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唐瀧庄三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

唐瀧 庄三郎[1](からたき しょうざぶろう、1865年10月4日慶應元年8月15日[1] - 没年不明)は、日本政治家京都府紀伊郡柳原町[1][2]

経歴

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1884年1月、柳原戸長役場の筆生となる[1]1886年3月、同役場用掛[1]1889年5月、書記[1]1895年3月、柳原町会議員に選挙される[1]1901年9月、柳原町長に当選[1]

塩小路通の道路開築の際にその付近の地所600寄付する[1]。小学校建築の際に建築資金を寄付する[1]。その他公共の事に義捐する[1]。また日本赤十字社分区員、愛国婦人会委員である[1]

人物

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部落問題

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1901年、柳原町長の唐瀧は近畿地方部落民の結集のために「互親協会」という団体を組織し、機関誌の発行に奔走した[3]

1906年、柳原町長の唐瀧に対し竹田村長小山七五郎が部落差別発言をした[3]。唐瀧はもちろんこれを放置するはずはなく、柳原町全体の問題として取りあげ、柳原町会が小山七五郎にたいする糾弾をおこない、謝罪状を書かせた[3]

人柄

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嗜好は相撲[1]。住所は京都府紀伊郡柳原町[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『大日本人物誌 一名・現代人名辞書』か42頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年4月21日閲覧。
  2. ^ 『職員録 明治30年乙』京都府26頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年4月21日閲覧。
  3. ^ a b c 『京都部落史年表 稿本 近代篇 1』7 - 8頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月20日閲覧。

参考文献

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  • 『職員録 明治30年乙』印刷局、1897年。
  • 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
  • 京都部落史研究所編『京都部落史年表 稿本 近代篇 1』京都部落史研究所、1980年。