大桐国光
おおぎり こっこう 大桐國光 | |
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生誕 |
1927年11月25日![]() (出生後移住)岡山県新見市 |
死没 |
2008年4月28日(80歳没)![]() |
国籍 |
![]() |
教育 |
岡山県立高梁高等学校→ 岡山大学教育学部特設美術科→ ![]() |
代表作 |
彫刻「夏」 彫刻「彫刻家Y氏の像」 |
子供 | 大桐大(彫刻家) |
受賞 |
岡山県文化功労者表彰(1977年) 岡山県文化賞(1984年) 紺綬褒章 |
大桐 國光(おおぎり くにみつ、1927年(昭和2年)11月25日[1]- 2008年(平成20年)4月28日[2])は、日本の芸術家である。代表彫刻「夏」が参議院議長公舎へ飾られている。兵庫県姫路市出身。
経歴
[編集]生い立ち
[編集]1927年(昭和2年)兵庫県姫路市に生れる。幼い頃、一家で岡山県新見市へ移住する。その後、第二次世界大戦中に徴兵され従軍する。終戦後、岡山県立高梁高等学校へ編入する。ここで高校の美術教師の影響から芸術に目覚める。1951年(昭和26年)高梁高校を卒業後[2]、約2年間働きながら進級するための学費を貯めた[3]。
そして1953年(昭和28年)大桐に転機が訪れる。この年新たに岡山大学教育学部特設美術科が創設され、地元の大学である岡山大学特設美術科1期生として入学する[2]。画家を志すが、在学中に彫刻に惹かれ、1956年(昭和31年)大学4年次に第12回日展で洋画『からたち』と彫刻『裸婦立像』を出品しともに入選を果たす。1957年(昭和32年)岡山大学を卒業する[2]。
彫刻家・教育者として
[編集]卒業後も同年の第13回日展で彫刻『裸像』が入選となる。後進の教育にも力を入れ、1961年(昭和36年)作陽短期大学講師、1965年(昭和40年)同短大助教授となり、日本アンデパンダン展、前衛美術会展などに彫刻を出品するが、彫刻家佐藤忠良の作品に感銘を受け[3]、1968年(昭和43年)40歳から新制作協会に出品する。詩情豊かな人物象が高い評価を受ける[3]。また、1969年(昭和44年)中国短期大学教授(後に名誉教授)となり、翌年、1970年には、彫刻『おんなの顔』が第23回関西新制作展・新作家賞を受賞。1972年には、彫刻『老人の首』、1973年には『てんぐるま』が連続で関西新制作展新作家賞を受賞した[4]。同年には、第38回新制作展に『髪洗いの女』を出品し会員推挙を受ける[2]。
1974年(昭和49年)46歳の時に、これまでの功績が認められて岡山県美術展審査員となり、1977年(昭和52年)11月には、岡山県教育委員会から社会教育・文化功労者表彰を受ける。1976年(昭和51年)イタリアに1年間留学しローマ国立美術院へ進学し、彫刻家エミリオ・グレコに師事する。1982年(昭和57年)には、故郷・姫路市美術展審査委員となる。1984年には岡山県文化賞を受賞。同年、参議院議長公舎へ彫刻『夏』が買上げ設置される[2]。
1987年(昭和62年)1月には岡山日日新聞芸術文化功労賞を受賞する。1995年(平成7年)には、佐賀県美術展審査委員となり、1998年(平成10年)1月に第56回山陽新聞賞、紺綬褒章を受賞する。2000年(平成12年)3月には、倉敷市立短期大学教授を退官し、同短大名誉教授となる[2]。
2008年(平成20年)4月28日に死去。享年80歳であった[2]。
主な作品
[編集]- 1970年『おんなの顔』
- 1972年『老人の首』
- 1973年『てんぐるま』
- 1982年『ミカ』岡山県立美術館収蔵
- 1984年『夏』参議院議長公舎設置
- 1987年『平和の像』岡山県岡山市平和都市宣言として設置
- 1988年『少女』兵庫県神戸市フラワーロード設置
- 1990年『はなはな』兵庫県姫路市シンボルロード設置
- 1991年『彫刻家Y氏の像』岡山県立美術館収蔵
- 1999年『ゆかたのミカ』岡山県立美術館収蔵
- 2000年『コスチューム』兵庫県姫路市シンボルロード設置
- 2000年『夏帽子の少女』兵庫県姫路市シンボルロード設置
- 2003年『早春の日に』岡山県新見市立美術館