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神部年男

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神部 年男
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 兵庫県加古郡播磨町
生年月日 (1943-03-24) 1943年3月24日(81歳)
身長
体重
175 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1969年 ドラフト2位
初出場 1970年4月14日
最終出場 1981年10月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴

神部 年男(かんべ としお、1943年3月24日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手投手)、コーチ野球解説者

経歴

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プロ入りまで

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1943年に兵庫県加古郡播磨町に生まれる。播磨町立播磨中学校兵庫県立高砂高等学校から三菱製紙に進み、準硬式野球の選手として活躍。1965年富士製鐵広畑に移り、1966年都市対抗住友金属の補強選手として出場。準決勝では大昭和製紙を完封、決勝に進みリリーフで登板するが、熊谷組に延長10回裏サヨナラ負けを喫する[1]

1966年の第1次ドラフト3位で読売ジャイアンツに指名されるが、これを拒否し富士製鐵広畑に残留。1968年都市対抗では松下電器から補強された岡田光雄との二本柱で勝ち進む。河合楽器との決勝では先発を任され、岡田へ継投し1-0で勝利[1]。初優勝を飾り最優秀選手の橋戸賞を受賞した[2]。この時のチームメートに岡田と同じく松下電器から補強された福本豊加藤秀司がいた。同年8月にはアラスカ・ゴールドパナーズ[3]との日米親善野球試合に出場。1969年都市対抗では、1回戦で三協精機池島和彦に投げ勝ち、2回戦でも八幡製鐵を完封するが、3回戦で日本生命小弓場保に完封を喫する[1]

現役時代

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近鉄バファローズ時代

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1969年のドラフト2位で近鉄バファローズに入団[2]1970年から先発として起用され、同年は8勝を記録。1971年にはリーグ最多の51試合に登板し10勝を挙げる。その後も低迷期の近鉄で、ローテーションに定着し活躍した。

1975年1976年の2年は開幕戦の先発を務めている(相手はいずれも阪急ブレーブス)。1975年4月20日藤井寺球場での対南海ホークス戦でノーヒットノーランを達成[2]。スコアは1-0、四死球4で打者30人、三振は藤原満から奪った1つだった。

ヤクルト・スワローズ時代

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1979年佐藤竹秀寺田吉孝と共にチャーリー・マニエル永尾泰憲との交換トレードでヤクルトスワローズに移籍[2]。ここでも先発陣の一角として起用される。

1980年10月12日読売ジャイアンツ戦で王貞治に同年の30号(19年連続の30本塁打到達)、通算868号となる本塁打を打たれた。同年限りで現役を引退した王にとって、これがプロ野球公式戦での最終本塁打となった。

1981年には抑えとして起用される。

1982年には登板機会がなく同年限りで現役を引退した。

現役引退後

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1983年から1985年までヤクルト二軍投手コーチ。

1986年から1996年まで近鉄投手コーチ。1989年は一軍投手コーチ(ブルペン)として近鉄のリーグ優勝に貢献し、また数多くの投手を育成した[2]

1997年から2001年までは、近鉄時代のヘッドコーチ・監督であった仰木彬に請われ、オリックス一軍投手コーチ[2]

2005年に新生オリックス一軍投手コーチに復帰。

2007年まで務めた。2004年には、J SPORTSで解説者を務めていた。

2008年から2009年まで、韓国プロ野球起亜タイガースの一軍投手コーチを務め、投手陣を整備し2009年は起亜の12年ぶりの韓国シリーズ優勝に貢献した。

2013年の2月から3月にかけ、韓国プロ野球のハンファ・イーグルスの沖縄キャンプで投手インストラクターを務めることとなった。韓国プロ野球起亜タイガースに所属していた2009年、当時プロ3年目だった投手の梁玹種を先発に抜擢し、先発ローテーションの一翼を担う選手に成長させた。この年に起亜タイガースは韓国シリーズで優勝するが梁玹種は韓国シリーズでは勝利を収めることができなかった。

2017年、ペナントレースで20勝をあげチームの韓国シリーズ直行に大きく貢献した梁玹種は、再び韓国シリーズに進出したら試合に招待したいとの約束を果たし、第2戦の先発登板に合わせ神部を韓国に招待した。梁玹種はこの試合で恩師の前で韓国シリーズ史上10度目となる完封勝利を飾った。試合後も、神部への感謝の気持ちを述べており、このエピソードは韓国メディアでも大きく報道された[4]

選手としての特徴

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フィールディングや牽制球の技術に優れ、通算盗塁数日本記録保持者の福本豊(阪急)は神部について、クセがわからず都市対抗野球時代以来盗塁がまったくできなかったと述べている[5]。神部は、都市対抗野球の地区大会では福本の所属していた松下電器を倒さないと本戦に出られないため、対策としてその時代から牽制技術の向上に取り組んでいた[5]。福本は長年の研究の結果、1971年頃に「牽制球を投げる時、ほんの数mm軸足(左足のかかと)が浮き上がる」癖を見抜いたという[5]。神部はスコアラーに撮影させた写真から左足の癖に気づいて修正し、しばらく福本は走りづらくなったが、その後再び走られるようになったと述べている[5]。神部は近鉄入団当時、阪急に福本がいることを知らず「またや!」と思ったといい、後述のトレードでセントラル・リーグに移ると決まったときは「ホッとした」と後年述べている[5][6]

なお、対神部における福本の盗塁成功率は10割で、21回すべて成功している。特に、軸足の癖を見抜いた時期に当たる1972年(シーズン通算106盗塁の日本記録を達成した年)には4盗塁を成功させているほか、1976年には5盗塁を挙げた(前述の「再び走られるようになった」という神部の述懐と一致する)[7]

福本の同僚で、同様に癖を見抜くことに長けていた高井保弘も、神部の癖を見抜くことが出来なかったと語っている。また、ヤクルト時代の神部と対戦した松本匡史(1982年・1983年のセ・リーグ盗塁王)も、盗塁が難しかった投手として名を挙げている[8]

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1970 近鉄 38 13 1 1 0 8 7 -- -- .533 559 133.1 110 10 51 2 8 74 0 1 55 48 3.25 1.21
1971 51 15 5 0 0 10 9 -- -- .526 655 160.0 138 15 56 9 4 87 5 1 62 57 3.21 1.21
1972 46 25 8 2 1 13 9 -- -- .591 854 210.2 186 16 58 7 4 112 5 1 66 56 2.39 1.16
1973 26 10 3 0 0 7 7 -- -- .500 430 106.2 87 5 47 4 2 48 2 0 40 35 2.94 1.26
1974 28 21 8 4 1 12 7 1 -- .632 611 151.0 129 14 48 4 1 74 4 1 43 40 2.38 1.17
1975 31 25 9 2 0 10 8 1 -- .556 705 173.2 142 15 53 1 8 57 3 0 66 59 3.05 1.12
1976 27 20 8 3 3 8 12 1 -- .400 598 146.1 142 13 43 2 1 62 0 0 59 53 3.27 1.26
1977 25 15 6 1 1 5 9 3 -- .357 473 116.1 118 10 26 2 1 54 3 1 51 47 3.65 1.24
1978 21 18 4 0 1 7 5 0 -- .583 519 124.1 115 11 36 3 5 60 0 0 46 43 3.12 1.21
1979 ヤクルト 25 24 3 1 0 6 8 0 -- .429 557 125.0 146 21 49 5 2 65 1 0 64 60 4.32 1.56
1980 20 13 2 1 0 3 5 0 -- .375 278 69.1 67 10 21 0 2 32 0 1 31 30 3.91 1.27
1981 32 5 0 0 0 1 3 10 -- .250 255 60.2 59 3 22 3 2 37 2 2 25 24 3.54 1.34
通算:12年 370 204 57 15 7 90 89 16 -- .503 6494 1577.1 1439 143 510 42 40 762 25 8 608 552 3.15 1.24
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

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初記録
その他の記録

背番号

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  • 27 (1970年 - 1978年)
  • 11 (1979年 - 1982年)
  • 73 (1983年 - 1985年)
  • 83 (1986年 - 1996年、2005年 - 2007年)
  • 81 (1997年 - 2001年、2008年 - 2009年)

脚注

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  1. ^ a b c 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  2. ^ a b c d e f プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、178ページ
  3. ^ アラスカ・ゴールドパナーズ1968年」大学生を主体としアラスカ・リーグに所属するセミプロチームである
  4. ^ 칸베 전 KIA 투수코치 "대단한 노력의 결과로 이런 선수 돼" 聯合ニュース 2017年10月26日
  5. ^ a b c d e 長谷川晶一『プロ野球、伝説の表と裏』主婦の友社、2014年、pp.pp147 - 150
  6. ^ 福本も神部の近鉄入団時に「難敵」「プロとしてどう対応しよう」という思いを抱いたと著書で述べている(福本豊『走らんかい!』ベースボール・マガジン社<ベースボール・マガジン新書>、2009年、pp.34 - 35)。
  7. ^ 永山智裕「1969-88 福本豊のカモと苦手ランキング」(『ベースボールマガジン』第47巻第8号、ベースボールマガジン社、2023年11月刊行)pp.72 - 75
  8. ^ “二塁ベース上で勃発「バチバチでした」 不動のセ記録も…届かなかった“106超え””. full-count. (2023年11月28日). https://full-count.jp/2023/11/28/post1477943/ 2023年12月5日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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