多治比広足
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時代 | 奈良時代 |
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生誕 | 天武天皇10年(681年) |
死没 | 天平宝字4年1月21日(760年2月12日) |
官位 | 従三位・中納言 |
主君 | 元正天皇→聖武天皇→孝謙天皇 |
氏族 | 多治比氏 |
父母 | 父:多治比嶋 |
兄弟 | 池守、水守、縣守、広成、広足、阿伎良 |
多治比 広足(たじひ の ひろたり)は、奈良時代の公卿。左大臣・多治比嶋の六男。官位は従三位・中納言。
経歴
[編集]霊亀2年(716年)従五位下に叙爵。養老5年(721年)従五位上・造宮大輔、神亀3年(726年)に正五位下に叙任される。その後、天平5年(733年)上総守、天平10年(738年)武蔵守と地方官を歴任する。
天平11年(739年)兄の中納言・広成が没すると広足が一族の長となり、天平12年(740年)正五位上、天平15年(743年)従四位下、天平19年(747年)従四位上と、橘諸兄政権下で順調に昇進し、天平20年(748年)正四位下・参議に叙任され公卿に列した。またこの間、刑部卿・兵部卿などを務めている。
天平勝宝元年(749年)孝謙天皇の即位に伴って正四位上・中納言に、翌天平勝宝2年(750年)従三位に昇叙される。天平勝宝年間末には左大臣・藤原豊成と紫微内相・藤原仲麻呂に次いで、太政官の第三位の席次に昇る。しかし、天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱では、一族から多治比犢養・礼万呂・鷹主と複数の処罰者を出したことを咎められ、公卿として相応しくないとして中納言の任を解かれた[1]。以降は出仕せず邸宅に籠もったという[2]。
天平宝字4年(760年)正月21日薨去。享年80。最終官位は散位従三位。
官歴
[編集]注記のないものは『続日本紀』による。
- 霊亀2年(716年) 正月5日:従五位下
- 養老5年(721年) 正月:従五位上[3]。9月:造宮大輔[3]
- 神亀3年(726年) 正月21日:正五位下
- 天平5年(733年) 10月3日:上総守
- 天平10年(738年) 8月10日:武蔵守
- 天平12年(740年) 正月13日:正五位上
- 天平15年(743年) 5月5日:従四位下
- 天平18年(746年) 4月11日:刑部卿
- 天平19年(747年) 正月20日:従四位上。11月4日:兵部卿
- 天平20年(748年) 2月19日:正四位下。3月22日:参議[3]
- 天平勝宝元年(749年) 7月2日:正四位上・中納言
- 天平勝宝2年(750年) 正月16日:従三位
- 天平宝字元年(757年) 8月4日:中納言辞任