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宮古 (通報艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宮古
基本情報
建造所 呉鎮守府造船部[1]
(呉海軍造船廠)
運用者  大日本帝国海軍
艦種 通報艦[2]
母港 佐世保[3]
艦歴
計画 1893年度
発注 1893年5月10日指令[4]
起工 1894年5月26日[5]
進水 1897年10月27日[6][7]
竣工 1899年3月31日[8]
最期 1904年5月14日触雷沈没[1]
除籍 1905年6月15日
その後 売却
要目(計画)
排水量 1,800ロングトン (1,829 t)
または1,772ロングトン (1,800 t)[1]
垂線間長 96.0 m[6]
最大幅 10.500 m
吃水 平均:4.0 m[6] (前部:3.400m、後部:4.600m)
ボイラー 英海軍型低円缶 8基[9]
主機 3気筒レシプロ[10]
推進 2軸
出力 強圧通風:6,130 hp (4,571 kW)[6]
自然通風:4,140 hp (3,087 kW)
帆装 2檣 (計画のみ[11])
速力 強圧通風:20ノット (37 km/h)[6]
自然通風:18ノット (33 km/h)
燃料 石炭庫容量:400ロングトン (406 t)
乗員 計画乗員:227名
竣工時定員:230名[12]
兵装 12センチ速射砲英語版 2門
47mm速射砲英語版 6門
小銃口径機砲 4基
魚雷発射管 2門
探照灯 2基
搭載艇 9.150m小汽艇1隻、8.500mカッター2隻、8.250mギグ1隻、8.250mライフボート1隻、4.300mディンギー1隻
その他 船材:
出典の無い要目値は[13]による。
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宮古(みやこ)[2]は、日本海軍通報艦[1]で建造された最初の軍艦である[14]日露戦争において戦没した[1]

艦名は港湾の名前で、岩手県にある宮古湾による[1][注釈 1]。 一方、片桐大自は艦名の由来を「宮古列島」としている[15]

艦型

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艦政局造船課が計画した通報艦で、「八重山」の改良型になる[16]。 船体を複底に変更するなどで排水量が増大し、速力 (20ノット) を維持するために機関出力が増強された[16][注釈 2]

計画では帆装の予定だったが、建造中に装備を取りやめた[11]

機関

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機関もで製造された[10]ボイラーは英海軍型缶 (低円缶) 8基、蒸気圧力は160 psi (11 kg/cm2)[10]、または11.25kg/cm2[17]製で、直径8 ft 4+34 in (2.559 m)、長さ18 ft 0+116 in (5.488 m)[17]。 「宮古」建造の頃は円缶に故障が多発していた時期で[18]、 「宮古」も高速力試験を行った後に缶に故障が生じる[9]などしていた。 このためもあり国内建造軍艦では「宮古」が最後の円缶装備艦になり[19]、 その後は海外で実用化された水管缶の搭載が模索された[20]

主機は3気筒レシプロで気筒直径は高圧27+18 in (689 mm)、中圧40+18 in (1,019 mm)、低圧は60 in強[注釈 3]で行程は27+12 in (698 mm)[10]

出力は宮古の製造要領によると計画で6,130馬力[13]。 『帝国海軍機関史』によると計画で6,000馬力、実際が6,130馬力となっている[10]

兵装

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  • 式12センチ速射砲 2門[21] : 口径12cm。船首楼と船尾楼に各1門を装備、弾薬300発、空砲40発[13]
  • 重47ミリ式速射砲 6門[22] : 上甲板の両舷に装備、弾薬2,400発、空砲425発[13]
  • 軽47ミリ保式速射砲 4門[22] : 計画では小銃口径機砲4門を前後艦橋上に装備の予定[13]
  • 匕形加式伸縮自在旋回発射管 2門[23] : 口径:14インチ (35.6 cm)[23]、後部機械室上両舷に各1門を装備[13]
  • 探照灯 2基 : 艦橋上海図室の上に1基、船尾楼上に1基を装備[13]

1900年 (明治33年) の水雷発射成績表によると魚雷は旧保式十四伊水雷を使用している[23]

公試成績

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『帝国海軍機関史』に公試3,233馬力、強圧通風で144rpm、18.0ノット、自然通風で134rpm、17.7ノットの記録がある[24]

艦型の変遷

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最終時の兵装

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沈没後に引き揚げられた主要な兵器は以下の通り[25]

  • 安式12センチ速射砲 2門
  • 重47ミリ速射砲 6門
  • 軽47ミリ速射砲 4門
  • 魚雷発射管 1門
  • 保式14インチ (35.6 cm)魚雷 4本
  • 外装水雷 1個
  • 探照灯 2基
  • 無線電信機 1組

艦歴

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計画

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1891年明治24年)の軍艦建造予算は否決され続けてきたが、これに対し明治天皇が自らの宮中費を節約する方針を述べた建艦詔勅を出しようやく予算案が議会を通過したことにより、富士型戦艦、防護巡洋艦「明石」、「宮古」の建造が開始された[26]1893年 (明治26年) 4月11日に呉海軍造船廠通報艦1隻の詳細設計を行うよう呉鎮守府あてに訓令が出され[27]、 4月15日に呉鎮守府は詳細計画、図面などを海軍省へ提出[28]、 5月10日付で呉にあて甲号報知艦の製造着手が指令された[4]。 この時点での船体・機関等の製造予算は755,861.10、予算支出開始から起工まで9カ月、進水まで30カ月、竣工まで33カ月の計72カ月 (6年) を予定した[29]。 なお10月3日付で竣工期限は明治31年度いっぱい (1899年3月31日まで) とされた[30]

建造

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1894年(明治27年)5月26日[14]呉海軍造船廠で起工[5]1895年(明治28年)8月16日、日本海軍は建造中の甲号報知艦を「ミヤ」と命名する[2]1897年(明治30年)10月21日、軍艦宮古は佐世保鎮守府所管と定められる[3]。10月27日午前9時15分から進水式を実施[31][32][6]。進水式には有栖川宮威仁親王(防護巡洋艦「厳島」で到着)、梨本宮守正王陸軍歩兵少尉、華頂宮博恭王海軍少尉、侯爵西郷従道海軍大臣が臨席した[33]。 また常備艦隊の各艦がに集結した[34]。 「宮古」は進水途中に船尾が浮き始めたところで船体が止まってしまい、汽船7隻でおよそ40分ほど引っ張り[35]、午前9時52分に無事海上に浮かんだ[7]1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定[36]。「宮古」は通報艦に類別された[37]1899年(明治32年)3月31日に竣工[14][8]。 公試未了のまま引き渡された[8]

1900年 - 1901年

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1900年 (明治33年) 6月21日に佐世保を出港、清国韓国を航海し、27日佐世保に帰国した[38]

清国事変が起きたため、 「宮古」は9月17日に佐世保を出港して清国へ派遣された[38]1901年 (明治34年) 4月25日に佐世保に帰国した[38]

1902年

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1902年 (明治35年) 「宮古」は8月23日に室蘭を出港、韓国沿岸を航海し、9月8日舞鶴に帰国した[38]

1903年

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1903年(明治36年)4月10日、神戸沖で挙行された大演習観艦式に供奉艦として参列[39]

南清警備

6月8日佐世保を出港し、南清方面の警備任務に従事、10月11日基隆に到着した[38]。 10月31日馬公を出港、12月1日に佐世保に帰国した[38]

12月28日、常備艦隊が解隊され、戦艦を中心とする第一艦隊と巡洋艦が主体の第二艦隊が設置される。第一・第二艦隊で連合艦隊(司令長官:東郷平八郎海軍中将)を構成した。「宮古」は第一艦隊隷下の第一戦隊(東郷中将直率、戦艦《三笠朝日富士八島敷島初瀬》・宮古)に配属される[40]

1904年

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1904年(明治37年) 1月9日に佐世保を出港し、韓国南岸の警備任務に従事した (1月17日宮島に帰国) [41]。 「宮古」は1月11日付で第三艦隊(司令長官:片岡七郎海軍中将)の第五戦隊(鎮遠厳島橋立松島宮古)隷下となる[42]

日露戦争

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「宮古」は1904年 (明治37年) 2月6日六連島を出発[41]日露戦争が勃発した2月8日、朝鮮半島南東海上でロシアの太平洋捕鯨漁業所属の捕鯨船「ニコライ」号[43]、続いて「ミハイル」号を拿捕した[44][45]。2隻は長箭洞英語版釜山)を出航して上海に向かう途中であり、拿捕ののち竹敷(長崎県対馬)を経由後、佐世保に回航された。 その後旅順攻略作戦に参加。5月5日から帝国陸軍第2軍(司令官:男爵奥保鞏陸軍大将)が遼東半島塩大澳に上陸を開始したが、遠浅のため上陸に不便であることや目標である大連まで距離があることから、連合艦隊の東郷司令長官は上陸地点を変更を決意した。そのため東郷長官は第3艦隊司令長官に対し、大連湾の掃海および測量を命令[46]。そして、大連湾で掃海隊の援護中であった5月14日に宮古は触雷した[47][48]。宮古は2、3分で沈み、死者2名負傷者17名を出した[47]

その後

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翌年の1905年(明治38年)6月15日に除籍[49]、残骸は1906年(明治39年)7月4日に売却された。 売却は期限内に契約が履行出来ずに一旦解約、もう一度一般競争入札を実施し、1909年 (明治42年) 9月10日に540で売却された[50]

その他

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  • 1903年(明治36年)に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会において、帝国海軍は敷島、千早、八雲などの模型とともに、呉海軍造船廠が製造した「宮古」の模型も出品した[51]

艦長

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※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 高桑勇 中佐:1899年7月25日 - 9月29日
  • 松本有信 中佐:1899年9月29日 - 1900年6月7日
  • 八代六郎 中佐:1900年6月7日 - 1901年10月1日
  • 小橋篤蔵 中佐:1901年10月31日 - 1903年7月7日
  • 川島令次郎 中佐:1903年7月7日 - 9月26日
  • 栃内曽次郎 中佐:1903年9月26日 - 1904年5月16日

艦船符号

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信号符字

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『幕末以降帝国軍艦写真と史実』では「艦名考 港灣名に採る、陸中國下閉伊郡閉伊崎の西岸に深入せる海灣にして、閉伊川(宮古川)之に歸注す、灣岸には宮古町の外、大小の村落布列し、運輸四達、閉伊の都會と爲す、宮古の名蓋し偶然ならずと謂ふべき乎。」として、岩手県宮古湾由来説を採用している
  2. ^ #M33公文備考11/呉鎮守府所管軍艦修理改造新設(1)コマ75、八重山5,400馬力→宮古6,130馬力。
  3. ^ 印刷が不鮮明、60+14インチ (1,530 mm)か60+34インチ (1,543 mm)。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f #艦船名考(1928)p.89、「宮古 みやこ Miyako.」
  2. ^ a b c 明治28年 達 完/8月」 アジア歴史資料センター Ref.C12070035400  p.12「達第七十八號 英國ニ於テ製造中ノ甲號及乙號甲鐡戰艦並ニ吳鎭守府ニ於テ製造中ノ甲號報知艦左ノ通命名セラル 明治二十八年八月十六日 海軍大臣 侯爵西鄕從道|甲號甲鐡戰艦 |乙號甲鐡戰艦 シマ|甲號報知艦 ミヤ
  3. ^ a b 内令第29号 明治30年6月30日~内令第63号 明治30年12月21日 画像30「內令四十八號 軍艦 淺間 右本籍ヲ橫須賀鎭守府ト定メラル 軍艦 明石 軍艦 常磐 右本籍ヲ吳鎭守府ト定メラル 軍艦 宮古 右本籍ヲ佐世保鎭守府ト定メラル 明治三十年十月二十一日 海軍大臣 侯爵西鄕從道」
  4. ^ a b #公文備考別輯/宮古製造(1)コマ7、明治26年官房第1228号。
  5. ^ a b #公文備考別輯/宮古製造(1)コマ30、明治30年呉鎮第1410号の2。
  6. ^ a b c d e f 明治30年11月20日『官報』第4318号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3
  7. ^ a b #公文備考別輯/宮古製造(2)コマ41、電報。
  8. ^ a b c #公文備考別輯/宮古製造(3)コマ18、明治32年呉鎮第1141号の2。
  9. ^ a b #帝国海軍機関史(1975)下巻p.46。
  10. ^ a b c d e #帝国海軍機関史(1975)下巻pp.6-7、主機械要目表 其ノ一。
  11. ^ a b #公文備考別輯/宮古製造(3)コマ14。
  12. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.316-318、明治31年10月10日(内令80) 。
  13. ^ a b c d e f g #公文備考別輯/宮古製造(1)コマ13-15、要領。
  14. ^ a b c 呉の歴史 - 市ホームページ”. 広島県呉市 (2015年11月1日). 2018年10月8日閲覧。
  15. ^ #銘銘伝(2014)pp.
  16. ^ a b #造船史明治(1973)p.301
  17. ^ a b #M33公文備考11/呉鎮守府所管軍艦修理改造新設(1)コマ75。
  18. ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻pp.34,39、円罐の故障。
  19. ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.39。
  20. ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.69。
  21. ^ #M34公文雑輯6/軍艦宮古射撃報告コマ14、第2表(乙)「軍艦宮古艦砲射撃成績表」。同コマ16。
  22. ^ a b #M34公文雑輯6/軍艦宮古射撃報告コマ17、第5表「軍艦宮古艦砲戦闘射撃成績表」。
  23. ^ a b c #M34公文雑輯7/軍艦宮古水雷発射成績表コマ1。
  24. ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.281。
  25. ^ #M37公文備考14/雑款コマ21-27。
  26. ^ #海軍制度沿革巻8 p.7(コマ番号23)「依テ衆議院ハ豫算案ヲ再議修正シテ千八百八萬餘圓ノ支出ヲ協賛シ貴族院之ニ同意シタル後御裁可ヲ仰ゲリ富士、八島、明石、宮古四艦ノ新造(七箇年繼續)ハ實ニ之ニ依ル」
  27. ^ #公文備考別輯/宮古製造(1)コマ7、明治26年官房第952号。
  28. ^ #公文備考別輯/宮古製造(1)コマ10、明治26年呉鎮第1200号の2。
  29. ^ #公文備考別輯/宮古製造(1)コマ11-12、報知艦製造費及び竣工期限豫算書。
  30. ^ #公文備考別輯/宮古製造(1)コマ20、明治26年官房第1228号の2。
  31. ^ #公文備考別輯/宮古製造(2)コマ28、電報。
  32. ^ 明治30年10月28日『官報』第4299号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4「◯陸海軍 …◯軍艦進水 吳海軍造船廠ニ於テ製造ノ軍艦宮古ハ昨二十七日進水セリ(海軍省)
  33. ^ 東京朝日新聞』1897年10月30日朝刊
  34. ^ #公文備考別輯/宮古製造(2)コマ21、明治30年官房第3614号。
  35. ^ #公文備考別輯/宮古製造(2)コマ42、電報。
  36. ^ 明治31年 達 完/3月(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070040500  pp.14-15「達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西鄕從道」
  37. ^ #達明治31年3月(1) pp.16-17「達第三十五號 軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西鄕從道|軍艦|通報艦|八重山 龍田 宮古 千早」
  38. ^ a b c d e f #S9恩給調査(下)/軍艦(4)コマ22、宮古。
  39. ^ 「極秘 明治37.8年海戦史 第11部 戦局日誌 巻1」/第1編 開戦前誌(明治36年4月8日より37年2月5日に至る)」 アジア歴史資料センター Ref.C05110200200  画像3(p.5)「供奉艦 宮古、千早、夕霧、金剛、吳鎭守府所屬吳丸」
  40. ^ #明治37.8年海戦史 画像3「開戰前誌 明治三十六年十二月二十八日(月) 一聯合艦隊左ノ通リ編制セラル |聯合艦隊(司令長官東鄕中將)|第一艦隊(長官東鄕中將)|第一戰隊|三笠 初瀨 朝日 敷島 富士 八島 宮古|」
  41. ^ a b #S9恩給調査(下)/軍艦(4)コマ23。
  42. ^ 特隊機密/3隊機密作戦班極秘」 アジア歴史資料センター Ref.C09050639900 「三隊機密第三六號 戰隊 第五 鎮遠、嚴島、槗立、松島、宮古 …但シ宮古ハ第五戰隊ノ通報艦タラシム 第三艦隊區分右ノ通相定メ候條此段報告候也 明治三十七年一月十一日 第三艦隊司令長官片岡七郎 海軍々令部長子爵伊東祐亨殿」
  43. ^ 佐世保捕獲審検所書類1・ニコライ号捕獲事件記録」 アジア歴史資料センター Ref.A06040021200 
  44. ^ 佐世保捕獲審検所書類2・ミハイル号捕獲事件記録」 アジア歴史資料センター Ref.A06040022000 
  45. ^ 明治38年2月24日『官報』第6493号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ6
  46. ^ 日露旅順海戦史、p.100
  47. ^ a b 日露旅順海戦史、p.118
  48. ^ 「極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻3.4.5付表及付図」/第94号 自5月4日至8月9日 旅順方面に於る艦艇一覧表」 アジア歴史資料センター Ref.C05110009600 「|記事|六、宮古ハ五月十四日敵ノ機械水雷ニ觸レ沈沒ス|」
  49. ^ 明治38年 達 完/6月」 アジア歴史資料センター Ref.C12070053000  p.7「達第八十三號 軍艦及水雷艇類別等級別表中軍艦ノ欄內八島、初瀨、吉野、高砂、濟遠、海門、平遠、愛宕、大島、宮古、速鳥ヲ、水雷艇ノ欄內第三十四號、第三十五號、第四十二號、第四十八號、第五十一號、第五十三號、第六十九號ヲ削ル 明治三十八年六月十五日 海軍大臣男爵 山本權兵衞」
  50. ^ #M42公文備考20/売却其他処分(3)コマ33-34。
  51. ^ 『第五回内国勧業博覧会海軍出品解説』コマ14
  52. ^ 明治31年4月15日『官報』第4434号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ1「|信號符字|艦艇名|GQJP|宮古 Miyako|」

参考文献

[編集]
  • 国立国会図書館デジタルコレクション国立国会図書館
    • 『第五回内国勧業博覧会海軍出品解説』金港堂、April 1903。 
    • 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』1935年11月。 
    • 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8』海軍大臣官房、1940年。 
  • 浅井将秀 編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。 
  • 海軍省 編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集・巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
    • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』 <普及版>、潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5 
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  • 日本舶用機関史編集委員会 編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
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  • アジア歴史資料センター(公式)
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  • 戦史史料・戦史叢書検索防衛省防衛研究所
    • 『海軍内令 明治30年/内令第29号 明治30年6月30日~内令第63号 明治30年12月21日』。