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大いなる田舎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大いなる田舎(おおいなるいなか)は"大きな田舎"とも言い、愛知県名古屋市の"発展途上感"やそれに類する概念を包摂して表現した比喩であり[1]、さらには"東京大阪より後発だが、秘めている将来発展可能性はむしろ東京大阪よりも大きい"名古屋市の特質をも表わし[2]杜の都仙台火の国熊本、のように同市の名を掲げる際の都市冠称として、あるいは青丹よし(奈良)、神風の(伊勢)のように地名「名古屋」の枕詞として俳句等で使われる語である[注釈 1]

東京・大阪のような求心力には欠けるという名古屋市の特徴も表し、中学校社会科教員向け図書にも掲載され[3]、名古屋の市内・市外を問わず広く使用される語である[4]。近年の例では小説『君の名は。』に「名古屋じゃものたりない。あれは単なるでっかい田舎だ」という台詞がある[5]

市域の変遷 『名古屋市中区史』(1944)より

名古屋市をもって田舎とした文言は明治期から存在し、例えば名古屋の劇場客を「"田舎にしては"見巧者あり」と論評したものがある[6]。そのやや前に、名古屋が"中京"という異称を使い始めたことが東京にも伝わった頃、京都・東京のような皇城の地でもない名古屋が「京」と名乗るのに不敬の趣きを覚える人もいた[7]

1921年(大正10年)、名古屋市は近隣16町村を合併し、一挙に面積で日本第1位、人口規模で日本第3位の都市となった。ところが、人口密度は半減して5125人/㎢で、東京市(26,750人/㎢)及び大阪市(21,962人/㎢)[8]と比すれば桁違いに少なく、しかもその面積の過半が農村であったことから、「大いなる田舎・名古屋」の呼称はこの頃誕生したと考えられている[9]。田んぼのカエルの声が響くようなひなびた土地であるのに日本第三都市と標榜しているさまは、滑稽に思われた[10]

以降、名古屋を論ずるときに「田舎と呼ばれている土地」という意識が"通り相場"になってしまい[11]1930年(昭和5年)、愛知県が名古屋の工業生産額が大阪と同水準にまで成長したのを示した時、"田舎都市ということはできない"という一文を付け加えていたり[12]、東京の文芸記者が名古屋の特徴を記すにあたり"大きな田舎"と言ったりしている[13]1970年頃、名古屋市の『鈴木朖学会』は鈴木朖天野信景や名古屋市長を務めた河村たかしの遠祖にあたる河村秀根秀穎兄弟らによって江戸時代の尾張名古屋で勃興した国学・漢学の潮流をまとめて「名古屋学」と呼称しようとしたが、江戸時代ではなく近代の名古屋の学問と間違われ、「"大いなる田舎"の学とは?」と人から真剣に尋ねられてしまった[14]

「田舎」という語彙が"名古屋コンプレックス"の淵源、という言説は今日なお市井の幅広い階層で言われている[15]敷島製パン(名古屋市)は東京都内での販売を開始した時、「『シキシマパン』の語感には"名古屋の田舎臭さ"が浸み込んでいる」と判断し「パスコ」にブランドを改めた[16]清水義範丸谷才一との対談のなかで「田舎」も含め「名古屋の悪口を言う」というふるまいは、名古屋という実体とは全く無関係であって、それは都ではない地域を小馬鹿にするという大昔からある様式の一つであり、批評型式の一つに過ぎない、と解説した[17]。ある名古屋人は、それらになぜ反駁しないのかという理由として「PR術に長けていないから言うものには言わせておけ、という殿様意識と、他人の気持を汲み取るのが苦手の独りよがりの作用」と説明している[18]

偉大なる田舎

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1954年(昭和29)、週刊朝日の人気連載記事だった「日本拝見」のなかで、ジャーナリスト・門田勲が、古来からの『大きな田舎』では面白くなかろう、と名古屋を評するために編み出した造語である[19]。この「日本拝見」は大宅壮一の方が執筆担当回が多かったため、大きな田舎、大いなる田舎、偉大なる田舎、を大宅一人の創作に託す名古屋人もいるが、既述の通り誤りである。「"戦前"、偉大なる田舎といわれた」という説が、種々の文献やyoutubeに散見されるが、門田以前に名古屋をこの語で表した記録は確認できない。

青年都市

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「現況未開拓の土地が多いが将来発展の可能性は大[20]」という意味で、シアトル博覧会[21]満鉄沿線の長春[20]の記事に使われていたが、1924年以降、しばしば名古屋市にも使われた語である[22][23]。名古屋の詩人・小林敏之は「焼野原 大いなる田舎 青年都市の街」と謳った[24]。将来大都市になるであろうという観測から生れているが、他方で名古屋は近代化しにくい所と歎ずる名古屋人もいた[25]。1976年に週刊サンケイが「青年都市名古屋」と見出しに使った辺り以降、名古屋地方誌を除けば用例確認が難しく、1980年前後の五輪招致運動期にはすでに"古い言い回し"扱いされており[26]、「"大いなる田舎"と言ったほうが名古屋の異称としてよく通じる」とされている[27]

種々の論拠

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諸々の文献、記録から「名古屋は大いなる田舎、偉大なる田舎」あるいは「名古屋は大都会ではない」と断定した言説を紹介する[注釈 2]

高校を卒業しても大多数の者が愛知県内の大学へ進学することから東京への志向はそれほど強くないが、それが災いして外へ向かって積極的に自己アピールする能力には欠け、社交性が高いとは到底言えない[28]。あらゆるモノが地元で間に合うので豊かといえば豊かな土地だが、中日新聞が読者投稿を載せると、菓子折を持った投稿者がじきじきに社にお礼に来るというほど社会が身内だけで固定化されていて[29]、生粋の名古屋商人の子孫たち、いわゆる旦那衆で構成された"名古屋ロータリークラブ"なる組織が地域社会に隠然たる力を持ち、町ぢゅうに地元民にしか見えないローカルな掟が無数に張り巡らされていて、破った者は潰されるという[28]、それはまったくの"仲良しクラブ"であって自ら決断するところが少ない[30]

排他にして保守的な企業人

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こうした傾向は個々人の生活態度のみならず、地元財界にも十分当てはまることであって、すなわち地元商工会議所や地元経済連合会のトップの座は、ほんの一握りの地元企業から出た社長や会長職にある者たちの聖域とするのが暗黙のルールになっている[28]。"石橋を叩いても渡らない"と言われるほど限りなく吝嗇に近い堅実経営で、仮に石橋を渡るにしても、まず"北の湖級の重たい人を渡らせてから自分も渡る"という風に保守的で[31]、発展する都市には不可欠なダイナミズムを名古屋から奪っていた[31]。地元では圧倒していても外に出るとそれほどでもないお山の大将的企業の支配、郷土という一枚岩の価値観で結束する"農民と商人の合いの子"経営者とその従業員、こうした光景は「やはり名古屋は大いなる田舎と言うべき」と断じられた[32]ガチャマン景気たけなわの頃には、都市成立時期が名古屋市に比べてはるかに古く、門前町としてまた繊維産業の巨大な資本集中で全国に名を上げていた"小大阪"こと一宮市の方が「東海地方特有の地味さがなく、競争があり、大阪みたいで商売が面白い」と企業家間で高く評価されていた[33]

外部の財界人との間の交流が乏しく「保守的・排他的であると言わざるを得ない」という名古屋の風土に対する固定的先入観は、名古屋の企業や個人が殻を破って新しい動きを示すとき、彼らの壁となった[30]1967年、名古屋市に地元資本名鉄による一大ファッションビル『メルサ』が開店した。このときターゲットを、大阪や東京へレジャーや買物に出て行ってしまう10代後半~30代半ばの女性に絞るべく、思い切って地元商店を候補から排し、テナントを東京、大阪、神戸の専門店のみとする英断を下したのだが、『名古屋のイメージがものすごく悪くて』その出店交渉には大変苦労したという[34]東海銀行が古い殻を破ろうと提唱した[35]「名古屋五輪」もそうであって、せっかく国際舞台に躍り出ようとしても「外来企業を退け、単身赴任者に冷たく、泥臭い排外政治を続ける名古屋に、オリンピックは最も似つかわしくない」という批判[36]などから国民的支持を得られなかった。名古屋人から「街並みが名古屋に似ている」といわれる名古屋在住の北海道札幌の人たちも「企業も人も他所者に冷淡、閉鎖的。道産子とは全く真逆」との驚きを隠せないでいた[37]

ほぼ無きに等しい国際的知名度

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これが大きく論じられるようになったのは、1981年名古屋オリンピック招致運動期であるが、当時の新聞や週刊誌上に『大いなる田舎』や『偉大なる田舎』というワードが舞い躍った。あまりの知名度の無さに愛知県知事は国鉄に「Welcome to NAGOYA」と名古屋駅ビル外壁に書くよう依頼した[38]。名古屋市出身の体操メダリスト・中山彰規メキシコミュンヘンで「ナゴヤ」と言っても誰も知らなかった、と述懐している[39]。東京・大阪のような国立外国語大学設置の歴史もない市や愛知県の有力者たちに国際経験と語学力が足りなかったことも、五輪開催候補地選で敗れた一因として挙げられた[40]1953年海外視察に赴く大隈鉄工所(愛知県)のエンジニアは「大きな田舎の名古屋では会話の勉強ができない」と嘆いて出国した[41]。名古屋市はただでさえ"単一土着都市"と揶揄されるところへもってきて[42]、「全国から集まってきた外来者によるぬくもりのある交流生活の場」、「種々の知識・芸能とが激しく混じりあう日常的な交流の場」であり、都市の魅力には不可欠な"都市の清華"「下町」空間を、都市機能集積が東京大阪程度にまで発達しないうちに、広い道路建設で潰してしまった[43]。結果、外国人・外来者との接触場所は消え失せ[42]、その外来者から「国際的感覚がない」との批判を受け[44]、これらもまた名古屋をして訪れる人々に「都市砂漠」さらには「大いなる田舎」の念をいだかしめたのである[45]

乏しい観光資源

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再建中の名古屋城(戦後)『週刊朝日』昭和34年7月26日号

明治後期、名古屋の商人たちは「市内は平面的で山も水もなく、取り立てて紹介するほどの名勝もない」と自虐めいた観光案内を上梓した[46]。その後、『城でもつ』時代は終わりテレビ塔も日常の中に埋没し[30]、古来のきしめんういろうだけでは到底都市的魅力を支え切れるはずもなく[47]、名古屋にはあまりに自慢するものがなさすぎて"大都市ではない"と言われた[48]。直近でも「観光地が分散しすぎて体験が断片的になりがち。『名古屋らしい体験』がなく、街全体としてのまとまりを欠き、東京や大阪ならば古い街並みが"エモさ"や"下町情緒"としての効力を発揮するのに対し、名古屋のそれはただの『廃墟』であり『うらぶれた』印象で終わる[49]」と観光地としての欠陥を突く、手厳しい私見が提供された。

文化不毛

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江戸期、名古屋城下にもある程度の文化・学芸が華開いたことがあったが、尾張藩の統制やその影響下にある町人の実力の限界から、三都に割り込んで「四都」と認識させるまでのレベルには至らなかった、これが「大いなる田舎」呼称の素地になったのではないか、と言われた[50]。 学問の重きを医学・理工学に置く風土や、帝大開設以前から土地に根付いていた"高商(高等商業学校)文化"と呼ばれる「ともかく実学最優先」という実利主義的教育思想が見事に災いして[51]、芸術や文芸が一向にふるわず[52][53]、ゆえにそれらの価値を理解できる市民も少なく[54]、非文化的な面を多分に残している[55]。「芸どころ」と称すれどもそもそもその呼び名は博多金沢といった裕福な土地ならばどこでも使われていたありきたりの言葉で[51]、その言葉を換言すると「あら探しがうまい」ということだがそれは元来あるべき芸術鑑賞の態度でもなく[56]、しかも名古屋のそれは回顧的、尚古的、骨董趣味的なものに留まり[57]、知性と感受性の躍動がなく、新しいものを探し求めようとしない[58]美食家も少なく[59]東京に比して低級の味を好んで食べる[60][61]。せっかく才に恵まれた者が生まれても皆、郷土に文化を築かぬまま名古屋を後にし[62]、従って東京・大阪に繚乱する都市文学も伸び悩んだ[63]MadonnaMichael Jacksonの以前から新しい音楽に対する興味も薄く[64][65]、スター歌手と一流の作詞家、作曲家に地名を織り込んだ詞で歌謡曲を作らせても全くヒットしなかった[66]

頭脳なき工業地帯

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新幹線開通前の名古屋駅前『週刊現代』昭和35年12月23日号

名古屋は機械製造業を主とする重工業都市であるが、1964年の東海道新幹線開通で、そうした企業の中枢機能は東京に移転し、人口が増えるといっても工場労働者のみが増え[67][68]、"頭がカラッポでお尻だけ発達した[69]"『頭脳なき工業地帯』になる、と警鐘された[70]。現実にこの動きは現れ[71]、30年後東京大阪を2時間半で結ぶ新型新幹線のぞみ号が就役した時にも、名古屋の支社、支店を閉鎖する在京企業が現れた(東洋経済新報社等)。残存する第二次産業でも、東京の優秀な研究所と研究者たちは名古屋を嫌い[72]、生産現場は3Kのイメージから脱しきれず、技術系学生の獲得に苦労した[73]。ホワイトカラーの少ない市民の労働構成は地元民に劣等感を与えた[74]。飲食業の市場調査からみた中枢管理機能集積度の調査では、その値は東西に比して低く、これも「大いなる田舎」といわれる所以だとされた[75]

通過駅しかない虚像の大都市圏

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東海道メガロポリスなる用語が登場してほどなく、名古屋は"東京人と大阪人が往復しているにすぎない新幹線において、無くとも一向に構わない通過駅の宿命を背負った[76][77]"、東京大阪というガラス玉をつなぐ鼻先で固定するツルにすぎない"とする「東海道メガネポリス」という言葉が生まれた[78]。「名古屋には下車したくなる衝動を感じない」という言説はすでに東海道新幹線開通以前からあったが[79]、新幹線をはじめとした高速ネットワークの登場は、名古屋を東西の一日圏に変え、通過都市に変えた結果、「単一大都市的機能しか果たしていない[80]」名古屋はそもそも大都市"圏"ではなかったのだとする、"名古屋大都市圏虚像説"が登場した[81]。 通過都市では到底政治経済の中心には成り得ず[82]、東京、大阪ほどに話題の材料がないこと、都市としての性格づけが明確でなく、研究対象にしたところで焦点が定まらないことから、関東対関西のように対比しながら地理的歴史的な議論を積み重ねようとするとき、東京・大阪に比べて名古屋の存在が取り上げられることはないのが普通である[83]。「素通り文化圏」「中継文化圏」などと言われた名古屋では[84]、東京、大阪のものが何でもあるので、わざわざ独自の文物を生むひらめきも努力も必要なかったのである[85]

卑しく聞こえる言葉遣い

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名古屋方言アクセント東京式共通語との対立が少ないため[86]勢い東西間に埋没しやすく、東海道中膝栗毛においても、三条での京女との歓談場面とは対蹠的に、主人公2人は尾張国人の言葉を全て正確に聞き取っている。然しながら、名古屋の人々の言葉遣いについての東西からの論評は決して芳しいものばかりでなく、早くも寛政年間に「野鄙」つまり"田舎臭い"と滝沢馬琴が書き留めたことが知られている[87]。名古屋生まれの坪内逍遥は「最も悪趣味で意態の分からん言葉」と言った[88]1906年(明治39)、東京帝大岡田正美は流行する"女学生言葉"に対する私見を述べ、「いい声で美しく言えばよい。しかしマズイ声できたなくやられたら、ちょうど名古屋人京言葉を話すのと同じく、吐き気がする」として、"マズイ声"の好例として『名古屋人』の名を挙げている[89]1908年(明治41)には摂津電話交換手から、名古屋の人の声は"田舎者”と言われてしまった[90]

"大いなる田舎"こそが名古屋の魅力

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名古屋市が『大いなる田舎』と言われるとき、しばしば"ひどく嫌われ[91]"、"芳しくない[92]" 貶称だと捉えられがちである。がしかし、この語はむしろ「田舎の良さを都市の中に活かすことができる200万都市は、ただ名古屋だけである」という自負の念を醸成し、この称号を名古屋に与えられた唯一無二の宝物として街づくりに生かすべきだ、という意見もまた名古屋市には存在している[93]

愛・地球博の名古屋ブーム

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2005年愛知県で万国博覧会が開催された。「大阪万博より格下」(久米宏)などの雑音を交えつつ、"五輪誘致の落選やプラザ合意後の円高で愛知が厳しい状況にあった時代。万博は自信を取り戻すきっかけ[94]"となり一定の成果を上げたが、このとき一種の名古屋ブームが勃興した[95]

嘲笑、からかいの底意を伴わず、良い意味で名古屋が世間の耳目を集めたのは恐らく史上"初めて[95]"のことで、名古屋嬢名古屋めしなどは米・ワシントンポスト紙にまで取り上げられた[95]。同年、名古屋市の中部開発センターはこのブームの調査に挑み、元来女性が近寄りがたい"ものづくり都市"名古屋に、初めて外部の女性が着目した、女性主導型であることなどを詳らかにした[95]。一方でブームの消長について外部では「当分続く」と認識しているにも関わらず、地元市民は「一時的なブームでいずれ下火になる」と諦観していることも分かった[95]。中部開発センターは「地元の人ももう少し強気になってもいいのかもしれない」と締めくくっているが[95]、後節のようにこれは地元予測の方が正確だった。

2016年 主要8都市ブランド・イメージ調査

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早くも1960年代に名古屋市や名商らによって、市内調査地点に来訪した人を対象に『あなたの名古屋の印象』というアンケート調査が実施されており、その選択肢には「大いなる田舎」もあった。市民、名古屋市以外の愛知県民、愛知県外居住者の3つに分けて数値が発表されているが特段高い値を示しておらず、3者とも「都会的」や「便利である」といったポジティブな選択肢の方が値は高い。1991年になると、「福岡や札幌に劣り、若者にとってチャーミングさがない、"ギャル"の行きたい街20位内に入ったことがない」という何らかの統計調査を基にした言説が出ているが[96]、全国的なニュースにまで発展したものとは確認できない。

2015年実施の民間による全国都市ランキング調査で認知度は5位だが魅力度が31位だったことから、イメージアップのため名古屋市役所が2016年に立ち上げた「ナゴヤ・プロモーション会議」の第2回会議が同年7月6日開催された。席上、市担当者が参考資料として出席者に配った「国内主要8都市ブランド・イメージ調査」の結果は、「最低だろうと思っていたけども、これだけポイントが低かったのは、びっくらこいた」(河村たかし名古屋市長)[97]という内容で、名古屋市は8都市中『買い物や遊びで訪問したい都市』、『最も魅力的に感じる都市』、『住んでいる都市を友人・知人に勧めたいか』で最下位、逆に『最も魅力に欠ける都市』では2位に大差をつけての1位、など惨憺たる結果であった。

調査結果は当日中に中京テレビ名古屋テレビ、さらに東京のテレビ朝日が東京ローカル枠のニュース番組で報じた[98]。翌8月には8日発売の週刊ポスト(小学館)が『名古屋ぎらい』と題する特集を掲載[99]、以降通して4号にわたって連載した。週刊プレイボーイ(集英社)も8月19日発売号に「名古屋を襲う空前の大ピンチ!」、翌々号にも当時河村市長が日経紙上などで揚言していた"横浜を追い抜く人口400万の大尾張名古屋共和国計画"の紹介を含む「名古屋の逆襲が始まった!」なる名古屋特集記事を載せた。先述の愛・地球博などで「大いなる田舎」などといった名古屋コンプレックスは消滅した、と思っていた人もいたが、ここにその思いは裏切られたのであった[100]

だが、多くの市民は動ずることなくこの結果を受け止めており、名古屋市が11月21日に発表した『「行きたくない街ナンバーワン」調査結果に対する市民アンケート結果』では「残念だが仕方ない」と「当然と思う」の容認派が80%を超えており、「いじられ慣れている」「もう名古屋を放っておけ」という意識が支配的なため、と分析された[101]。ただし週刊ポスト編集部には名古屋からのクレーム電話が殺到していたという[102]

「何でもバカ正直に公表すればいいというものじゃない」と清水義範が結果提出に至った市の行動に異を鳴らしているが[100]、そもそも発端となった調査結果資料は"公表"ではなく会議の出席者にしか渡されていない。ただその会議はテレビカメラや新聞記者が比較的自由に取材できるものであり、元SKE48梅本まどかも出席する会議での配布資料であったことから、多分にマスコミ報道を期待して出されたものである可能性が高く、名古屋の全国的社会的注目度を増幅させるためのプロ―モーションの一手だったフシがある[103]。事実、上述のように名古屋の露出は急増しており、2016年10月3日には日本テレビ月曜から夜ふかし「魅力に欠ける都市第一位の名古屋に行ってみた件」や10月8日にはフジテレビめざまし土曜日「魅力ない都市№1名古屋 PRにマツケン」など、全国ネットでのテレビ放送でも大きく取り上げられ[98]、故意か偶然かは判然としないが、この調査結果が公けになったからこそ、名古屋の知名度が上昇したこと、あるいは名古屋を観察し名古屋を評論する多くの機会を市外に創出できたことは間違いない[103]

脚注

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注釈

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  1. ^ 「麥秋や名古屋は大いなる田舎」( 『ホトトギス 十一月號』 ほととぎす社、1952年11月1日刊 p28)「大いなる田舎名古屋は鰯雲」(『雲母 新年号』雲母社 1957年1月1日刊 p88)「蚊ばしらや名古屋は大いなる田舎」(『東海観光俳句集』東海俳句作家会編 1983年7月1日刊)等々
  2. ^ 客観性を保つため、名古屋に縁深いと推察される者や愛知県や名古屋市関係者らによる「昔は田舎だったが今は大都会だ」的な自画自賛、単なる「お国自慢」の域を出ないと考えられる記述、言説は必要最小限とした構えである。またタモリの発言も一切記述していない。

出典

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  1. ^ 中部公安調査局長 高橋真清 (1954-9). “名古屋市は大きな田舎か?”. 名古屋商工会議所月報『那古野』9月号 (名古屋商工会議所): 36. "発展途上の大名古屋市を『大きな田舎』といわせる根本的な原因ではなかろうかと私は考える。それよりも、栄町、広小路通その他主要街路の商店に並べられた品物や店の飾りつけに文化的な香りの乏しいものが多く、特に街路を歩いている人の服装や態度が、なんだか伝統的な奥ゆかしさもなければ、レファインされた文化的感色も乏しいように見受けられ、これが名古屋を垢抜けのしない『大きな田舎』だといわせる" 
  2. ^ “マーケティング風土記(5) 名古屋”. 『広告』夏季 (東京: 博報堂) (206): 70. (1965-8-1). "見出し写真にある"青年像"に象徴されるように、おおいなる田舎名古屋は、そのゆえにこそ、豊かな青写真を描くのにふさわしい都会だ、ということになるのだろう" 
  3. ^ “Ⅰ中部地方の基本的事項と指導案”. 社会科地誌学習の改造 日本とその諸地域 中部・近畿・中国・四国・九州編』. 東京: 明治図書出版. (1973-7-1). pp. 42-43. "明治以降の発展は東京・大阪におよばなかったが、「大いなる田舎」といわれる都市で、発展の可能性を内蔵していた。名古屋は中部圏の中枢ではあるが、首都圏の東京、近畿圏の大阪のような中心性を示すものではない" 
  4. ^ 名古屋地検検事正 山根正 (1973-7-1). “裁判所検察庁法務局めぐり(78) 愛知を語る”. 『法曹』7月号 (東京: 法曹会): 10. "かつて名古屋は『大いなる田舎』と呼称されていた。現にわたくしが昨年一月当地に着任するに当り、東京の友人数名からこの言葉をしきりと聞かされた。土地の人々もそのことを意識しているとみえ、最近(四七年十月)の市発行の市政便覧の中に、『市民性はタンス預金、排他性で多分に誇張と誤解があったにせよ"非都会性"で象徴されてきた』と記されている" 
  5. ^ 新海誠 (2016). <角川文庫> 『小説 君の名は。』. 東京: 角川書店. p. 72. "「あーあ、私、さっさと卒業してこんな町からおさらばしたい!東京行きたい!それで絵に描いたようなシティライフを満喫したーいッ!」「そうだー!名古屋じゃものたりない。あれは単なるでっかい田舎だ。いっそ東京だ」" 
  6. ^ 歌舞伎編輯所, ed (1906-12-15). “名古屋の芝居”. 『歌舞伎』第八十號 (歌舞伎發行所): 12. "元来名古屋は藝道に身を入れる風習あり、旅興行の俳優なども、此地を煙つたがる事は、夙に世人の知る所、されば田舎にしては恐ろしき程の見巧者あり、所謂寸鐵人を殺す大向の半畳なんど、往々にして歷々の劇評家先生にも言い得可らざる味ひのあるとあり" 
  7. ^ “(五五)名古屋の繁榮”. 『經濟叢書 雜錄 壹』. 東京: 有斐閣. (1902). p. 38 
  8. ^ 大正14年国勢調査 人口市郡”. 2024年1月15日閲覧。
  9. ^ 和木康光. “中部財界の系譜=その軌跡と志向<最終回> 名古屋の評価と未来志向”. 『中部財界』7月号 (名古屋: 中部財界社): 28. "これは、いつごろから、どうして言われだしたのか、確証はつかめないが、おそらく大正十年の大合併以来の呼称であろうと思われる。当時全国では市町村合併がはやり、名古屋も「大きいことはいいことだ」とばかり、近隣十六町村を大合併した。これによって名古屋は一挙に人口で第三位、面積では第一位になったが、その面積の過半は農地だったといった実情だったところから、そんな揶揄が向けられたのであろう。今日も、ひところタモリが"えびフライ"うんぬんと名古屋をからかったことがあったが、名古屋は"ダサイ"ものの代表的存在・象徴のように見られがちである" 
  10. ^ 小酒井不木 (1929-05-21). 小酒井不木全集第十二巻 『名古屋スケッチ』. 東京: 改造社. p. 182. "『今様くどき』の名古屋町盡しの冒頭だがその碁盤割も、大名古屋市となつた今は崩れて、人口八十八萬は有難いけれど、日本第三の都市と威張つたならば、その都市の田圃で、盛んにメートルをあげる蛙どもから、ゲタ/\笑はれるにちがひない" 
  11. ^ 山本正雄 (1948). 財界を支配する百人. 東京: 同友社. p. 194. "名古屋は封建的な大きな田舎というのが通り相場になっている。田舎論はとにかくとして封建的というのはどうだろうか" 
  12. ^ 愛知縣都市計劃課技師 石川榮耀「名古屋に於ける臨海工業地域の紹介」『『名古屋商工會議所月報』』第263号、名古屋商工會議所、名古屋、1930年1月19日、33頁。「名古屋市に於ける、工業の情勢その他については略します。たゞ人口一人當りの工産高と云ふ樣なバクとした統計から申さば、東京二〇〇円(昭和元年) 大阪四〇〇(昭和三年) 名古屋四〇〇で、名古屋が決して三大都市としてヒケを取つては居らぬ事丈はお解りになりませう。勿論東京は、町村合併を餘りやらないで、近郊に大工場があるところから、本當はも少し此の數字は上るかも知れませんが、其れにしても倍と見ればよいでせう。結局名古屋を田舎都市等と云ふ事は出来ない」 
  13. ^ "都市欄 名古屋". 文藝春秋 昭和十年十月號. 東京: 文藝春秋社. 1 October 1935. p. 435. 「『君、名古屋は大きな田舎だよ』と事もなげにやつてのける心臓の強いのがゐる。百萬市民を持つ日本第三位の大都市といふ意識を追ひ越してしまつて『大きな田舎』とやつつけられて暴言だと片附けて了ふのは、然し早計のやうだ。」「名古屋人は地味で田舎臭いなどと言つたら、せゝら笑はれるだらう。名古屋人は東京人のやうに着道樂もしなければ、大阪人のやうに食道樂もしない。なけなしの金で着たり喰つたりが何だとせつせと貯める」
  14. ^ “離屋読書説”. 『文莫』第三号 (名古屋: 鈴木朖学会): 81. (1978-7-15). "そこで那古野学とするのが妥当ではないかと愚考する。勿論名古屋学と表現するのも悪くはないが、しかし名古屋という文字面は、どうも近代の名古屋というまちが読者の想念に懸けられそうで、不都合である。さらに「学」を添えるということになると、なおさら現実的な理解が加えられて、具合が悪い。時には、「大いなる田舎」に「学」とは?と、真剣にからかう真面目な人さえある始末。「那古野学」と表記すれば、従ってそのようなおそれもなかろうかと思う" 
  15. ^ "OL言いたい放題 会社の下部構造《日本シリーズOLバージョン 今年の日本シリーズを占う!?名古屋OLvs博多OL決戦》". 週刊ポスト. 東京: 小学館. 5 November 1999. p. 120. 友紀 名古屋出身者って、聞かれれば答えるけど、あんまり公言しない。「名古屋ってイケてないって思われるんじゃないかしら」、そんな疑心暗鬼の気持ちとか、コンプレックスがなんとなくあるのね 祥子 博多とはまったく逆。博多の人間は「私が博多です」って堂々という。「私は博多です」じゃないのよ。「私が」なの。加代「私が東京です」なんて普通はいわないもんね。 祥子 「私が博多です」って言葉にはものすごい郷土意識とプライドがあらわれてるのよ。コンプレックスがあるどっかの人とちがってね 友紀 なによ。名古屋ってロサンゼルスと姉妹都市なのよ。 加代 ナニソレ。全然自慢に聞こえないんですケド~。 友紀 でも、名古屋が田舎だって、名古屋の人が一番思ってるのかも。 加代 なるほど。それで川島なお美は、田舎者というコンプレックスの裏返しで、ソムリエを目指したりするわけね。
  16. ^ 朝日新聞社名古屋本社経済部, ed (1972). 『東海経済をになう人びと』. 風媒社. pp. 187-190 
  17. ^ “対談◎悪口の日本語 丸谷才一 清水義範”. 文學界』96年7月号 (文藝春秋): 154-173. (1996-7-1). "清水 名古屋の悪口を言う、という批評の型、悪口文化が確立しているというおもしろさを書きたかった。でも、単に私が名古屋のことが嫌いで、悪口を言いたかっただけ、という一番困る理解もたまにあるのですけれど 丸谷 型を獲得してしまっているから、単に文化の型として、鄙の悪口を言うんです。現代でいえば、タレントのタモリ氏が田舎だとか名古屋の悪口を言って笑いをとりましたけれど" 
  18. ^ 伏谷紀子 (1 March 1992). "《地方再発見シリーズふるさと新時代(5) 愛知県》東海の雄、名古屋の面白さ ― いま眠れる龍は目覚めた やっぱり愛知県は東海の雄だという再認識". 小説宝石』3月号. 東京: 光文社. p. 151. なんで愛知県人は『田舎都市』といわれても怒らないんだろうか。結論は、大失敗した名古屋オリンピックに例を取るまでもなく、PRの下手なことがあげられるのではないか。言うものには言わせておけ、という殿様意識と、他人の気持を汲み取るのが苦手の独りよがり
  19. ^ 門田勲 (30 May 1954). "日本拝見31 名古屋 偉大なる田舎町". 週刊朝日. 東京: 朝日新聞社. pp. 32–35. ものは言いようだ。大きな田舎町などというと面白くないかもしれない。「偉大なる」といったらどんなものだろう。名古屋は偉大なる田舎町だ。偉大なる田舎町に、天守閣と金のシャチホコが見られなくなったのは寂しい
  20. ^ a b 「前途多望の長春」『『實業公論』三月號 滿洲及西伯利號』、實業公論社、東京、1919年3月20日、48頁。 
  21. ^ “北米太平洋岸の靑年都市シヤトルに於ける大博覧会(一)”. 『グラヒック』第一巻第十四號 (東京: 有樂社): 8. (1909-8-1). 
  22. ^ 「靑年都市名古屋」『『工政』8月号』、工政会、大阪、1924年7月20日、48頁。 
  23. ^ 名古屋局客貨車課長 宮尾正美「名古屋風景 青年都市」『『車両と電気』11月号』、車両電気協会、東京、1968年11月1日、19頁。「戦前、名古屋は「偉大な田舎」といわれた。人口ばかり多くても、少しも都会的でない、やぼつたいところという意味であろう。しかし戦後は一変した・・・名古屋は、まさに中部経済圏の中核都市として発展する若々しい「青年都市」である」 
  24. ^ 小林敏之 (1970). 詩集『銅鐸』. 名古屋: 自家版. p. 11『27の街』 
  25. ^ 小酒井不木 (1929-05-21). 小酒井不木全集第十二巻 『名古屋スケッチ』. 東京: 改造社. "今の京都よりも、却って名古屋に昔くさい感じの多いのはどうした訳であらうか。廬山に入っては廬山を見ず、まして、病身もので、めつたに外出しない筆者のことだから、大きなことは言へぬけれど、どうも名古屋は近代化しにくい性質らしい" 
  26. ^ 「活力と魅力ある名古屋都市圏づくりについての提言」『名古屋商工会議所月報『那古野』』、名古屋商工会議所、名古屋、1981年4月1日、1-5頁。「このような観点から当地域を顧みれば、第一に、名古屋市が若い頃、青年都市と評価され、前述の二つの基本的要素を持ちながらも、白い街、大いなる田舎との指摘をうけることが多いのは、とくに第三の要素を欠いている点にあると思われる。」 
  27. ^ "《白眼青眼》青い鳥追う名古屋". オール大衆. 東京: 株式会社経済通信社. 15 December 1980. p. 26. トヨタをはじめ、大企業もあるけれども、かつて"青年都市"といわれたバイタリティより"大いなる田舎"という形容の方がいまだに通りがよいという現実
  28. ^ a b c 相川俊英 (1 November 1998). "「愛知万博」懲りないメンメン 五輪がダメなら万博があるギャア。いまだバブルの夢追う地方行政と、そこに群がるハイエナたち―名古屋、この大いなる田舎―". 新潮45. 東京: 新潮社. pp. 92–102.
  29. ^ "'東洋一'の先陣争いにわく名古屋". 週刊現代. 東京: 講談社. 23 October 1960. pp. 22–25. 名古屋で絶大の勢力を持つ中部日本新聞のある記者はこう語っている。「"ある読者の意見"なんてことで、氏名と年齢を紙上に発表しますね。すると『ありがとうございました』と菓子折をもった読者が社へ来るんですからねえ」名古屋人の地元びいきも"大いなる田舎"を世間にPRする一原因。
  30. ^ a b c 「マーケティング風土記(5) 名古屋」『『広告』夏季』第206号、博報堂、東京、1965年8月1日、65-70頁。 
  31. ^ a b 宮本貢 (12 June 1981). "タモリにこけにされた大いなる"田舎"名古屋大研究 それでも'88オリンピックへバク進中". 週刊朝日. 東京: 朝日新聞社. pp. 159–163.
  32. ^ 江坂彰「トヨタ、ノリタケ、カゴメ、御幸毛織・・・「名古屋商法」に未来はあるか」『『プレジデント』』、プレジデント社、東京、1986年12月8日、214-223頁。 
  33. ^ 「名古屋は果して「大いなる田舎」か《尾張一宮の巻》」『『通信タイムス』6月号』、通信タイムス社、東京、1958年6月15日、53-54頁。 
  34. ^ 「《今月の人》株式会社メルサ・取締役社長 鷲埜和夫氏」『『ショッピングセンター』12月号』、日本ショッピングセンター協会、東京、1980年12月1日、12-13頁。 
  35. ^ 「国家投資で地域開発という虫のいいねらい 五輪誘致に賭ける名古屋財界 道は険しく思惑はずれの懸念も」『『経済展望』53年9月15日号』、経済展望社、東京、1978年9月15日、48-49頁。 
  36. ^ 西野幾次 (1 December 1980). "可哀そうな名古屋五輪". 『実業の世界』1980年12月号. 東京: 実業之世界社. pp. 16–19. それは多分に名古屋の閉鎖的な土地柄による。よそものを排他するという気風が名古屋に強いことは否定できない。なんでも地元の事は地元でやろうというのは、自尊心からいって立派なことだが、せまい日本の中で名古屋モンロー主義を堅持している姿はいかにも泥臭い。名古屋といえば、われわれはどういうイメージを持っているか。東海銀行、名古屋城、名古屋鉄道、松坂屋、中部電力、中日新聞、日本碍子、トヨタ自動車、中日ドラゴンズといったきわめて地域性の強い企業群である。名古屋に攻め入ろうとする企業はいずれも苦戦している。名古屋支店につとめるサラリーマンは、妻子を引き連れて現地にどっしり根をおろさないとまともに相手にされないといわれる。その意味で名古屋という都市は、一番オリンピック開催にふさわしくないところである
  37. ^ "名古屋人国記<1> 中京北海道クラブ「デッカイドーに魅せられた寄合所帯」". 『中部財界』10.1. 名古屋: 株式会社中部財界社. 1 October 1980. pp. 36–37. 「他県からの流入人口が過半数を超えた名古屋。"大いなる田舎"にも33の県人会組織ができている。郷土意識がきわめつき強い当地で"ヨソ者"の苦労も並々ならぬものがある」「名古屋に街並みが似ているといわれる札幌は人口130万人の大都会だ」「最後にクラブ員から名古屋人に対する感想を聞いてみた。北海道といっても地域により風土気質、方言は異なるのだが、これだけはピタリ一致した。『名古屋というのは、企業も人もヨソ者に対しては非常に厳しいです。閉鎖的でとけこみにくい。道産子はこれとまったく逆の気質なので、落差とショックは大きいです』」
  38. ^ 東海銀行常務調査部長水谷研治 作家深田祐介 JR東海社長須田寛 (1991-5-1). 特別レポート●名古屋圏のグランドデザインを読む 強い経済力、勤勉な住民、豊かな自然・・・・・この街の周辺域は「可能性の大地」だ 名古屋が「魅力ある都市」に再生する条件. 東京: プレジデント社. pp. 242-249. 
  39. ^ 愛知県教育委員会(編)「《この人に聞く》メキシコ、ミュンヘン・・・・・、そして名古屋へ 中京大助教授 中山彰規さん」『教育愛知 9月号』、愛知県教育振興会、名古屋、1981年9月1日、40頁。「名古屋の国際的な知名度は、非常に低いですね。メキシコだとか、ミュンヘンだとかへ行って、いろんな質問を受けました、『どこに住んでいるのか』というように。普通尋ねられるのは、「東京か」「大阪か」。「違う、名古屋だ」と答えると、「ナゴヤ?どこなんだ?」。しょうがないから東京と大阪の中間ぐらいにね、「だいたいこの辺りが名古屋だ」と」 
  40. ^ “《検証》名古屋五輪はなぜ敗れたか―外交なし―「招致」ならぬ「視察団」”. 朝日新聞東京版夕刊1版: p. 3. (1981年11月4日). "今にして思えば、名古屋代表団は動けなかったという方が的確かもしれない。その理由の一つは招致団メンバーの語学力不足と、国際経験の乏しさ。県議団、市議団の代表も加わっていたが、当初から「招致団」というより、名古屋五輪開催決定の瞬間を見物にやってきた「視察団」の色合いが濃かった。" 
  41. ^ 「機械の研究 Science of Machine 8号」『欧米工作機械のぞく旅から(1)』、養賢堂、東京、1953年8月、535頁。「大きな田舎と名のある通りに名古屋では会話の勉強もままならず、一向にしゃべるケイコもしないで出掛けてしまった」 
  42. ^ a b “名古屋寸評 他都市比較の見地から”. 名古屋商工会議所月報『那古野』 (名古屋: 名古屋商工会議所): 33. (1983-1-1). "□名古屋には、外部者(含む外人)との接触可能な場所がほとんどない ヨソ者がたむろしているところは、アバンチュール的楽しみがある。EX.横浜・神戸の港、京都の寺社、広島・長崎の平和公園/ヨソからの学生やナゴチョン族も多くない。いわば単一土着都市。" 
  43. ^ 宮本憲一 (1989-9-29). “一 名古屋市の再生をどうするか 下町のない町”. 小学館創造選書(79)都市をどう生きるか―アメニティへの招待. 東京: 小学館. p. 109. "たしかに一見すると大都市的風貌をしているが、そこからは下町の猥雑さというか、種々の職業の混合した集積の利点が消えてしまい、寂莫とした感じがすることになってしまった。都市が農村とちがって魅力があるのは、いろいろの職業の人が狭い空間で生産し、取引をし、種々の知識や芸能をもった人々が日常的に交流することにある。職住が混合し、あらゆる都市的機能が集積して、市民が徒歩あるいは自転車で日常生活を充足させ得るような下町こそが、都市の「清華」だったのである。また、大都市の「下町」は全国から集まってきた外来人が、ぬくもりのある交流をして生活をするコミュニティでもある" 
  44. ^ 三菱銀行常務取締役名古屋支店長 増田温「名古屋商法に排他性はない」『名古屋商工会議所月報『那古野』』、名古屋商工会議所、名古屋、1983年1月1日、32頁。「その他私が名古屋へ来て数カ月で感じましたのは「国際的感覚にやや劣るのではないか」ということであります。全国第三位の取扱高を誇る名古屋港を持ちながら今一歩国際化に対する木目細かい具体策に欠けるように感じておりました」 
  45. ^ 宮本憲一 (1989-9-29). “一 名古屋市の再生をどうするか 大いなる田舎”. 小学館創造選書(79)都市をどう生きるか―アメニティへの招待. 東京: 小学館. p. 109. "にもかかわらず、名古屋市は「大いなる田舎」あるいは「都市砂漠」などという批評があり、都市のイメージがよいとはいえない。このような評価には、客観的な都市比較から出ていないものもあり、すべてが正しいとはいえぬが、市民自らも「大いなる田舎」という批評を是認しているところもあり、真実を突いているといえぬこともない。その理由はどこにあるのか。" 
  46. ^ “第三篇 娯樂の巻 一勝地”. 最新名古屋案内. 名古屋: 名古屋經濟界. (1909). p. 1. "名古屋は平面な都であるから、風景上山の奇と水の美に乏しく、市内には取り立てて紹介するほどの名勝もない" 
  47. ^ 谷川正己「土着の建築家たち あるいは外輪山的建築家たちⅣ 名古屋の建築家たち」『『建築』2月号』、中外出版株式会社、1971年2月1日、111-112頁。「名古屋に土着の文化が育たなかったのは、彼らが自閉症に陥るか、あるいは故郷を棄ててメガネのガラス球に飛び込むか、いずれかの方法しか無かったからだろう。尾張名古屋は、いまや城ではもたなくなってしまったし、名古屋名産のういろうやきしめんが、都市的魅力に貢献する保証は何もないのである」 
  48. ^ 伏谷紀子 (1 March 1992). "《地方再発見シリーズふるさと新時代(5) 愛知県》東海の雄、名古屋の面白さ ― いま眠れる龍は目覚めた やっぱり愛知県は東海の雄だという再認識". 小説宝石』3月号. 東京: 光文社. p. 150. 大都市、大都市といってるが、本当にそうだろうか、と疑問視している人もいるね。だいたい、愛知県には自慢するものがなにもない。なにもかも中途半端なんだよ
  49. ^ 杉浦 圭 (2024年12月27日). “名古屋だけが観光地として「物足りない」のはなぜ…「充実し過ぎる街」が抱える問題点”. 現代ビジネス. 2024年12月27日閲覧。
  50. ^ 服部幸雄 (10 December 1970). "―時評― 関山和夫著『中京芸能風土記』". 『芸能』十二月号. 東京: 芸能発行社. pp. 62–63. この土地に、文化・学芸の花が開かなかったはずがない。たしかに、それは栄えたのだ。「芸どころ」という称さえ与えられていたのである。しかし、江戸・京・大坂を併せて、『三都』と呼び『三ヶの津』と称した中に割りこんで「四都」と認識させることは、遂にできなかつた。それには、藩の政治体制の在り方と、その影響下にある町人の経済的実力の限界があつたのに違いない。『大いなる田舎』といわれるだけの理由が、そこにあつたような気がする
  51. ^ a b "本社記者座談会 焦点を追って㉙ 尾張名古屋の底力". 週刊朝日. 東京: 朝日新聞社. 26 July 1959. pp. 22–27.
  52. ^ 尾山篤二郎 (1936). "名古屋の裏表". 改造 3月. 東京: 改造社. 「また名古屋には、名古屋だけの文化があって、その範囲内では、絵畫でも文學でも、名古屋だけの絵畫 名古屋だけの文學で間に合ふと心得てゐる。」「とは云ふもののこの名古屋文化だが、どうかすると小さく殻を作りすぎる。悪くすると所謂名古屋出来といふものになる。」「だから現在でも、ひよつとすると将来も、名古屋はアマチユア文化になりさうな懸念が多い」
  53. ^ 御沢昌弘「《詩学案内 詩都通信》名古屋市」『『詩学』3月号』、詩学社、東京、1959年3月21日、14頁。「「名古屋は前時代的な詩人の集まりが多く、排他的、自己閉塞的であり、事大主義的で、外部と内部の対立矛盾の統一などという現代詩人の主体性には全く欠け、名古屋の地方文化の持つじめついた微温地帯に無批判的に順応していくといつた状態である」「どうも名古屋の悪い面ばかり書いて来たようであるが、誰がつけたか知らないが<名古屋は大いなる田舎>であるとよくいつたものと思う」 
  54. ^ 「名古屋気風」『『工政』8月号』、工政会、大阪、1924年7月20日、55頁。「尾張に生まれたるものは智識がよく發達して居つて、小智惠は中々あるが、大きな智慧が尠ないやうである。數人紳士が集れば必ず儲け口から人の批評を爲すのみにて、政治にも趣味なく、文學美術にも亦趣味薄きやうに思はる」 
  55. ^ 名古屋市信用保証協会 高島英明「中小企業の組織化を」『信用保証 №44』、全国信用保証協会連合会、1968年6月29日、108頁。「さて、名古屋という土地柄は、その昔より『大いなる田舎』と表現されてきた如く、外観巨大なる都市構造を備えながら、内面的には積極性に乏しく他の大都市に比べ非文化的と思われる面が存し、精神面においては保守的な考え方が優先していたようであり、産業一つをとりあげてみても、遅々とした発展ぶりであった」 
  56. ^ 偉大な田舎 -名古屋素描-」『『財政』第21巻第1号』、大蔵財務協会、東京、1956年1月1日、186-187頁。「また名古屋は芸どころだといわれる。それは芸を見る目が肥えているという意味である。別の言葉でいうとあら探しがうまいということになる。果してこれが本当の芸術鑑賞の態度といえるであろうか。いかにも田舎くさい見方である。」 
  57. ^ "都市欄 名古屋". 文藝春秋 昭和十年十月號. 東京: 文藝春秋社. 1 October 1935. p. 435. 然し、この藝どころといふ所、矢張り名古屋の體臭らしい。つまり回顧的で、尚古的で、骨董趣味的で。
  58. ^ 飯田経夫 (1981). “プロローグ”. In 日本経済新聞社. 『中部産業百年史 独立自尊の経営風土』. p. 13. "よく聞かれる『名古屋は文化不毛の地だ』という言い方は、あるいはこの点と関連するかもしれない。たしかに名古屋を中心とする中部の『文化』には、知性と感受性とがあまり躍動しないところがある。もう少しくだいていうと、何か新しいものをさがしもとめて、たえず目をキョロキョロさせるようなところが、あまり感じられない" 
  59. ^ 小酒井不木 (1930-5). 名古屋スケッチ(小酒井不木全集 第12巻). 東京: 改造社. "尤も名古屋には、食通は至つて少ない。名古屋人には、おつな食物よりも、やすい食物が気に入るのだ" 
  60. ^ 「マーケティング風土記(5) 名古屋」『『広告』夏季』、博報堂、東京、1965年8月1日、68頁。「あるパンのメーカーが、食パンを主体に生産を始めたところが、左前。そこで、アンパンに切り替えたら非常に成績がよくて立ち直ったというのです。ちょっと古い話ですけれども、どうもここでは、おかしないい方になりますが、東京などと比べたとき、味のレベルを落とした方がいいようなところがある」 
  61. ^ 狩野近雄 (1961-10-20). 『お値打ち案内』. 文芸春秋新社. p. 210. "寿司屋にしても、ほとんどが人造ワサビだ。緑色をしていてヒリリとすれば、なにも値段の高い天然ワサビを使うこたあない、のである。つまり少々うまかろうが、高いものより、少々まずかろうが、量があって安いもののほうがいい、そういう土地柄、と知った" 
  62. ^ 関口苑生. “解説”. 名古屋ミステリー傑作選. 東京: 河出書房新社. p. 304. "『人生劇場』の尾崎士郎などを筆頭に(確かにこの小説は名古屋を出て、都へ行って名を成していく話だ)、金子光晴谷川徹三新美南吉、大衆文学の世界では佐々木味津三牧野吉晴城山三郎など数多くの文学者を生んでいるにもかかわらず、いずれもその後の生活の基盤は名古屋ではなくなっている。現在活躍しているミステリ系の作家でも辻真先連城三紀彦大沢在昌山田正紀東野圭吾山村正夫井沢元彦等々出身者はかなりいる。しかし、このことは逆に考えてみればそれだけ名古屋は作家生活の出発点となりうる何者かを、持ち得ているという事が出来るだろう。ただ単にそこで生活をしていないというだけなのである。ではあるが、これがまさしく名古屋の特徴なのだ。戦国時代の三英傑しかり、現代の作家しかり。人物は生み出すけれどもそこに独自の『文化』は築かない。東と西の橋渡しをするだけなのだ。だからこそ『中継地点文化圏』と呼ばれる所以でもあるのだろう" 
  63. ^ 鮫ヶ寺廣光 (20 September 1936). "美人と城の都素描―吾等の町『名古屋』を語る―". 改造』九月. 東京: 改造社. 此の名古屋人にして、この名古屋を舞臺にした、小説や戯曲のまだ発表されないことを、筆者は實に遺憾に思ふものである
  64. ^ 名古屋ヤマハ・ジャズ・クラブ会長 伊藤邦治「《全国ジャズチャンネル》内田修氏と名古屋ヤマハ・ジャズ・クラブ」『『スイングジャーナル』4月号』、株式会社スイングジャーナル社、東京、1980年4月1日、307頁。「地元の人ですら名古屋のことを"大いなる田舎"とか"非文化都市" "エコノミック・シティ"と称する方がある。私自身そう思うこともあり、確かに来日コンサート等も名古屋を通過してしまうことが多々ある。確かに大物と称するミュージシャンはまずほとんど地理的条件もあってほとんど来名している。しかしそのすべてが満席だったわけではないし、まして将来を期待される若手とか玄人好みのコンサートや日本のジャズ・プレイヤーのものは主催者がかわいそうになるくらいの入りの時もある。もし、誰かがこの名古屋を非文化都市と見下されて怒ったならば、その前に一体この名古屋のためにあなたは何をしたのかと問いたい。」 
  65. ^ “ザ中部 21世紀をめざして 殻を打ち破れ③ 「名古屋飛ばし」考”. 日本経済新聞: p. 地方経済面 7. (1995年7月27日). "外国人アーチストのコンサートは名古屋を"通過"するケースが多い。外国人アーチスト招聘の最大手、ウドー音楽事務所(東京・港区)で今年の公演が決まったアーチストは三十七グループ。そのうち名古屋公演を行うのは十八グループだ。また、キョードー東京(同)でも、公演数の割合は東京圏を十とすれば関西圏が五、名古屋圏はニ、福岡三、札幌二だという。キョードー東京の関係者は「名古屋での公演の場合、評価の定まったアーチストの集客は計算できるが、それ以外のアーチストはメドが立たない。新しいものに飛びつかない県民性があるからだ。名古屋公演をするよりも、名古屋から行ける東京や関西の公演を増やした方が確実」と語る。公演の採算性を考えると、どうしても集客力のある都市を優先する。名古屋より人口の少ない福岡の公演が多いのは、集客力があるからだ。福岡は「新しい物好き」の県民性に加え、福岡ドームの建設以来、地元のイベント会社が積極的に誘致しているという" 
  66. ^ “産経抄”. 産経新聞: p. 1. (2017年4月3日). "歌謡曲には『ご当地ソング』と呼ばれるジャンルがある。『函館の女』『有楽町で逢いましょう』『大阪しぐれ』『長崎は今日も雨だった』・・・。地名が織り込まれた名曲を挙げていくときりがない▼もっとも、人口でも経済力でも日本屈指の都市でありながら、ご当地ソングに縁のない街がある。名古屋市である。実はスター歌手と一流の作詞、作曲家がコンビを組んで売り出した曲があった。残念ながらまったくヒットしなかった" 
  67. ^ "緊急警告 東京・大阪以外は商売はダメになる!全国230万小売業者に恐怖時代がやってきた". 週刊現代. 東京: 講談社. 31 March 1966. pp. 16–17. 日本開発銀行の調査役・佐貫利夫氏がその発言者。言い分はこうだ。『東海地方の中核都市・名古屋は、京浜と阪神の二大拠点の中間にあって自然条件にめぐまれ、将来に期待がもたれているが、いろいろ検討してみると、東海地方諸都市としての発展潜在力は意外に小さい。だから人口がふえ、工業集積は豊かになっても、肝心の消費は東京や大阪のほうへ流れてしまうのではないか。それはちょうど"女性のヒップ"のようなものだ。人口を吸引する中枢神経のない偉大な都市で、中枢神経は東京大阪の両方に奪われ、空中分解の危険をはらんでいる』
  68. ^ "緊急警告 東京・大阪以外は商売はダメになる!全国230万小売業者に恐怖時代がやってきた". 週刊現代. 東京: 講談社. 31 March 1966. pp. 16–17. ところが、これは佐貫氏一人の見方ではない。実は都市問題の権威・磯村英一教授(東京都立大)もこれに同調するのだ。『いや、笑いごとじゃありませんよ。都市としての中枢機能は東京と大阪に分極化して、名古屋はだんだん工場地帯化し、銀行なんかもことによるとへるかもしれませんな。工場に関係する人たちだけがふえるのだから、人口はふえるがバラエティは乏しくなる。現に、熱海が名古屋市民の"奥座敷"になったり、女の子が日曜日には名古屋からグループで東京へ買い物にきている事実は、地元でものを買わなくなる、金を使わなくなる傾向を示唆しているのじゃないでしょうか』
  69. ^ 佐藤節夫 (1968). 『実力社員の経済テスト あなたの最新知識は万全か』. 徳間書店. p. 157. "これと対照的なのは名古屋である。名古屋は、『大いなる田舎』といわれながらも、従来は大都市としての体質を一応そなえていた。しかし、新幹線の開通以来、政治・経済の中枢的な機能が、すっかり東京に吸収され、商工業の現場的な部分だけが肥大し始めた。名古屋ヒップ論なる比喩があるが、まったく名古屋は、頭がカラッポでお尻だけ発達した中年女のような姿になってしまった" 
  70. ^ 「地域経済展望 転機にたつ"青年都市"名古屋の苦悩」『産業と経済』、株式会社産業と経済、1972年5月1日、58-61頁。「そして、また、名古屋が東京大阪に比べ格段に弱い点は、中枢管理機能の集積。地元の名門松坂屋のように、本社機能の東京移転という形で中枢管理機能が流出していく傾向すらあり、頭脳なき工業地帯化のおそれもある」 
  71. ^ “真ん中の宿命 谷間飛ばされる不安いつも”. 中日新聞 市内版 朝刊: p. 32. (2006年2月20日). "つばめのころ東京に取り込まれる感じはなかったが、新幹線が通った途端、企業はナゴヤの支店を東京へ引き揚げたり、格下げにしたりしてね" 
  72. ^ 「特別インタビュー●名古屋商工会議所会頭 加藤隆一 活性化の切り札は「地方庁」と「東京事務所税」の創設だ」『『プレジデント』5月号』、プレジデント社、東京、1991年5月1日、246頁。「しかし現状では、研究機関は東京に置こうというムードが非常に強い。たとえば、超電導工学研究所を名古屋市に誘致したときもそうです。とにかく、その道の権威が、東京につくれ、つくれといってきかない。名古屋はいやだというんですね。それで結局、名古屋には分室だけができることになったんです。研究者は東京がすきなんですよ(笑) 研究するには東京のほうが便利がいいですからね。マスコミも報道してくれるから知名度が上がる。こちらでいくらいい研究をしても、東京の新聞には載らない」 
  73. ^ 金子昭三「特別レポート●名古屋圏のグランドデザインを読む 工場県外脱出を決めたトヨタ。「産業と技術の首都」は頭脳と情報を付加できるか 巨大な「モノづくり圏」に迫り来る転機」『『プレジデント』5月号』、プレジデント社、東京、1991年5月1日、250-255頁。 
  74. ^ 日本経済新聞社 編『中部産業百年史 独立自尊の経営風土』1981年、10頁。「ひところ名古屋が『ブルーカラーの町』とか『ヒップの町』などと呼ばれたのを、念頭に置いてのことである。いうまでもなく、"ブルーカラー"は"ホワイトカラー"に対し、"ヒップ"は"頭脳"に対する。明らかに、いわゆる『管理中枢機能』が弱く、生産現場的色彩が濃厚なことが、つねに中部経済の特色であった。いまもそうである。ここでのポイントは、『ブルーカラーの町』とか『ヒップの町』などというとき、そこには必ず、地元の人たちの焦りなり、劣等感なり、自嘲なりが込められていたことだろう(プロローグ 飯田経夫)」 
  75. ^ 片方善治 (1971). 『欲望産業』. 東京: 毎日新聞社. p. 23. "西洋料理店と中枢管理機能の集積度との関係はすぐれて高いといわれている。このことを立証するごとく、全国平均で一軒が成立つためには二万五七一五人の人口が必要であるのに対して、東京二三区では、六二六三人、大阪市では七七一四人でも成立つ。これに対して、名古屋市は東京二三区の二倍以上の人口スケール(一万四八九八人)がその背景にないと、西洋料理店の経営が成立たない。「大いなる田舎」といわれるのもこの辺からのことであろうか。" 
  76. ^ 大明堂編集部, ed (1983). 『新日本地誌ゼミナール 4 (中部地方)』. 東京: 大明堂. p. 23. "名古屋が大いなる田舎であるとは、どこかの芸能人だけがいうことではない。200万の人口をもち、京浜・京阪神につづく日本第三の大都市圏の中心で、すぐれた都市計画をもつ先進的な都市であるにもかかわらず、そのイメージはローカルである・・・・・オリンピックの候補としてソウルに敗れたこと等々、ローカルなイメージにはこと欠かない。関東や関西から各地を旅行する人も、名古屋は通過するか乗換駅にするかで、下車することはほとんどないだろう" 
  77. ^ 谷川正己「土着の建築家たち あるいは外輪山的建築家たちⅣ 名古屋の建築家たち」『『建築』2月号』、中外出版株式会社、1971年2月1日、111-112頁。「これほど交通が至便になり絶えず西に東にと人々が動いておりながら、奇妙な現象に気がついた。新幹線の列車の中で、ある独特の名古屋弁『そうきゃあも』が全く聴けないのである。そこでは標準語(? 東京弁)か大阪弁以外聴くことができない。だから大阪へ帰る集団と同じ車両に乗り合わせたりすると、列車は未だ確かに東京駅のホームを離れていないのに、車内は既に大阪だったりすることを経験するのはしばしばあることである。だが、大阪へ行くまでに名古屋という中京圏の大都会があるのだと実感できる雰囲気に廻り合うことは、もう無くなってしまった。昔の東海道線の鈍行列車を懐かしがっているわけではないが、どうやら新幹線で行き来しているのは、その沿線の住民というよりは、東京人と大阪人が齷齪と往復しているに過ぎないような気がする。だから名古屋人には悪いことだが、新幹線の乗客のほとんどには、名古屋なんぞ無くなったって一向構わないのかも知れない」 
  78. ^ 谷川正己「土着の建築家たち あるいは外輪山的建築家たちⅣ 名古屋の建築家たち」『『建築』2月号』、中外出版株式会社、1971年2月1日、111-112頁。「要するに通過駅である意味では同じであって、名古屋は宿命的にそんな位置にあることだけは確かである。東京、横浜、静岡、名古屋、京都、大阪を経て神戸に至る、いわゆる東海道メガロポリスが、ジャーナリズムで取沙汰されても名古屋人はそれを鵜呑みに信用したりはしないだろう。彼らは『東海道メガロポリス』よりも、『東海道メガネポリス』により真実味を覚え、共鳴するはずである。メガネポリスというのは、つまり、東海道のそれを眼鏡に例えて、名古屋はメガネの2つのガラス球を繋ぐツルに当るカナメの位置にあるというのである。カナメの役などというと聞こえはよいが、一つのガラス玉東京と、もう一つのガラス玉大阪を結んで、鼻の先に固定するツルの役目であって、もちろんツルが鼻先にしっかり固定しなければ視点も定まらない道理でありながらツルは依然としてツルであり、それによって何かを望見しようとすることは不可能なのである。中腐れという言葉がある。子供も1人、2人は大事に育てられるが、数が増えてくると平等には手が回らず勢い長子と末ッ子が可愛がられる。けれども、中何人かはほとんど面倒がみてもらえない。中腐れである。何もかも、名古屋の立地条件を擁護しようとはしない、全く宿命的な土地ではある。中部圏といい、中部日本といい、根ッからの名古屋人には、こうした苦難の歴史がある。そこから生まれた名古屋人気質はもう反逆精神ではなくて、殻に閉じ籠る保守主義でしかなかったのだろう」 
  79. ^ 佐藤弘人 (1960). 『上り下り東海道』. 東京: 新潮社. p. 143. "今日まで東海道線を二百回以上通っているが、いまだかつて名古屋市に下車してみたいと思ったことがないのである。名古屋市よりは京都、大阪、神戸、宮島などに下車してみたい衝動にかられる。なぜか。それは名古屋市には京都のように『祇園恋しや、だらりの帯よ・・・・・』の情緒がなく、大阪のように『・・・・・ないかないか道頓堀よ・・・・・』の明るさがなく、それかといって須磨、明石、舞子の浜のように、また宮島のように自然の美しさもない。只あるものは煙をはく工場だけである。地についた固有な情緒がない。人々を下車させる魅力がない" 
  80. ^ 「活力と魅力ある名古屋都市圏づくりについての提言」『名古屋商工会議所月報『那古野』』、名古屋商工会議所、名古屋、1981年4月1日、1-5頁。「名古屋市を中心に広域的に視た場合、かなりの経済力を持ちながらもいま一つ活力に乏しいのは、従来名古屋が単一大都市的機能しか果たしていないところに起因しているとの識者の声も多く・・・」 
  81. ^ 「地域経済展望 転機にたつ"青年都市"名古屋の苦悩」『産業と経済』、株式会社産業と経済、1972年5月1日、58-61頁。「『青年都市』名古屋のイメージに対して疑問視する声も出ている。『新幹線、高速道路など交通ネットワークの整備が、かえって名古屋を東西の一日圏にしてしまい、東西に足を引っ張られている』とか、一言で『名古屋は通過都市』ときめつける声が代表的なそれだ。距離の時間的短縮化による名古屋の地盤沈下は、認めざるを得ないものかもしれない。『名古屋大都市圏は虚像である。名古屋のライバルは東京、大阪ではなく札幌、福岡だ』という名古屋大都市圏虚像説すらある」 
  82. ^ 人事院任用局参事官 栗田久喜「「偉大なる田舎」雑感」『『月刊官界』12』、行政研究所、東京、1992年12月5日、290-291頁。「しかし、従来は東京と大阪との狭間にあって、ともすれば両者よりも軽く見られがちであった。いわば新幹線の通過都市的存在であった訳であり、とうてい政治経済の中心にはなり得なかった」 
  83. ^ 日本テレビよみうりテレビ名古屋テレビ, ed (1972-7-1). “第4節 東京・大阪・名古屋のイメージ”. 『都市時代の視聴者像』. 岩崎放送出版社. p. 165. "とくに関東と関西を代表する東京と大阪の対比は、地理的歴史的な視点からの議論が積み重ねられてきた。この場合、名古屋の存在はあまり取りあげられないのが普通である。東・阪ほどに話題の材料が豊富でないこと、都市としての性格づけがあまり明確でなく、焦点が定まらないなどの理由によるものだろう" 
  84. ^ 関口苑生. “解説”. 名古屋ミステリー傑作選. 東京: 河出書房新社. p. 303. "これだけ歴史のあるそして大きな都市であるのに、なぜそんなに印象が薄いのか。むろんいくつか理由は考えられる。そのひとつは、冒頭にもちょっとふれたように名古屋が『素通り文化圏』『中継文化圏』と呼ばれていることに象徴されているように思う" 
  85. ^ "'88五輪めざす偉大なる田舎・ナゴヤの国際感覚". 週刊アサヒ芸能. 徳間書店. 21 February 1980. p. 27. それは名古屋の地理的条件と歴史的環境をみれば、わかります。名古屋は東京~大阪の中間にあり、東西の両拠点を結ぶ中継点、もしくは通過点としての位置に甘んじてきました。だから、東京、大阪のものはなんでもありますが、名古屋独自のものというのは一つもありません
  86. ^ 名古屋方言の使用が話し手の印象に及ぼす影響”. 岡本 真一郎. 2023年12月20日閲覧。
  87. ^ 滝沢馬琴 (1802頃). “廿九 名古屋の芝居”. 『羇旅漫録』. "又茶菓子などうるものは。悉く十四五の童なり。茶いらんか。菓子いらんかといふ。都て(すべて)名古屋在津しま邊(あたり)言語甚だ野鄙なり" 
  88. ^ 坪内逍遥 (1920-12-15). “九 嵐璃寛と尾上松綠”. 『少年時に觀た歌舞伎の追憶』. 東京: 日本演藝合資會社出版部. p. 58. "今でこそ名古屋言葉といふと、京都とも大阪とも伊勢とも三河とも附かぬ、日本語中の最も悪趣味な、意態の分らん言葉だが" 
  89. ^ 「《家庭》婦人の言葉遣 文學士 岡田正美」『『女子文藝』第一巻第三號』、日本葉書會、1906年3月1日、7頁。「從つて、この言葉を遣ふと、非常にあどけなく可愛らしく見えて、聴人の耳には一種のいふべからざる快感を與へる。是がこの言葉の特性で、生命で、そして、又、この言葉を遣ふものに利益のあるところである。しかし、それは、いゝ聲で、調子よく、うつくしくいふ時のことで、まづい聲で、調子わるくきたなくやられた日には、丁度名古屋人が京都言葉をつかふやうなもので、とても聞かれたものでない、實に嘔吐を催すといふくらいゐなものである」 
  90. ^ 「摂津 小夜子 電話で聞た聲」『『女子文壇』九月 第四年第十三號』、東京女子文壇社、東京、1908年9月1日、85頁。「岡山の人の聲は勉強家の樣、神戸に長崎は下品な聲、大坂はあづかましく、京は奥床しく、名古屋は田舎者、横濱に横須賀は上品で、東京は気取屋樣。居ながら日本全國の人の聲を聞く」 
  91. ^ "'東洋一'の先陣争いにわく名古屋". 週刊現代. 東京: 講談社. 23 October 1960. pp. 22–25. 戦後の名古屋をルポした記事の中に必ず出てきたのが"大いなる田舎"という批判。名古屋ッ子はこれをひどく嫌ったが、そんな雰囲気があったのは事実
  92. ^ ホテルナゴヤキャッスル社長 梅嶋貞「"敗北"を乗り越えて」『『中部財界』新年特大号』、中部財界社、名古屋、1982年1月1日、126-127頁。「頃来(けいらい)、名古屋に対する一般の批判というか、評価というか、それらはよくいって横這いか、悪くて地盤沈下などという類いが多く、われわれを悲しませてきた。昔から"大いなる田舎"などといった芳しからぬ批判もあったが、それでも東京、大阪についで、我が国第三位の大都会として自他ともに許し、かつ、その潜在的実力にいたっては、これを過小評価するものはいなかった。ところが、今はどうだろうか、東京、大阪などとの格差は広がる一方であり、それだからこそ、オリンピックを名古屋へとの火の玉の願望となったに違いないのだが――。いまやその願望もむなしく潰え去った。」 
  93. ^ 名古屋市博物館館長 浅井岈一「名古屋の魅力づくりへの提言」『名古屋商工会議所月報『那古野』』、名古屋商工会議所、1983年1月1日。「誰かが名古屋を"大いなる田舎"と呼んで、大変すばらしい発想をわれわれに授けてくれた。もし名古屋の中に、近代都市の形態と垢抜けのした田舎が共存し、これを"大いなる田舎"と呼んでもらえるなら、これくらい特色のある都市の魅力は、他に求め得られないものである。田舎の人は都会にあこがれ、都会人は田舎に対する郷愁を捨てきれずに持ち続けている。その二つのよさが、二百万都市の中で持てるなら、理想的な近代都市といえるじゃなかろうか。名古屋は"田舎"であることを捨てる必要は少しもない。むしろ田舎のよい匂いを、都市の中に活かす工夫をすべきである。名古屋人にはそれができる。」 
  94. ^ “愛知万博、格付けに諸説あり 登録博か認定博か”. 産経新聞. https://www.sankei.com/article/20190419-JSKBRAQI5JN6JCYXGIEMPNKKUY/ 2024年1月15日閲覧。 
  95. ^ a b c d e f "名古屋ブームをご存知ですか-内からみた名古屋、外からみた名古屋-" (PDF) (Press release). 社団法人中部開発センター. 31 July 2005.
  96. ^ 東海銀行常務調査部長水谷研治 作家深田祐介 JR東海社長須田寛「特別レポート●名古屋圏のグランドデザインを読む 強い経済力、勤勉な住民、豊かな自然・・・・・この街の周辺域は「可能性の大地」だ 名古屋が「魅力ある都市」に再生する条件」『『プレジデント』5月号』、プレジデント社、東京、1991年5月1日、242-249頁。「深田 大阪のミナミにアメリカの古着市みたいなのができたら、にわかに活性化しましたよね。若者が集まると急に活性化するでしょう。若者のもたらす活力という点で、名古屋は欠けているという気がしますね  須田 確かに、若者が少ない。名古屋は、福岡や札幌と違って若者が集まりにくい街なんですね。若者にとってチャーミングじゃないんですよ  深田 東京の女の子が行きたい街というと、京都とか神戸、金沢、長崎なんです。名古屋は二〇番以内に入らないんですよ。若者の中でも、"ギャル"に人気がないというのは致命的ですな(笑)」 
  97. ^ "名古屋に魅力がない⁈ とろくしゃ~! ああ、「行きたくない都市」ダントツ1位に・・・・・ 衝撃調査結果に出身有名人たちが猛反論!". 女性自身』10月18日号. 東京: 光文社. p. 154.
  98. ^ a b "都市ブランド・イメージ調査結果の報道状況" (Press release). 名古屋市役所 ナゴヤ魅力向上室. 18 October 2016.
  99. ^ "名古屋ぎらい なぜ「名古屋」はきらわれてしまうのか―せこい、見栄っ張り、ダサい、そしてパクる。全国から不満が噴出するワケとは―". 週刊ポスト』8月22日号. 東京: 小学館. pp. 29–35.
  100. ^ a b なぜ叩かれる? 行きたくない街NO.1「名古屋の生きる道」”. AERA dot.com (2016年11月8日). 2024年12月27日閲覧。
  101. ^ “「行きたくない街」ナンバーワン 名古屋市民8割容認 市調査公表「象徴的な建物ない」”. 中日新聞』市内版朝刊: p. 30 社会2面. (2016年11月22日) 
  102. ^ "ああ、やっぱり名古屋ぎらい 本誌編集部に抗議殺到!「オレは名古屋を代表して電話しとるんだがね!―この抗議こそが"名古屋人らしさ"だ". 週刊ポスト』8月29日号. 東京: 小学館. pp. 60–62. 記事は大きな反響を呼んだが、地元からは「結婚式の引き出物が大きいのは気前がよい証拠だ!」「ジャンケンのチョキを"ピー"と呼んで、何が悪い!」といった反論が噴出した。本誌は名古屋を貶めるのではなく、"愛のある"企画のつもりだったため、抗議は予想外だった
  103. ^ a b シティプロ―モーションにおける逆説的コミュニケーション手法に関する考察 -名古屋市の事例を中心に-”. 2024年3月16日閲覧。

参考文献

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関連項目

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