太秦発声映画
太秦発声映画株式会社(うずまさはっせいえいが、1933年 設立 - 1936年 製作中止)は、かつて京都に存在した映画会社である。先進的なトーキーシステムを輸入したJ.O.スタヂオの敷地内に設立し、日活との提携で先駆的にトーキー映画を製作、日本映画の新しい時代を切り開いた。
略歴・概要
[編集]1933年(昭和8年)3月、大沢商会(J.Osawa Co., Ltd.)が京都・太秦蚕の社に貸しスタジオ「J.O.スタヂオ」を建設・開所、同社社長・大澤徳太郎の長男・大澤善夫が輸入したトーキーシステムを導入した先進的なものであった。日活京都撮影所長を辞任した池永浩久をJ.O.スタヂオの顧問に迎え、池永が同所内に設立したのが、この「太秦発声映画」である。
設立第1作は、池永総指揮、池田富保監督、早川雪洲主演の『楠正成』で、同作は同年6月1日に公開された。マキノ正博がマキノトーキー製作所を設立しトーキーを量産し始める1935年(昭和10年)からは、多く日活と提携製作をした。どの監督もトーキー演出になかなか慣れず、斬新な演出で知られた古海卓二も志波西果もトーキーに敗れ去り、古海は古市の極東映画、志波は奈良の全勝キネマへと都落ちし、サイレント映画に退行してしまう。
1936年(昭和11年)には、トーキー脚本に力を見せた脚本家グループ「梶原金八」(鳴滝組)のメンバーである山中貞雄を起用、山中が『河内山宗俊』を日活との提携で撮り、また、その弟子の助監督・萩原遼が、山中の原作を得て自ら脚色し、高勢実乗を主演にした『お茶づけ侍』で監督としてデビューした。
やがて、J.O(大沢商会)が東宝映画配給と配給提携を進めるにいたって、太秦発声は、同年一杯をもって製作を中止した。最後の作品は辻吉朗監督、大城龍太郎・深水藤子主演の『お嬢さん浪人』で、同作は翌1937年(昭和12年)1月28日、日活の配給で公開された。同年、J.O.スタヂオは4社合併で東宝映画を設立、スタジオごと「東宝映画京都撮影所」となっていく(1941年閉鎖)。
フィルモグラフィ
[編集]1933年
[編集]1934年
[編集]1935年
[編集]- 小猿時雨 深川情話 監督小石栄一
- 理想郷の禿頭 監督古海卓二
- 紺屋高尾 監督志波西果
- なみだの母 監督永富映次郎
- 髑髏飛脚 監督志波西果
- 海国大日本 監督阿部豊 ※日活・共同映画・J.O提携
- 地雷火組 監督志波西果 ※日活提携
- 清水次郎長 監督池田富保
- さむらひ鴉 監督池田富保 ※日活提携
- あばれ行燈 監督渡辺邦男
- 追分三五郎 監督辻吉朗 ※日活提携
- 敵討三都錦絵 監督児井英男・池田富保 ※日活提携
1936年
[編集]- 新佐渡情話 監督清瀬英次郎 ※日活提携
- 石童丸 監督辻吉朗
- 赤道越えて 監督円谷英二
- 大久保彦左衛門 第一篇 監督清瀬英次郎 ※日活提携
- 新曲五郎正宗 監督池田富保 ※日活提携
- 大久保彦左衛門 第二篇 監督児井英男 ※日活提携
- 河内山宗俊 監督山中貞雄 ※日活提携
- 馬追ひ人生 上州篇 監督池田富保
- 江戸囃男祭 監督辻吉郎 ※日活提携
- 満州義軍 花大人 監督田中喜次 ※J.O提携
- お茶づけ侍 監督萩原遼 ※日活提携
- 弦月浮寝鳥 監督辻吉朗 ※日活提携
- 鼠小僧唄祭 監督尾崎純 ※日活提携
- 南紀州 撮影木村角山、音楽白木信義、編集永富映次郎 ※短篇
- 仇討禁止令 監督益田晴夫 ※日活提携
- 堀部安兵衛 監督益田晴夫
1937年
[編集]- あばれ獅子 後篇 監督石橋清一
- お嬢さん浪人 監督辻吉朗