大田原一清
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(太田原一清から転送)
時代 | 江戸時代末期(幕末) - 昭和時代 |
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生誕 | 文久元年10月8日(1861年11月10日) |
死没 | 昭和5年(1930年)10月28日 |
改名 | 牲丸(幼名)、一清 |
別名 | 勝清(別名) |
戒名 | 秋天院殿美山勝清大居士 |
墓所 | 栃木県大田原市の光真寺 |
官位 | 従五位下、飛騨守、正五位、子爵 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 下野国大田原藩主 |
氏族 | 大田原氏 |
父母 |
父:大田原富清 母:大田原清徳(大田原庸清四男)の長女 |
兄弟 | 一清、忠良 |
妻 |
森俊滋の娘伊代子 蒔田広孝の娘茂登子 |
子 |
鋭清(長男)、秀(次男、陸軍少尉、軽犯罪を起こす)、幸子、錫子、鉄男(三男)、淑子、鰹子 ※娘はそれぞれ香川某室、金光家邦室、大森貫一室となった |
大田原 一清(おおたわら かずきよ)は、下野大田原藩の第14代(最後)の藩主。
人物
[編集]文久元年(1861年)10月8日、第13代藩主・大田原富清の長男として生まれる。文久2年(1862年)に父が死去したため、家督を継いだ。慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では藩は新政府に恭順し、明治元年(1868年)10月21日に一清は従五位下・飛騨守に叙位・任官する。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により大田原藩知事に任じられ、同時に戊辰戦争の功績により5000両を与えられた。版籍奉還ののち住居を移転した。明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で藩知事を免官される。慶應義塾を経て明治17年(1884年)の華族令で同年7月8日に子爵を叙爵した[1]。明治20年(1887年)12月に正五位に昇叙する。明治32年(1899年)7月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[2]、大正7年(1918年)7月9日まで在任[3]。
樋口一葉の『日用百科全書 通俗書簡文』(1896年5月刊)の巻頭には大田原一清の筆による書が掲載されている。
1923年(大正12年)5月5日に隠居した[4]。昭和5年(1930年)10月28日に死去した。享年70。
家族
[編集]父母
妻
子女
- 大田原鋭清(長男)
- 大田原秀(次男)1921年に(当時35歳)停留所荒らしの常習犯として上野駅で逮捕されている
- 大田原幸子 ー 香川翠巌夫人
- 大田原錫子 ー 金光家邦夫人
- 大田原鉄男(三男)
- 大田原淑子 ー 大森貫一夫人
- 大田原鰹子
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 三田商業研究会編 編『慶應義塾出身名流列伝』実業之世界社、1909年(明治42年)6月、217-218頁 。(近代デジタルライブラリー)
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (大田原)大田原家初代 1884年 - 1923年 |
次代 大田原鋭清 |