山口波津女
やまぐち はつじょ 山口 波津女 | |
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生誕 |
1906年10月25日 日本・大阪府大阪市北区中之島 |
死没 | 1985年6月17日(78歳没) |
職業 | 俳人 |
活動期間 | 1924年(大正13年) - 1985年(昭和60年) |
著名な実績 | 夫・山口誓子主宰『天狼』の同人 |
山口 波津女(やまぐち はつじょ、1906年〈明治39年〉10月25日 - 1985年〈昭和60年〉6月17日[1])は、日本の俳人。山口誓子の妻。本名は梅子。
略歴
[編集]浅井義晭(よしてる)・まさ夫妻の長女として、大阪市北区中之島に生まれる。大阪商船に務める父が1909年(明治42年)に韓国仁川の支店長として赴任したのに伴い、仁川に移住した。次いで1914年(大正3年)父の香港支店長として赴任に伴い、香港に移住した。
帰国すると1919年(大正8年)に大阪市東区宰相山町(現・天王寺区の三光神社の近隣)に居住した。近くの大阪府立清水谷高等女学校(現・大阪府立清水谷高等学校)に入学。1923年清水谷高女を卒業後、大手前之町の大阪府立大手前高等女学校(現・大阪府立大手前高等学校)の高等科に入学した。
人物
[編集]1922年(大正11年)父の義晭が「啼魚」の俳号で、「水無月句会」という家族句会を始める。
1924年肺尖カタルと診察され、兵庫県西宮市の高級住宅街「香櫨園」(西宮七園)にて転地療養。1926年、自宅に高浜虚子や村上鬼城が来泊。俳号に「波津女」を使い始める。
1927年(昭和2年)山口誓子に俳句の指導を受け始め、翌1928年10月2日に誓子と結婚。波津女の実家の敷地に新居を構え、本格的に句作を始める。
1937年7月、社団法人日本放送協会関西支部のラジオ放送「婦人俳句の鑑賞」に出演する。同年、父の義晭(浅井啼魚)が死去。1945年、太平洋戦争末期の大阪大空襲で自宅を焼失。蔵書や家財など一切を失う。
俳句雑誌『ホトトギス』『馬酔木』の同人を経て、1948年に夫・誓子の主宰『天狼』創刊と同時に同人となる[2]。
1951年6月、第一句集『良人』(りょうじん)発刊。1953年、西宮七園の一つ苦楽園へ転居。1956年、母まさ死去。1965年、誓子と日本中を旅行する。1974年8月、第二句集『天楽』を発刊。
1985年6月17日、心不全のため死去。享年78。2年後1987年10月、遺句集として第三句集『紫玉』が刊行された。
波津女に先立たれた誓子だったが、誓子の療養生活では波津女が献身的に看病した。誓子は「妻にして母、主婦にして看護婦」と波津女を評するほど、深い愛情で結ばれていた[1]。
なお、波津女は遺産を神戸大学に寄贈している。誓子と波津女の自宅は阪神・淡路大震災で倒壊したため、跡地に句碑と記念碑が建立された。神戸大学文理農学部キャンパス(神戸市灘区)に自宅が再現され、山口誓子記念館として不定期に公開されている。
著作
[編集]句集に『良人』『天楽』など。
代表句
[編集]- 『穀象と いふ虫をりて 妻泣かす』(良人)[2]。
- 『毛糸編み 来世も夫に かく編まん』[1]
- 『金魚夜を 如何に過すや 人は寝る』[1]
- 『松過ぎて なほ賀状来る 賀状出す』[1]
- 『聖菓切る キリストのこと 何も知らず』[3]
- 『けふ貼りし 障子に近く 墨を摺る』[3]
- 『煤籠り 昼餉の時の すぎにけり』[3]
- 『虹立つも 消ゆるも音を 立てずして』[3]
- 『香水の 一滴づつに かくも減る』[3]