土屋正延
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元文元年(1736年) |
死没 | 天明5年7月12日(1785年8月16日) |
別名 | 左膳、左内、長三郎(通称) |
戒名 | 光徹 |
墓所 | 西久保大養寺 |
官位 | 従五位下・伊予守 |
幕府 | 江戸幕府 小姓組番士、中奥番士、小十人頭、目付、駿府町奉行、京都町奉行、長崎奉行 |
主君 | 徳川家重→徳川家治 |
氏族 | 土屋氏 |
父母 | 父:土屋正方、母:筧正忠娘 |
兄弟 | 土屋正延、向井政徳 |
妻 | 赤井忠通養女(丹羽長道娘) |
子 | 土屋正備、細田時豊、娘(小田切直年妻)、向井政和 |
土屋 正延(つちや まさのぶ)は、江戸時代中期の旗本。土屋讃岐守家の第7代当主。
生涯
[編集]宝歴12年(1762年)4月15日、江戸幕府9代将軍・徳川家重の小姓組として列する。以後、明和元年(1764年)閏12月9日に中奥番士、明和4年(1767年)閏9月28日に小十人頭に進み、明和5年(1768年)8月8日に父の遺跡を継いだ後、明和6年(1769年)2月12日には目付に転じた。
その後安永4年(1775年)7月1日には駿府町奉行、安永7年(1778年)閏7月20日には京都町奉行(西町奉行)に就任し、同年9月15日に従五位下・伊予守に叙任した。
天明4年(1784年)7月26日には長崎奉行に転じ、在任中の天明5年(1785年)7月12日、50歳で没した。法名は光徹。
妻は赤井五郎作忠通の養女であり、江戸幕府老中田沼意次の信任を得ていた。
知行所
[編集]- 相模国愛甲郡猿ヶ島村200石(現神奈川県厚木市)
- 下総国葛飾郡栗ヶ沢村104石(現千葉県松戸市)
- 下総国葛飾郡大谷口村236石(現千葉県松戸市)
- 下総国千葉郡中野村86石(現千葉県千葉市)
- 武蔵国横見郡地頭方村107石(現静岡県牧之原市)
- 常陸国鹿島郡武井村200石(現茨城県結城市)
- 武蔵国横見郡山野下村123石(現埼玉県比企郡吉見町)
年表
[編集]- 1736年 - 誕生
- 1762年 - 江戸幕府九代将軍徳川家重の御小姓組として列する。
- 1764年 - 中奥番士
- 1767年 - 小十人頭
- 1768年 - 家督を相続
- 1775年 - 駿府町奉行
- 1778年 - 七月に京都町奉行(西町奉行)、9月に従五位下・伊予守に叙任
- 1784年 - 長崎奉行
- 1785年 - 死去
参考文献
[編集]- 奈良本辰也『日本の歴史17 町人の実力』中央公論社〈中公文庫〉、1974年6月。ISBN 4-12-200111-0。新版2005年12月
- 松戸市史 史料編(一)〔大熊家文書〕
- 『寛政重修諸家譜』巻第五百五十一
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