奥田教朝
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奥田 教朝(おくだ のりとも、1910年10月10日[1] - 1994年8月7日[2])は、日本の都市計画家。都市計画官僚、土木技師。日本都市計画学会会長(1973年-1974年)[3]等を歴任。
経歴
[編集]父の奥田武二郎、母の愛子(男爵関義臣の庶子)の長男として東京で生まれる。弟は4人おり、二男教広はのち、奥田秀三郎の養子、教幸(1915年生)は東大医科卒の医師。教久(1919年生)は東大工科卒の技師、他に教望(1921年生)がいる。
父親の武二郎(1883年生)は農商務省の鉱山監督局技師、仙台鉱山監督局鉱業課長を歴任し、のち日鉄鉱業顧問。正四位勲四等。叔父広瀬孝六郎は、広瀬次郎の養子、東京帝大助教授兼厚生技師。祖父奥田教佶は、旧越後村松藩士で西蒲原郡立実科高等女学校初代校長[4]、大分や兵庫、秋田師範学校校長を歴任し、伯父には旧村松藩主・奥田直賀(堀直賀)がいる。妻のえみ子は宇佐美寛爾の養女[1]。
1935年(昭和10年)、東京帝国大学土木科卒。内務省に勤務、防空研究所、都市計画地方委員会(東京)[6]などに勤務し、その間都市美協会常任理事[7]、戦後は東京都建設局計画課長[8]、3代目の建設省都市局街路課長[9]や初代の都市局の技術参事官、帝都高速度交通営団の理事[10]を経て三井共同建設コンサルタント代表取締役、社団法人建設コンサルタンツ協会会長、日本都市計画学会の会長にも就任。その間、非常勤で母校東大土木工学科の講師も勤める。
1994年8月7日、急性心不全のため死去[2]。
著書
[編集]- 防空工学(1942)|奥田教朝 単著 コロナ社
- 街路と廣場(1944)| 奧田教朝 単著 常磐書房 國土建設技術新書 ; 都市計畫篇 3[11]
- 都市計画通論 (1973年) | 奥田 教朝, 吉岡 昭雄[12]
- 新制・道路・都市計画(1955) | 谷藤正三, 奥田教朝 - オーム社
脚注
[編集]- ^ a b 『人事興信録 第25版 上』(人事興信所、1969年)お358頁
- ^ a b 『現代物故者事典 1994~1996』(日外アソシエーツ、1997年)p.138
- ^ 奥田教朝 (1973-08). “会長就任に際して”. 都市計画 (76) 日本都市計画学会 編.
- ^ 巻高歴史年表巻高同窓会
- ^ “棚の中には何がある?”. 都市デザイン研究室マガジン6 vol. 267 / June. 30th 2018. 20190926閲覧。
- ^ 阿部正隆, 西村幸夫, 窪田亜矢「戦前における内務省地方計画構想の一終着点」『都市計画論文集』第46巻第3号、2011年、727-732頁、20190926閲覧。
- ^ 中島直人「都市美運動家・石原憲治の都市美論に関する研究」『都市計画論文集』第40.3巻、日本都市計画学会、2005年、277-282頁、20190926閲覧。
- ^ 奥田敎朝 (1946-10). “八王子復興計畫に就て / 東京都建設局計畫課”. 土木技術 土木技術社.
- ^ “「準賠償」としての日本・カンボジア経済技術協力協定”. 20190926閲覧。
- ^ 東京の地下鉄道網の概況 『新都市』オリンピック特集18(9) 都市計画協会, 1964-09
- ^ “韓国ソウルにおける近代都市計画公園形成過程に関する研究”. 安箱敏. 20190926閲覧。
- ^ 『都市計画通論』オーム社、1973年 。
文化 | ||
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先代 横山光雄 |
日本都市計画学会会長 第11代:1973年 - 1974年 |
次代 井上孝 |