太炳烈
太炳烈 태병렬 | |
---|---|
生年月日 | 1916年 |
出生地 | 日本統治下朝鮮咸鏡北道 |
没年月日 | 1997年2月4日(81歳没) |
死没地 | 朝鮮民主主義人民共和国 |
所属政党 | 朝鮮労働党 |
称号 |
金日成勲章、共和国二重英雄 第1級国旗勲章 |
最高人民会議代議員 | |
当選回数 | 7回 |
在任期間 | 1962年10月 - 1997年2月4日 |
最高指導者 |
金日成(1948年 - 1994年) 金正日(1994年 - 2011年) |
その他の職歴 | |
朝鮮労働党中央委員会委員 (1990年5月 - 1997年2月4日) | |
祖国解放戦争勝利記念館館長 (1985年10月 - 1997年2月4日) |
太炳烈 | |
---|---|
各種表記 | |
チョソングル: | 태병렬 |
漢字: | 太炳烈 |
発音: | テ・ビョンリョル |
英語表記: | Thae Byong-ryol |
太 炳烈(テ・ビョンリョル、朝鮮語: 태병렬、1916年 - 1997年2月4日)は、朝鮮民主主義人民共和国の軍人、政治家。朝鮮労働党中央委員会委員、朝鮮労働党中央軍事委員会委員、祖国解放戦争勝利記念館館長などを歴任した。朝鮮人民軍における軍事称号(階級)は大将。共和国二重英雄。抗日パルチザン世代の1人である。金日成総合大学総長の太炯哲は息子。
経歴
[編集]1916年に日本統治時代の咸鏡北道に生まれる[1]。1936年に満州で活動している抗日パルチザンの東北抗日聯軍に入隊し第一路軍第三方面軍に所属した[1]。抗日闘争では伝令兵として活動した[2]。1940年にソ連に逃亡するが、1945年の解放後に帰国。1946年頃、中央保安幹部学校指揮成員[3]。1947年8月、内務局独立旅団文化副旅団長[4]。1950年、朝鮮戦争時には第23連隊長[5]。
1956年に朝鮮労働党中央委員会副部長に就任し[1]、1961年に党中央委員会委員候補に選出された[1]。1962年に最高人民会議第3期代議員に選出された[1]。1965年には党中央委員会部長に昇格し[1]、1967年に中将に昇進し[1]、社会安全相に就任した[1]。1970年に朝鮮民主主義人民共和国英雄称号と第1級国旗勲章を授与された[1]。同年11月に開催された朝鮮労働党第5次大会で党中央委員会委員に選出された[1]。1972年に党中央委員会軍事部長に就任し[1]、1980年に開催された朝鮮労働党第6次大会で朝鮮労働党中央軍事委員会委員に選出された[1]。1982年には金日成主席の70歳を祝して金日成勲章が授与された[1]。1985年には祖国解放戦争(朝鮮戦争)を記念して建てられた祖国解放戦争勝利記念館の館長に就任した[1]。1992年に大将に昇進し[1]、共和国二重英雄の称号を授与された[1]。
2016年に韓国に亡命した太永浩駐イギリス北朝鮮公使の父親であると報道されたが[6]、誤報だったことが分かった[7]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 태병렬(太炳烈) 韓国民族文化大百科事典
- ^ 金正恩氏が「ブチ切れて拳銃乱射」の仰天情報 Yahoo! News 2016年8月20日
- ^ 김선호 2020, p. 256.
- ^ 김선호 2020, p. 456.
- ^ 『6⋅25전쟁사 5 낙동강선 방어작전』(PDF)국방부군사편찬연구소、2008年、112頁 。2020年8月26日閲覧。
- ^ 脱北した北朝鮮外交官は「抗日パルチザン」の血筋 デイリーNK 2016年8月18日
- ^ 脱北した駐英北朝鮮公使は平凡な家柄、夫人は名家の子孫 ハンギョレ 2016年8月19日
参考文献
[編集]- 김선호『조선인민군 : 북한 무력의 형성과 유일체제의 기원』한양대학교 출판부、2020年。ISBN 9788972186809。