大久保忠陽
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 明和4年(1767年) |
死没 | 文政9年7月19日(1826年8月22日)[1] |
別名 | 榮次郎、金次郎、玄蕃[2] |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 父:大久保忠元、母:相馬尊胤の養女(相馬福胤の娘)[2] |
兄弟 | 忠陽、勝田元休、高木貞雄、女子、女子、女子、乙次郎[2] |
妻 | 内藤政苗の娘[3][4] |
子 | 忠学 |
大久保 忠陽(おおくぼ ただきよ)は、大久保玄蕃知行所の7代目領主。上級旗本。寛政3年(1791年)4月26日、25歳で家督を継ぐ。火消役などを勤めた。文政9年(1826年)7月19日没。通称は玄蕃頭。
生涯
[編集]- 寛政2年(1790年)
- 寛政3年(1791年)
- 4月26日 家督を継ぐ[5]。(寄合)
- 寛政12年(1800年)
- 6月19日 火事場見廻[5]
- 享和3年(1803年)
- 12月20日 火消役[5]
- 文化7年(1810年)
- 文政元年(1818年)
- 9月5日 引退[5]