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石山一秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宋一秀から転送)
石山 一秀
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府京都市下京区
生年月日 (1950-12-13) 1950年12月13日(73歳)
身長
体重
174 cm
77 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1969年 ドラフト5位
初出場 NPB / 1974年9月21日
KBO / 1984年
最終出場 NPB / 1983年10月21日
KBO / 1986年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

石山 一秀(いしやま かずひで、1950年12月13日 - )は、日本京都府京都市下京区[1]出身の元プロ野球選手捕手)、コーチ監督

韓国名およびKBOでの登録名は「宋 一秀[2](ソン・イルス[3][4][5]、ハングル:송일수)。

一部出版物では、「石山 一彦」(いしやま かずひこ)と誤記[6]

経歴

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在日韓国人として生まれ、プロ入り後に日本国籍帰化[3][2]平安高校では3年次の1968年に同期のエース・池田信夫とバッテリーを組み、捕手、5番打者として春夏連続で甲子園に出場。春の選抜では準々決勝で大宮工の吉沢敏雄(慶大東京ガス)に抑えられ敗退し[7]、同年の夏の選手権では1回戦で大宮工にまたも敗退[8]。1年下のチームメートには渋谷通、川本浩次がいた。

1969年近鉄バファローズへ球団職員として入団し[9]ブルペン捕手として一軍に帯同。この時に選手として契約できなかったのは、当時日本国籍以外の人物は全て等しく外国人選手枠としての獲得しかできないというルールが存在していたためである[3][10]同年のドラフトで5位指名を受け、正式に選手契約を結んだ[3]

1974年には一軍へ昇格し、9月21日太平洋戦(藤井寺)の7回裏に栗橋茂の代打として初出場。初打席は永射保の前に三振を喫したが、10月2日日本ハムとの最終戦(草薙)で初の先発マスクを被り、高橋直樹から初安打を放つ。入団当時の近鉄には辻佳紀が、その後は梨田昌孝有田修三がいたために、ブルペン捕手としての生活が長く、出場試合の大半は偵察メンバーとしてのものや、消化試合での出場であった。

1980年には広島との日本シリーズ11月2日の第7戦(広島市民)の9回表に代打として起用されるが、江夏豊の前に併殺打に終わり、シリーズ最後の打者となった。

1983年オフに近鉄を退団するが、退団が決まっていた10月21日阪急戦(藤井寺)で、14-17の3点ビハインドで迎えた9回裏2死に代打出場し、森浩二からNPB最終打席でプロ初本塁打を放った[11][12]。この件は、プロ最終打席で初本塁打を打った男として、後年、テレビ番組ではその初ホームランを後付け実況で特集されるほどであった(映像がないためラジオ風の後付け実況)。野手の入団14年目32歳での初本塁打はNPB記録となった[13]。シーズンオフには球団から現役引退と二軍コーチ就任の通告が来たが、夏に韓国プロ野球から誘われたことが頭を過る[14]

1984年から新浦壽夫と共に韓国へ渡り、三星ライオンズに入団。

1985年からバッテリーコーチを兼任し[11]、先発ローテーションの決定を任された[15]。小心者でありながら向こう気が強くストレートしか投げられない本格派、決して球速はないが度胸の据わった技巧派、肩にスタミナがあり連投が利く中継ぎや、登板間隔を開けなければ使いづらい者など頭を痛めそうな顔ぶれであったが、チームの投手の持ち味を手に取るように把握していた[15]。守備力を生かして先発出場することがあった一方[16]、当時スター選手として活躍していた李萬洙の指導役にも徹した[16]。新浦の登板の時には必ずバッテリーを組み、1985年には新浦の最多勝獲得に貢献。グラウンド外でも球場に隣接したテニスコートのスタンドでいつも新浦と昼食を摂り、メニューは新浦の好物であったあんパンと、喫茶店から出前で頼むコーヒーであった[17]。生活面では言葉が通じずストレスが多かったほか、街中に漂う唐辛子ニンニクが交ざり合ったようなすえた独特の臭いに耐えられず、食事も出るもの全てが辛く閉口した[18]。球団が宿舎にしていたアパートには賄い婦がいて石山向けの食事を作ってくれたが、心から味わえず、日本から送られてくるサッポロ一番しょうゆ味が宝物であった[18]

1986年引退。

引退後は近鉄へチームスタッフとして復帰し[19]、スカウト(1987年,1990年-1992年)、ブルペン捕手(1988年 - 1989年)等を務めた[19]

1993年から球団が消滅する2004年までブルペンコーチを務めた(バッテリーコーチの肩書だった時期もあり[6][1][20]。コーチの肩書を持って以降も、ブルペン捕手を務めた[3])。

2005年よりNPBの新設球団である東北楽天ゴールデンイーグルス編成本部・編成調査アジア担当スカウトや編成部プロ・スカウトを歴任し2012年で退団[21]

2013年よりKBOの斗山ベアーズの二軍監督となり[2][22]、27年ぶりに韓国球界へ復帰した。

2014年より一軍監督[2][4][5][23][24][25](第9代目[5][23])となる。KBO(一軍)で韓国籍以外の人物が監督となるのは、2008年から2010年までロッテ・ジャイアンツで監督を務めたジェリー・ロイスター以来2人目[24](ただし、在日本大韓民国民団含む韓国系メディアでは、一部を除き[2]在日韓国人として報じている[4][5][23])。斗山における在日韓国人生まれの監督としては、OBベアーズ時代の金星根以来となる[2]。契約期間は3年だったが、初年度の2014年に6位と前年の韓国シリーズ準優勝(レギュラーシーズン4位)と比べ順位が悪化したため1年で更迭となった。

2016年学生野球資格回復研修を受講した。

2017年2月7日に日本学生野球協会より学生野球資格回復の適性認定を受けたことにより、学生野球選手への指導が可能となった[26]

2020年1月より、履正社医療スポーツ専門学校の女子硬式野球部である履正社RECTVENUSの監督を務める[27]

2023年に同校ホームページから名前が消えたため、退団したものと思われる。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1974 近鉄 3 6 6 1 1 1 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .167 .167 .333 .500
1975 25 17 17 1 4 0 0 0 4 1 0 0 0 0 0 0 0 4 0 .235 .235 .235 .471
1976 54 5 5 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .200 .200 .200 .400
1977 51 4 4 1 2 1 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .500 .500 .750 1.250
1978 21 11 9 1 3 0 0 0 3 2 0 0 0 0 1 0 1 1 0 .333 .455 .333 .788
1979 15 8 8 1 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .125 .125 .125 .250
1980 22 9 8 1 1 1 0 0 2 2 0 0 0 0 1 0 0 2 0 .125 .222 .250 .472
1981 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ---- ---- ---- ----
1982 6 2 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1983 12 15 13 2 3 1 0 1 7 3 0 0 0 0 1 0 0 1 1 .231 .286 .538 .824
1984 三星 64 150 137 15 38 3 2 2 51 16 1 4 4 1 4 0 4 22 3 .277 .315 .372 .687
1985 55 157 130 16 27 7 0 2 40 20 2 2 10 2 14 0 1 11 4 .208 .286 .308 .593
1986 40 93 84 7 13 3 0 0 16 4 0 1 5 0 4 0 0 7 2 .155 .193 .190 .384
NPB:10年 215 77 72 8 16 4 0 1 23 8 0 0 0 0 3 0 1 13 1 .222 .263 .319 .583
KBO:3年 159 400 351 38 78 13 2 4 107 40 3 7 19 3 22 0 5 40 9 .222 .276 .305 .580

年度別守備成績

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年度 試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1974 2 2 1 1 .500
1975 9 6 5 1 .167
1976 5 3 2 1 .333
1977 4 3 0 3 1.000
1978 9 5 3 2 .400
1979 7 3 3 0 .000
1980 5 1 0 1 1.000
1982 1 0 0 0 ----
1983 5 5 2 3 .600
通算 47 28 16 12 .429

記録

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NPB

背番号

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  • 54 (1970年 - 1974年)
  • 33 (1975年 - 1983年)
  • 23 (1984年 - 1986年)
  • 90 (1988年 - 1989年、1993年 - 2004年)[29]
  • 86 (2013年 - 2014年)

登録名

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  • 石山 一秀(いしやま かずひで、1970年 - 1983年、1988年 - 2004年)
  • 宋 一秀(ソン・イルス、송일수、1984年 - 1986年、2013年 - 2014年)

脚注

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  1. ^ a b 参考:『12球団全選手カラー百科名鑑2000』(ホームラン3月号増刊。2000年3月31日、日本スポーツ出版社発行)
  2. ^ a b c d e f 新監督に在日同胞 斗山ベアーズ”. 統一日報(日本語版ウェブより、芸能・スポーツニュース) (2013年12月11日). 2014年5月8日閲覧。
  3. ^ a b c d e 『ホームランを知り尽くす』P146
  4. ^ a b c <野球>「韓国語下手」な斗山ソン・イルス新任監督、「疎通野球」に問題なし”. 中央日報日本語版 (2013年11月28日). 2014年5月8日閲覧。
  5. ^ a b c d 韓国プロ野球・斗山 新監督に在日韓国人の石山一秀氏”. 聯合ニュース(日本語版) (2013年11月28日). 2014年5月8日閲覧。
  6. ^ a b 『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1998年3月号増刊。1998年3月31日、日本スポーツ出版社発行)P137掲載のプロフィール
  7. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  8. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  9. ^ 『ホームランを知り尽くす』P147
  10. ^ 新浦壽夫の項も参照。
  11. ^ a b 14年生 石山一秀 現役最終打席でプロ初本塁打”. スポニチアネックス (2010年10月21日). 2018年4月11日閲覧。
  12. ^ NPB最終打席での初本塁打は、ほかに通算打席が1打席だった塩瀬盛道ドン・シュルジーがいる。
  13. ^ “松坂世代”井生崇光 13年目のセ最遅の1号本塁打”. スポニチアネックス (2012年7月15日). 2018年4月11日閲覧。
  14. ^ 木村公一「裏方―プロ野球職人伝説」角川書店、2008年3月25日、ISBN 4043879016、p159
  15. ^ a b 木村、p170
  16. ^ a b 『ホームランを知り尽くす』P148
  17. ^ 木村、p165
  18. ^ a b 木村、p163
  19. ^ a b 『ホームランを知り尽くす』P149
  20. ^ 参考:『週刊ベースボール』2000年2月21日号「2000年プロ野球全選手写真名鑑」
  21. ^ 楽天スカウト5人一気“解雇””. デイリースポーツ (2012年12月1日). 2013年12月16日閲覧。
  22. ^ 楽天スカウト5人一気“解雇” (2ページ目)”. デイリースポーツ (2012年12月1日). 2014年5月8日閲覧。
  23. ^ a b c 斗山新監督に在日同胞・宋一秀氏”. 在日本大韓民国民団公式サイト内ニュース(「本国関係」。ソース:民団新聞) (2013年12月11日). 2014年5月8日閲覧。
  24. ^ a b 【喜瀬雅則の野球行脚】元いてまえ戦士が韓国プロ野球で奮闘 斗山の石山新監督(1/2ページ)”. MSN産経west (2014年2月28日). 2014年5月8日閲覧。
  25. ^ 韓国・斗山石山新監督「うまい酒飲もう」”. nikkansports.com(日刊スポーツ) (2014年2月28日). 2014年5月8日閲覧。
  26. ^ 元ヤクルト宮本慎也氏ら132人が学生野球資格回復 - 大学・社会人”. 日刊スポーツ (2017年2月8日). 2017年2月8日閲覧。
  27. ^ “[先生紹介 | 野球コース | 学科・コース紹介 https://www.riseisha.ac.jp/course/baseball/teacher/]”. 履正社医療スポーツ専門学校. 2020年9月4日閲覧。
  28. ^ 同試合の9回裏に代打で出場し、森浩二から通算初本塁打を放った事については、『ホームランを知り尽くす』P144-145にも明記。
  29. ^ ブルペン捕手だった、1988年から1989年も同じ番号だった(参考:『ベースボールマガジン』2002年夏季号、2006年夏季号掲載の球団別背番号一覧表)。

参考資料

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  • 『プロ野球12球団全選手百科名鑑』→『12球団全選手カラー百科名鑑』シリーズ各年版
  • 『ホームランを知り尽くす』(2001年5月10日、B.B.MOOK 169 スポーツ伝説シリーズ…20として、ベースボール・マガジン社から発行されたムック。書籍コード:ISBN 4583611307) ※P144からP149にかけて、NPB時代の最終打席初本塁打についてのエピソードと生い立ちが紹介された(文:宮崎正博)。
  • 各種外部リンク

関連項目

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外部リンク

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