富山県道54号福光上平線
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主要地方道 | |
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富山県道54号 福光上平線 主要地方道 福光上平線 | |
実延長 | 26.505 km |
制定年 | 1973年富山県認定、1982年主要地方道昇格 |
起点 | 刀利ダム前 富山県南砺市刀利【北緯36度28分16.9秒 東経136度48分22.3秒 / 北緯36.471361度 東経136.806194度】 |
終点 | 南砺市西赤尾町【北緯36度23分0.8秒 東経136度52分19.8秒 / 北緯36.383556度 東経136.872167度】 |
接続する 主な道路 (記法) |
富山県道10号金沢湯涌福光線 国道156号 |
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富山県道54号福光上平線(とやまけんどう54ごう ふくみつかみたいらせん)は、富山県南砺市を通る主要地方道(富山県道)である。
概要
[編集]南砺市刀利から小矢部川の源流を遡り、五箇山と呼ばれる庄川筋の南砺市西赤尾町まで、ブナオ峠を越えて連絡している。古くは塩硝街道とよばれ、五箇山で産出した塩硝を金沢まで運ぶ重要なルートであった。
近年は土砂崩れなどの災害を受けており、現在は、中河内(なかのこうち) - ブナオ峠の区間は事実上、車両の通行ができない。西赤尾町 - ブナオ峠の区間も土砂崩れによる災害を受けることが多く、また車道もすれ違いが困難でかつ、急勾配が続くことから、険道の要素を含んでいる。
路線データ
[編集]歴史
[編集]- 1925年(大正14年):福光から刀利までの馬車道路が開通する。
- 1935年(昭和10年):下小屋まで林道が開通する。
- 1954年(昭和29年):中河内から下小屋まで林道開発、大型車が通る。
- 1965年(昭和40年):ブナオ峠までの林道810m完成。
- 1966年(昭和41年)8月:滝谷トンネル(建設当初は中河内トンネル)建設を開始。
- 1966年(昭和41年)12月18日:滝谷トンネルが貫通する。
- 1967年(昭和42年)3月:滝谷トンネルが完成する。
- 1968年(昭和43年):林道ブナオ線(総延長16km、幅員3.6m)開通する。
- 1973年(昭和48年)3月31日:県道に昇格し、刀利西赤尾線として路線認定。
- 1982年(昭和57年)
- 1993年(平成5年)5月11日 : 建設省から、県道福光上平線が福光上平線として主要地方道に再指定される[2]。
路線状況
[編集]通称
[編集]- 塩硝街道
冬期閉鎖区間
[編集]- 南砺市刀利(刀利トンネル) - ブナオ峠 - 同市西赤尾町 26.5 km
- 起終点には道路情報掲示板の電光式A型(オーバーヘッド形式で遠隔操作ができるもの)が設置されている。
トンネル
[編集]- 刀利トンネル (83m)
- 南砺市刀利にあるトンネル。幅員4.0m。上平側ではスノーシェッドと一体となっている。内部には照明がない。
- 滝谷トンネル (409m)
- 南砺市滝谷にあるトンネル。ポータル上部の銘板には「瀧谷隧道」と揮毫されている。幅員4.0m。高さは4.9mあるものの、3.0m以上の車両の通行を制限している。上平側でカーブしているため、全体を見通せない。このため、トンネル両側にはセンサーが取り付けられ、先入車優先の片側交互通行の形式となっている。
地理
[編集]通過する自治体
[編集]交差する道路
[編集]- 富山県道10号金沢湯涌福光線(南砺市刀利)
- 林道城福線(南砺市刀利)
- 国道156号(南砺市西赤尾町)
沿線にある施設など
[編集]- 小矢部川
- 刀利ダム
- 長瀞峡
- 不動滝
- ブナオ峠:南砺市刀利と同市西赤尾町との境にある峠。小矢部川水系と庄川水系の分水嶺でもある。大門山・奈良岳方面への登山道入り口がある。『三洲測量図籍』によると、「ブナヲ峠」とある。大門山 - ブナオ峠 - 猿ヶ山を結ぶラインが五箇山(五ヶ山)境であった。
沿線集落跡
[編集]- 刀利:刀利集落はダム水没に伴い、1961年(昭和36年)に解村式を行い、1963年(昭和38年)に廃村。水没地東方山頂に刀利城跡があり、城主は宇野宗右衛門で佐々成政、前田利家に仕えたという。刀利は下刀利と上刀利に分かれ、現在の刀利山崎公園の直下、標高554mの丸山の南方に下刀利、700mほど上流に上刀利があった。上刀利には学校があった。
- 瀧谷:上刀利の更に上流にあった集落。ダム水没に伴い、1961年(昭和36年)に解村式を行い、1962年(昭和37年)廃村。
- 中河内:刀利ダムからの水没は免れたが1966年(昭和41年)に解村式を行い、廃村。現在は無住地。現在の国土地理院の地形図には地名すら載っていない。福光町立南部小学校中河内分校・福光町立福光中学校中河内分校跡の石柱が立てられている。この地は江戸期には遊廓があり、「中河内で見たような女郎が、今朝は湯涌の町で見た」の小唄[3]が残されている。昭和初期まで、ここから赤堂(あかんどう)山、大倉山を越えて、石川県石川郡犀川村の倉谷集落に通ずる道があった[4]。
- 下小屋:猿ヶ山西麓にあった集落。中河内と同様、刀利ダムからの水没は免れたものの、1966年(昭和41年)に解村式を行い、廃村。現在は無住地。現在の国土地理院の地形図には地名すら載っていない。福光町立太美山小学校下小屋分校跡の石柱が立てられている。昭和初期まで、ここから月ヶ原山を越えて、石川県石川郡犀川村の倉谷集落に通ずる道があった。1821年(文政4年)8月測量の『三洲測量図籍』[5]によると、「下古屋」とある。