大久保忠元
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 享保20年(1735年) |
死没 | 文化15年1月29日(1818年3月5日)[1] |
別名 | 金次郎、玄蕃、宗眠(号)[2] |
官位 | 従五位下・玄蕃頭、大和守 |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 父:大久保忠郷、母:某氏[2] |
兄弟 | 忠元、安部信録、忠亮、女子、女子、女子(佐野徳行妻)、女子(内藤正敏妻→長谷川正鳳妻)[2] |
妻 | 相馬尊胤の養女(相馬福胤の娘)[2][3] |
子 | 女子(小堀政共妻→京極高融妻)、忠陽、勝田元休、高木貞雄、乙次郎 |
大久保忠元(おおくぼ ただもと)は、大久保玄蕃知行所の6代目領主、上級旗本。寛延2年(1749年)12月22日、15歳で家督を継ぎ6000石を知行[2]した人物である。文化15年(1818年)1月29日没[1]。通称は玄蕃。
生涯
[編集]- 寛延2年(1749年)
- 12月22日 15歳で家督を継ぐ[2]
- 宝暦13年(1763年)
- 明和元年(1764年)駿府加番を勤める[4]
- 明和5年(1768年)
- 12月10日 [[[中奥小姓|中奥の小姓]]になる[2]
- 明和8年(1771年)
- 5月16日 従五位下・玄蕃頭に叙任[2]
- 安永5年(1776年)
- 4月 日光山詣に従いてたてまつる[2]
- 天明元年(1781年)
- 天明2年(1782年)
- 天明3年(1783年)
- 天明7年(1787年)
- 2月23日 忠元らはその職に適していないと言われ、不束の至りで職を奪われ、出仕をとどめられるが4月29日に許される[2]
- 寛政3年(1791年)
- 文化15年(1818年)
- 1月29日亡くなる[1]
玄蕃頭叙任祝
[編集]明和8年(1771年)5月、大久保忠元が従五位・下玄蕃頭に叙任するにあたり、西領7か村(方ノ上村、坂本村、中里村、中村、馬場村、花沢村、小浜村)惣代の熊八が祝うために江戸に行った。その際、大久保家の家臣にお茶など様々な贈り物を送っている[5]。西領7村で負担するための贈り物の合計金額は3両7分73文であった[6]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『新訂 寛政重修諸家譜 第十一』(1965年)
- 静岡古文書研究会『新川事件の真相 駿州庵原郡瀬名村』(2010年)
- 焼津市立図書館『焼津市近世資料集』(1987年)