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大久保忠陽

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大久保 忠陽
時代 江戸時代
生誕 明和4年(1767年
死没 文政9年7月19日1826年8月22日[1]
別名 榮次郎、金次郎、玄蕃[2]
氏族 大久保氏
父母 父:大久保忠元、母:相馬尊胤の養女(相馬福胤の娘)[2]
兄弟 忠陽、勝田元休、高木貞雄、女子、女子、女子、乙次郎[2]
内藤政苗の娘[3][4]
忠学
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大久保 忠陽(おおくぼ ただきよ)は、大久保玄蕃知行所の7代目領主。上級旗本寛政3年(1791年)4月26日、25歳で家督を継ぐ。火消役などを勤めた。文政9年(1826年)7月19日没。通称は玄蕃頭。

生涯

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 静岡古文書研究会『新川事件の真相 駿州庵原郡瀬名村』(2010年、55頁)
  2. ^ a b c d 『新訂 寛政重修諸家譜 第十一』(1965年、402頁)
  3. ^ 寛政重修諸家譜 第4輯』(国民図書、1923年)p.212
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』の大久保氏系図では「安藤」とあるが誤植。
  5. ^ a b c d e 小川恭一『寛政譜以降 旗本家百科事典 第1巻』(東洋書林、1997年、483頁)

参考文献

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  • 『新訂 寛政重修諸家譜 第十一』(1965年)
  • 小川恭一『寛政譜以降 旗本家百科事典 第1巻』(東洋書林、1997年)
  • 静岡古文書研究会『新川事件の真相 駿州庵原郡瀬名村』(2010年)
  • 焼津市立図書館『焼津市近世資料集』(1987年)