となる[1]。1954年(昭和29年)10月13日には、産業経済新聞の人気連載絵物語『少年ケニア』を脚色・監督して映画化、大映が配給して公開されている[4][5][6]。1956年(昭和31年)5月11日には、新東宝で37分の中篇映画『肉体の魅惑』を監督、公開されている[4][5][6]。1957年(昭和32年・民國46年)、映画監督の田口哲[15]、撮影技師の宮西四郎[16]、照明技師の法島繁義[17] らとともに、台湾の映画会社・長河有限公司に招かれ、岩沢は小艶秋を主演に『紅塵三女郎』、および游娟を主演に『阿蘭』を監督し、それぞれ、同年8月28日、1958年(昭和33年・民國47年)1月29日に台湾で公開された[8][9][10]。游娟は『紅塵三女郎』にも出演しており、同作が女優デビュー作であり、同2作の成功により、『影劇周報』誌上の読者投票でベストテン入りしている[10]。『阿蘭』に出演した俳優の石軍は、現在の金馬奨の前身である、徵信新聞社主催「第一回台語片電影展覽會」で、最優秀男優賞にノミネートされた[10]。『阿蘭』は同年の台湾において第10位の興行成績を上げた[10]。田口はこのとき『太太我錯了』を撮り、同年5月13日に公開されている[9]。『日本電影在臺灣』によれば、田口の『太太我錯了』は『麻薬と愛情』、岩沢の『紅塵三女郎』は『明日売られた女』という題で日本でも正式に公開されたとしている[9]。
1959年(昭和34年)には、古巣の松竹が製作した連続テレビ映画『花の家族』(フジテレビジョン)で監督として起用され、同年3月2日から1クールの放映が開始している[7]。『日本映画監督全集』の岩沢の項には、フリーランスの時期、読売映画社(現在の読売映像)や太平洋テレビジョンで作品を発表していた旨の記述がみられる[1]。太平洋テレビジョンは1964年(昭和39年)2月、同社代表の清水昭が法人税法違反で告発される、いわゆる「太平洋テレビ事件」(1974年4月13日無罪確定)が起きているが[18][19]、岩沢が活動したのがどの時期であるかは不明である。同年8月17日には、祖父江羊己が設立した中映プロダクションの製作第1作『行為の果て』(監督辰巳敏輝)に脚本を提供している[4][6]。同作の監督名は同時代資料である『映画年鑑 1966』には、辰巳敏輝ではなく小林悟と記されているが[20]、出演者名も他の資料と異なる[4][6]。1968年(昭和43年)には『ケロヨンの大自動車レース』を監督し、公開されている[21]。記録の上では、同作が劇場用映画に関わった最後の作品であるが[3][4][5][6][7][21]、その後の詳細は不明である。
1970年(昭和45年)10月3日、心不全のため死去した[1][2]。満58歳没。亡くなる1年前の1969年(昭和44年)9月25日、子息たちが結成したフォークデュオ、ブレッド&バターがシングルレコード『傷だらけの軽井沢』(作詞橋本淳、作編曲筒美京平)を発表して、デビューしている[11][22]。
フィルモグラフィ
[編集]クレジットは「監督」を始めすべて明記した[1][3][4][5][6][7][8]。東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[3]。
- 『木石』 : 監督五所平之助、原作舟橋聖一、脚色伏見晁、製作松竹大船撮影所、配給松竹、1940年8月1日公開 - 助監督、124分の上映用ポジプリントをNFCが所蔵[3]
- 『幸福な家族』 : 監督原研吉、原作武者小路実篤、脚色柳井隆雄、製作松竹大船撮影所、配給松竹、1940年12月16日公開 - 監督補助、衛星劇場が放映[23]
- 『ことぶき座』 : 監督原研吉、製作松竹京都撮影所、配給映画配給社(白系)、1945年6月28日公開 - 岩間鶴夫と共同で脚本、65分の上映用ポジプリントをNFCが所蔵[24]
- 『そよかぜ』 : 監督佐々木康、製作松竹大船撮影所、配給映画配給社(白系)、1945年10月11日公開 - 脚本、60分の上映用ポジプリントをNFCが所蔵[3]・衛星劇場が放映[25]
- 『仮面の街』 : 監督原研吉、製作松竹大船撮影所、配給松竹、1947年1月21日公開 - 新藤兼人・中山隆三と共同で原作・脚本
- 『乙女の祈り』 : 脚本中山隆三、製作国際映画、配給松竹、1947年11月11日公開 - 監督
- 『シミキンの忍術凸凹道中』 : 脚本中山隆三、製作松竹大船撮影所、配給松竹、1949年5月23日公開 - 監督、衛星劇場が放映
- 『少年ケニア』 : 原作山川惣治、製作南旺映画、配給大映、1954年10月13日公開 - 監督・脚本
- 『肉体の魅惑』 : 製作・配給新東宝、1956年5月11日公開 - 監督
- 『紅塵三女郎』 : 撮影宮西四郎、製作・配給長河有限公司、1957年8月28日公開 - 監督[8]
- 『阿蘭』 : 製作長河有限公司・高和有限公司、配給長河有限公司、1958年1月29日公開 - 監督[8]
- 『花の家族』 : 脚本山下与志一・有馬正彦、製作松竹/フジテレビジョン、1959年3月2日 - 同年5月25日放映 - 監督(連続テレビ映画)
- 『行為の果て』 : 製作祖父江羊己、監督辰巳敏輝[4][6](小林悟[20])、主演扇町京子、製作中映プロダクション、配給新東宝興業、1964年8月17日公開(映倫番号 13646) - 脚本
- 『ケロヨンの大自動車レース』 : 総監督・美術藤城清治、音楽いずみたく、配給木馬座、1968年公開 - 監督[21]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j キネ旬[1976], p.59.
- ^ a b c d e 岩沢庸徳、jlogos.com, エア、2014年6月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g 岩沢庸徳・岩澤庸徳、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年6月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 岩沢庸徳、日本映画情報システム、文化庁、2014年6月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 岩沢庸徳、日本映画製作者連盟、2014年6月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 岩沢庸徳、日本映画データベース、2014年6月24日閲覧。
- ^ a b c d 岩沢庸徳、テレビドラマデータベース、2014年6月24日閲覧。
- ^ a b c d e 岩澤庸德、台湾電影資料庫、国立政治大学 、2014年6月24日閲覧。
- ^ a b c d 黄[2008], p.235-236, 295.
- ^ a b c d e 新聞局[2008], p.79, 163.
- ^ a b profile、ブレッド&バター、2014年6月24日閲覧。
- ^ a b シミキンの忍術凸凹道中、日本映画情報システム、文化庁、2014年6月24日閲覧。
- ^ 朝日[1987], p.6.
- ^ 石川[1979], p.35.
- ^ 田口哲 - 日本映画データベース、2014年6月24日閲覧。
- ^ 宮西四郎 - 日本映画データベース、2014年6月24日閲覧。
- ^ 法島繁義 - 日本映画データベース、2014年6月24日閲覧。
- ^ 朝日[1988], p.125.
- ^ 第75回国会 決算委員会 第12号 昭和五十年六月十八日、国立国会図書館、2014年6月24日閲覧。
- ^ a b 年鑑[1966], p.326.
- ^ a b c ケロヨンの大自動車レース、国立国会図書館、2014年6月24日閲覧。
- ^ 筒美京平 作曲家45周年記念 6社共同企画「筒美京平 GOLDEN HITSTORY また逢う日まで」2012年12月26日発売!、ユニバーサルミュージック、2012年12月12日付、2014年6月24日閲覧。
- ^ 幸福な家族、スカパー!、2014年6月24日閲覧。
- ^ ことぶき座、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年6月24日閲覧。
- ^ そよかぜ、衛星劇場、2014年6月24日閲覧。
参考文献
[編集]- 『映画年鑑 1966』、時事通信社、1966年発行
- 『日本映画監督全集』、キネマ旬報第698号、キネマ旬報社、1976年発行
- 『余暇の戦後史』、石川弘義、東京書籍、1979年10月 ISBN 448772144X
- 『戦後芸能史物語』、朝日新聞学芸部、朝日新聞社、1987年 ISBN 4022594446
- 『朝日年鑑 1988』、朝日新聞社、1988年2月 ISBN 402220088X
- 『台灣影視歌人物誌1950-1965』、行政院新聞局、2008年3月 ISBN 9789860134841
- 『日本電影在臺灣』、黄仁、秀威資訊、2008年12月1日 ISBN 9789862211205
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Yotoku Iwasawa - IMDb
- 岩沢庸徳 - KINENOTE
- 岩沢庸徳 - allcinema
- 岩沢庸徳 - 日本映画データベース
- 岩沢庸徳、岩澤庸徳 - 東京国立近代美術館フィルムセンター
- 岩沢庸徳 - 日本映画情報システム(文化庁)
- 岩沢庸徳 - 日本映画製作者連盟
- 岩沢庸徳 - テレビドラマデータベース
- 岩沢庸徳 - jlogos.com (エア)
- 岩澤庸德 - 台湾電影資料庫(国立政治大学)