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合従攻斉の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
合従攻斉の戦い
戦争:戦国時代
年月日前284年 - 紀元前279年
場所済水以南
結果軍の主力が壊滅的被害を受ける。王都の臨淄が落ち、湣王が殺される。斉の領域は即墨の2城のみとなる。しかし、田単の奮戦によって70余城を取り戻す。
交戦勢力
[注 1]
指導者・指揮官
(燕)楽毅
(楚)淖歯
(燕)騎劫
†・田觸田達
襄王田単
戦力
約六十万[注 2] 数十万[注 2]
損害
不詳[注 2] 全滅[注 2]
春秋戦国時代
春秋時代
戦国時代
秦の統一戦争
†はその国の滅亡 表示

合従攻斉の戦い(がっしょうこうせいのたたかい)は、紀元前284年から紀元前279年に発生した戦い。

の名将の楽毅が総大将となり、の五国合従軍がに大勝した。その勢いに乗り、燕は斉の70余城を取った。しかし、6年経っても即墨は落ちず、最終的には即墨の名将田単反間の計によって、斉の70余城を取り戻した。

背景

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戦国時代中期、とともに東帝・西帝を名乗るほどに栄えていた。北の隣国で弱小国のでは紀元前318年燕王噲は国相の子之に譲位し、太子平中国語版との王位継承争いが起こった[1]。斉の宣王紀元前314年、燕の公子職(後の昭王)の援助を名目に、燕に侵攻し五十日で燕を破り中国語版、燕王噲と子之を殺した[2][3]。しかし、斉軍は燕軍に焼かれ略奪された。燕国民が紛起し、各国も燕の救援ために出兵の準備を行っていた。そのため斉軍は撤退した[4]武霊王は燕の内乱に応じて楽池を将として燕王噲の庶子である公子職を燕に送り、昭王として即位させた[5]。昭王は即位後、賢士を招くため内政を改革し、産業を発展させ、父王の仇でもある斉に復讐する準備をしていた。紀元前301年、宣王が死に、子の湣王が即位した。斉軍は南のや西の三晋・趙)に連年攻撃し、国力を消耗していった[6]。昭王は斉を攻撃する機会をうかがっていたが、土地・人口や経済力では燕は斉に劣っているため、燕単独では斉に勝つことは不可能だった[7]。この状況下で燕の将軍楽毅は他の国との関係を確立し、斉を孤立させるように提案した。斉は宋を滅ぼさせて、各国との関係を悪化させて合従軍をくみ、斉を滅ぼすという策略を燕昭王は採用した[8]

この為に、燕は斉に表面上に降伏し、蘇秦を斉に入国させて離間活動を行いつつ、湣王の信任を得た。斉は北方の燕との国境の警備を緩めた。紀元前288年10月、秦の昭襄王と斉王が同時に帝を名乗り同盟が結成された。蘇秦は湣王に斉と秦の盟約を破り、帝号を廃し、宋を滅ぼす機会を伺うように提言した。湣王は提言を聞き入れ、十二月に帝号を廃し、代わりに秦の昭襄王の帝号を廃し、他国に秦を攻撃するように求めた。[9][10]。湣王は秦に勝利を納めたあと、宋を滅ぼすために出兵した[11]。しかし、斉による宋の攻撃、滅亡は斉と秦・趙の関係だけでなく、韓・魏・楚にも大きな脅威と映るようになった。

済西の戦い

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紀元前284年昭王楽毅を上将軍として、燕・の五国合従軍を統率させを攻撃させた。斉の湣王田觸を将とし斉の全軍を率いた。斉軍主力は済水を渡河した。両軍は済水の西で決戦を行った。斉軍の士気は連年の戦争により、低くかった。兵士に死戦を行わせるために、湣王は先祖の墓を掘って兵士を殺すと脅したが、さらに兵士の士気が低下した。その結果、合従軍が進攻した時田斉軍は一瞬で壊滅状態となるほどの惨敗を喫した。田觸は逃亡し、副将の田達は残兵を率いて王都の臨淄に撤退した。斉軍の主力が壊滅したあと、楽毅は秦、韓の両軍を帰還させ、魏軍は宋の地を攻め、趙軍は河間を占領、燕軍は斉軍を追撃した[12][13][14]

この時、楚の頃襄王は斉を救うことを名目に淖歯を送りこんだ。淖歯はの湣王を殺し、斉に占領されていた淮北を取った[15]

楽毅は臨淄を攻略後善政を敷き、軍事規律を肯定し、略奪を厳しく禁止、残酷な法律や過酷な税を廃止し、民衆の支持を集めた。その後、軍隊を分割して、斉軍を完全に排除し、斉国の占領を拡大した[16]。燕軍はわずか6か月で斉の七十余りの城を占領し、莒と即墨の両城だけが残った[17][18]紀元前283年、斉の大臣王孫賈らが淖歯を殺し、湣王の子の田法章を擁立し、襄王として即位した。襄王らは籠城し、燕軍に対して必死に抵抗した。即墨では将が戦死し、田単を将軍として燕軍の攻撃から城を堅守した。

即墨の戦い

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即墨では、楽毅の返り討ちに遭い大夫が戦闘で死亡した。即墨の軍隊と民間人は、田単に抵抗するように導かれ、双方は数年間戦った。楽毅は攻撃せずに、即墨を包囲戦に持ち込んだ。即墨の兵士と民間人は、大夫の死後、斉の公族でもある田単を将軍に推薦し、燕軍に抵抗した。この即墨の攻防戦は、「即墨の戦い[19][20]と呼ばれた。

1年間、燕軍は莒と即墨を包囲したが、落ちなかったために楽毅は攻城戦に切り替えた。燕軍を城から撤退させ九里離れたところに砦を築くようにするよう命じた。3年後も、2城は占領されなかった[21]

紀元前279年、燕の昭王が死に、子の恵王が王位を継いだ。恵王は楽毅の事を太子時代から良く思っておらず、ここに付け込む隙があると見た田単は反間の計を用いた。燕に密偵を潜り込ませ、「即墨と莒は今すぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、斉の人民を手なずけて自ら斉王になる望みがあるからだ」と流言を流し、恵王の耳に入るようにした。恵王はこれを信じ、楽毅を解任し、代わりに騎劫を将軍として送った。このまま燕へ帰れば誅殺されると思った楽毅は、趙へ亡命した[22]。騎劫は楽毅の戦略とは反対に、即墨への強制攻撃を命じた。しかし、斉の軍隊と民間人の抵抗が起きて、騎劫の攻撃は実を結ばなかった。

次に田単は城内の結束を促すよう考え、城内の者に食事のたびに家の庭で祖先を祭らせた。するとその供物を目当てに無数の鳥が集り、誰しも不気味な様子を怪しんだ。これを田単は「神の教えによるもの」と言い、「いずれ神の化身が現れて私の師となるであろう」と布告した。これを聞いたある兵士が「私が師になりましょうか」と冗談を言うと、田単は嘘と承知した上でその者を「神師」として強引に祭り上げ、自分はその指示に従うという姿勢を見せた。そして軍令の度にこの神の名を用いて人々を従わせた。

続いて「捕虜になると鼻そぎの刑に処されると恐れている」「城の中では城の外にある祖先の墓を荒らされないか恐れている」という偽情報を燕軍に流した。敵将・騎劫がその通りにして見せつけると、即墨の人々は燕軍への降伏を恐れ、祖先を辱められたことへの恨みから団結し、士気は大いに上がった[23]

城内の人々の状況から、いよいよ出撃の時期が訪れたと判断した田単は、まず城兵を慰撫した。

次に兵を隠して城壁を女子供や老人に守らせ、あたかも城内が困窮しているように装い、燕軍へ降伏の使者を派遣。更に即墨の富豪を介して燕の将軍に対し「降伏しても妻や財産などに手を出さないほしい」との安堵の約束と金を渡した。これらのことにより燕軍は勝利を喜び、油断を深めていった[24]

そこで田単は千頭の牛を用意し、鮮やかな装飾を施した布を被せ、角には刀剣、尻尾には松明をそれぞれ括り付け、夜中に城壁に開けておいた穴からこれを引き連れた。そして、たいまつに火をつけ尻を焼かれ怒り狂う牛を敵陣に放った。燕軍はその奇怪な姿の牛の突進に驚き、角の剣でことごとく刺し殺された。また、5千の兵もこれに続いて無言のまま猛攻をかけ、更に民衆も銅鑼や鐘などで天地を鳴動させるかのように打ち鳴らし、混乱を煽った。そのため、燕軍は大混乱に陥り、騎劫も討ち取られた[25]

田単はこの勢いに乗じ、占領されていた70余城全てを奪回した。

田単は首都の臨淄に戻ることができた斉の襄王に、功績を認められて、相国に任じられ夜邑に1万戸の加封を受け安平君に封じられた[26][27]

影響

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は、秦とともに帝号を名乗った時期とは一転して、滅亡寸前の危機に陥った。田単の奮戦によって70余城を取り戻したが、過去のような威光は消え失せていた。燕に関しても全盛期から衰退期に変わった。これにより、時代は秦の1強国時代となり、六国は秦による併合に抵抗できずに飲み込まれていった。

脚注

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注釈

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  1. ^ 名義上ではの味方。
  2. ^ a b c d 済西の戦いの数。全体の数や、即墨の戦いの数は不明。

引用

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  1. ^ 史記 卷三十四 燕召公世家》:三年,國大亂,百姓恫恐。將軍市被與太子平謀,將攻子之。諸將謂齊湣王曰:「因而赴之,破燕必矣。」齊王因令人謂燕太子平曰:「寡人聞太子之義,將廢私而 立公,飭君臣之義,明父子之位。寡人之國小,不足以為先後。雖然,則唯太子所以令之。」太子因要黨聚眾,將軍市被圍公宮,攻子之,不克。將軍市被及百姓反攻太子平,將軍市被死,以徇。因搆難數月,死者數萬,眾人恫恐,百姓離志。孟軻謂齊王曰:「今伐燕,此文、武之時,不可失也。」王因令章子將五都之兵,以因北地之眾以伐燕。士卒不戰,城門不閉,燕君噲死,齊大勝。
  2. ^ 資治通鑑 卷三 周紀三》:燕子之為王三年,國内大亂。將軍市被與太子平謀攻子之。齊王令人謂燕太子曰:「寡人聞太子將飭君臣之義,明父子之位,寡人之國〔雖小〕,唯太子所以令之。」太子因要黨聚眾,使市被攻子之,不克。市被反攻太子。構難數月,死者數萬人,百姓恫恐。齊王令章子將五都之兵,因北地之眾以伐燕。燕士卒不戰,城門不閉。齊人取子之,醢之,遂殺燕王噲。齊王問孟子曰:「或謂寡人勿取燕,或謂寡人取之。以萬乘之國伐萬乘之國,五旬而舉之,人力不至於此;不取,必有天殃。取之何如?」孟子對曰:「取之而燕民悦由取之,古之人有行之者,武王是也;取之而燕民不悦則勿取,古之人有行之者,文王是也。以萬乘之國伐萬乘之國,簞食壺漿以迎王師,豈有他哉?避水火也。如水益深,如火益熱,亦運而已矣!」
  3. ^ 戰國策 卷二十九 燕策一》:燕王噲既立,蘇秦死於齊。蘇秦之在燕也,與其相子之為患難,而蘇代與子之交。及蘇秦死,而齊宣王復用蘇代。燕噲三年,與楚、三晉攻秦,不勝而還。子之相燕,貴重主斷。蘇代為齊使於燕,燕王問之曰:“齊宣王何如?”對曰:“必不霸。”燕王曰:“何也?”對曰:“ 不信其臣。”蘇代欲以濟燕王以厚任子之也。於是燕王大信子之。子之因遣蘇代百金,聽其所使。鹿毛壽謂燕王曰:“不如以國讓子之。人謂堯賢者,以其讓天下於許由,由必不受,有讓天下之名,實不失天下。今王以國讓相子之。子之必不敢受,是王與堯同行也。”燕王因舉國屬子之,子之大重。或曰:“禹授益而以啓為吏,及老,而以啓為不足任天下,傳之益也。啓與支黨委公益而奪之天下,是禹名傳天下於益,其實令啓自取之。今王言屬國子之,而吏無非太子人者,是名屬子之,而太子用事。”王因收印自三百石吏而效之子之。子之南面行王事,而噲老不聽政,顧為臣,國事皆決子之。子之三年,燕國大亂,百姓恫怨,將軍市被、太子平謀,將攻子之。儲子謂齊宣王:“因而仆之,破燕必矣。”王因令人謂太子平曰:“寡人聞太子之義,將廢私而立公,飭君臣之義,正父子之位,寡人之國小,不足先後。雖然,則唯太子所以令之。”太子因數黨聚眾,將軍市被圍公宮,攻子之,不克;將軍市被及百姓乃反攻太子平。將軍市被死已殉,國構難數月,死者數萬眾,燕人恫怨,百姓離意。孟軻謂齊宣王曰:“今伐燕,此文、武之時,不可失也。”王因令章子將五都之兵,以因北地之眾以伐燕。士卒不戰,城門不閉,燕王噲死。齊大勝燕,子之亡。二年,燕人立公子平,是為燕昭王。
  4. ^ 資治通鑑 卷三 周紀三》:諸侯將謀救燕。齊王謂孟子曰:「諸侯多謀伐寡人者,何以待之?」對曰:「臣聞七十里為政於天下者,湯是也。未聞以千里畏人者也。《書》曰:『徯我后,後來其蘇。』今燕虐其民,王往而征之,民以為將拯己於水火之中也,簞食壺漿以迎王師。若殺其父兄,系累其子弟,毀其宗廟,遷其重器,如之何其可也!天下固畏齊之強也,今又倍地而不行仁政,是動天下之兵也。王速出令,反其旄倪,止其重器,謀於燕眾,置君而後去之,則猶可及止也。」齊王不聽。而燕人叛。
  5. ^ 史記 卷四十三 趙世家》:燕相子之為君,君反為臣。十一年,王召公子職於韓,立以為燕王,使樂池送之。
  6. ^ 史記 卷八十 樂毅列傳》:當是時,齊湣王彊,南敗楚相唐眜於重丘,西摧三晉於觀津,遂與三晉撃秦,助趙滅中山,破宋,廣地千餘里。與秦昭王爭重為帝,已而復歸之。諸侯皆欲背秦而服於齊。湣王自矜,百姓弗堪。
  7. ^ 資治通鑑 卷三 周紀三》:昭王於破燕之後〔即位〕,弔死問孤,與百姓同甘苦,卑身厚幣以招賢者。謂郭隗曰:「齊因孤之國亂而襲破燕,孤極知燕小力少,不足以報。然誠得賢士與共國,以雪先王之恥,孤之願也。先生視可者,得身事之!」郭隗曰:「古之人君有以千金使涓人求千里馬者,馬已死,買其首五百金而返。君大怒,涓人曰:『死馬且買之,況生者乎?馬今至矣。』不期年,千里之馬至者三。今王必欲致士,先從隗始。況賢於隗者,豈遠千里哉?」於是昭王為隗改築宮而師事之。於是士爭趣燕。樂毅自魏往,劇辛自趙往。昭王以樂毅為亞卿,任以國政。
  8. ^ 史記 卷八十 樂毅列傳》:於是燕昭王問伐齊之事。樂毅對曰:「齊,霸國之餘業也,地大人眾,未易獨攻也。王必欲伐之,莫如與趙及楚、魏。」
  9. ^ 資治通鑑 卷四 周紀四》:冬,十月,秦王稱西帝,遣使立齊王為東帝,欲約與共伐趙。蘇代自燕來,齊王曰:「秦使魏冉致帝,子以為何如?」對曰:「願王受之而勿稱也。秦稱之,天下安之,王乃稱之,無後也。秦稱之,天下惡之,王因勿稱,以收天下,此大資也。且伐趙孰與伐桀宋利?今王不如釋帝以收天下之望,發兵以伐桀宋,宋舉則楚、趙、梁、衛皆懼矣。是我以名尊秦而令天下憎之,所謂以卑為尊也。」齊王從之,稱帝二日而復歸之。十二月,呂禮自齊入秦,秦王亦去帝復稱王。
  10. ^ 史記 卷四十六 田敬仲完世家》:三十六年,王為東帝,秦昭王為西帝。蘇代自燕來,入齊,見於章華東門。齊王曰:「嘻,善,子來!秦使魏厓致帝,子以為何如?」對曰:「王之問臣也卒,而患之所從來微,原王受之而勿備稱也。秦稱之,天下安之,王乃稱之,無後也。且讓爭帝名,無傷也。秦稱之,天下惡之,王因勿稱,以收天下,此大資也。且天下立 兩帝,王以天下為尊齊乎?尊秦乎?」王曰:「尊秦。」曰:「釋帝,天下愛齊乎?愛秦乎?」王曰:「愛齊而憎秦。」曰:「兩帝立約伐趙,孰與伐桀宋之利?」 王曰:「伐桀宋利。」對曰:「夫約鈞,然與秦為帝而天下獨尊秦而輕齊,釋帝則天下愛齊而憎秦,伐趙不如伐桀宋之利,故原王明釋帝以收天下,倍約賓秦,無爭重,而王以其間舉宋。夫有宋,衛之陽地危;有濟西,趙之阿東國危;有淮北,楚之東國危;有陶、平陸,梁門不開。釋帝而貸之以伐桀宋之事,國重而名尊,燕楚所以形服,天下莫敢不聽,此湯武之舉也。敬秦以為名,而後使天下憎之,此所謂以卑為尊者也。原王孰慮之。」於是齊去帝複為王,秦亦去帝位。
  11. ^ 資治通鑑 卷四 周紀四》:宋有雀生湣於城之陬。史占之,曰:「吉。小而生巨,必霸天下。」宋康王喜,起兵滅滕;伐薛;東敗齊,取五城;南敗楚,取地三百里,西敗魏軍。與齊、魏為敵國,乃愈自信其霸。欲霸之亟成,故射天笞地,斬社稷而焚滅之,以示威服鬼神。為長夜之飲於室中,室中人呼萬歳,則堂上之人應之,堂下之人又應之,門外之人又應之,以至於國中,無敢不呼萬歳者。天下之人謂之「桀宋」。齊湣王起兵伐之,民散,城不守。宋王奔魏,死於温。
  12. ^ 呂氏春秋 卷十五 慎大覽 權勳》:昌國君將五國之兵以攻齊。齊使觸子將,以迎天下之兵於濟上。齊王欲戰,使人赴觸子,恥而訾之曰:「不戰,必剗若類,掘若壟。」觸子苦之,欲齊軍之敗。於是以天下兵戰,戰合,撃金而卻之,卒北,天下兵乘之,觸子因以一乘去,莫知其所,不聞其聲。達子又帥其餘卒,以軍於秦周,無以賞,使人請金於齊王。齊王怒曰:「若殘豎子之類,惡能給若金?」與燕人戰,大敗,達子死,齊王走莒。燕人逐北入國,相與爭金於美唐甚多。此貪於小利以失大利者也。
  13. ^ 資治通鑑 卷四 周紀四》:燕王悉起兵,以樂毅為上將軍。秦尉斯離帥師與三晉之師會之。趙王以相國印授樂毅,樂毅並將秦、魏、韓、趙之兵以伐齊。齊湣王悉國中之眾以拒之,戰於濟西,齊師大敗。樂毅還秦、韓之師,分魏師以略宋地,部趙師以收河間,身率燕師,長驅逐北。劇辛曰:「齊大而燕小,賴諸侯之助以破其軍,宜及時攻取其邊城以自益,此長久之利也。今過而不攻,以深入為名,無損於齊,無益於燕,而結深怨,後必悔之。」樂毅曰:「齊王伐功矜能,謀不逮下,廢黜賢良,信任諂諛,政令戾虐,百姓怨懟。今軍皆破亡,若因而乘之,其民必叛,禍亂內作,則齊可圖也。若不遂乘之,待彼悔前之非,改過恤下而撫其民,則難慮也。」
  14. ^ 史記 卷八十 樂毅列傳》: 於是使樂毅約趙惠文王,別使連楚、魏,令趙啖説秦以伐齊之利。諸侯害齊湣王之驕暴,皆爭合從與燕伐齊。樂毅還報,燕昭王悉起兵,使樂毅為上將軍,趙惠文王以相國印授樂毅。樂毅於是並護趙、楚、韓、魏、燕之兵以伐齊,破之濟西。諸侯兵罷歸,而燕軍樂毅獨追,至於臨淄。齊湣王之敗濟西,亡走,保於莒。樂毅獨留徇齊,齊皆城守。樂毅攻入臨淄,盡取齊寶財物祭器輸之燕。燕昭王大悦,親至濟上勞軍,行賞饗士,封樂毅於昌國,號為昌國君。於是燕昭王收齊鹵獲以歸,而使樂毅復以兵平齊城之不下者。
  15. ^ 四十六 田敬仲完世家》: 四十年,燕、秦、楚、三晉合謀,各出鋭師以伐,敗我濟西(一)。王解而卻。燕將樂毅遂入臨淄,盡取齊之寶藏器。湣王出亡,之衛。衛君辟宮舍之,稱臣而共具。湣王不遜,衛人侵之。湣王去,走鄒、魯,有驕色,鄒、魯君弗内,遂走莒。楚使淖齒(二)將兵救齊,因相齊湣王。淖齒遂殺湣王而與燕共分齊之侵地鹵器(三)。附注(一)集解徐廣曰:「案其餘諸傳無楚伐齊事*。年表云楚取淮北。」(二)索隠淖音女教反。(三)正義鹵掠齊寶器也。...*然而燕召公世家亦指「秦、楚、三晉合謀以伐齊」,樂毅列傳則指「護趙、楚、韓、魏、燕之兵以伐齊,破之濟西」缺少秦,但秦本紀提及「(秦)尉斯離與三晉、燕伐齊,破之濟西」,對此《資治通鑑》整合為「樂毅並將秦、魏、韓、趙之兵以伐齊」,而楚將淖齒弑齊湣王。
  16. ^ 資治通鑑 卷四 周紀四》:遂進軍深入。齊人果大亂失度,湣王出走。樂毅入臨淄,取寶物、祭器,輸之於燕。燕王親至濟上勞軍,行賞饗士,封樂毅為昌國君,遂使留徇齊城之未下者。
  17. ^ 史記 卷八十 樂毅列傳》:樂毅留徇齊五歳,下齊七十餘城,皆為郡縣以屬燕,唯獨莒、即墨未服。
  18. ^ 《史記》樂毅列傳指唯莒、即墨未下,燕世家云聊、莒、即墨未下;對此《戰國策》燕策註有鮑本指出後者是把田單勝騎劫後攻燕軍聊城一度不下之事混淆所致,並以齊策佐證。
  19. ^ 史記 巻八十二 田單列傳》:燕軍聞齊王在莒,并兵攻之。淖齒既殺湣王於莒,因堅守,距燕軍,數年不下。燕引兵東圍即墨,即墨大夫出與戰,敗死。城中相與推田單,曰:「安平之戰,田單宗人以鐵籠得全,習兵。」立以為將軍,以即墨距燕。
  20. ^ 資治通鑑 巻四 周紀四》:初,燕人攻安平,臨淄市掾田單在安平,使其宗人皆以鐵籠傅車轊。及城潰,人爭門而出,皆以轊折車敗,為燕所禽;獨田單宗人以鐵籠得免,遂奔即墨。是時齊地皆屬燕,獨莒、即墨未下,樂毅及並右軍、前軍以圍莒,左軍、後軍圍即墨。即墨大夫出戰而死。即墨人曰:「安平之戰,田單宗人以鐵籠得全,是多智習兵。」因共立以為將以拒燕。
  21. ^ 資治通鑑 巻四 周紀四》:樂毅圍二邑,期年不克,及令解圍,各去城九里而為壘,令曰:「城中民出者勿獲,困者賑之,使即舊業,以鎮新民。」三年而猶未下。
  22. ^ 史記 巻八十二 田單列傳》:頃之,燕昭王卒,惠王立,與樂毅有隙。田單聞之,乃縱反間於燕,宣言曰:「齊王已死,城之不拔者二耳。樂毅畏誅而不敢歸,以伐齊為名,實欲連兵南面而王齊。齊人未附,故且緩攻即墨以待其事。齊人所懼,唯恐他將之來,即墨殘矣。」燕王以為然,使騎劫代樂毅。樂毅因歸趙,燕人士卒忿。
  23. ^ 史記 巻八十二 田單列傳》:而田單乃令城中人食必祭其先祖於庭,飛鳥悉翔舞城中下食。燕人怪之。田單因宣言曰:「神來下教我。」乃令城中人曰:「當有神人為我師。」有一卒曰:「臣可以為師乎?」因反走。田單乃起,引還,東郷坐,師事之。卒曰:「臣欺君,誠無能也。」田單曰:「子勿言也!」因師之。毎出約束,必稱神師。乃宣言曰:「吾唯懼燕軍之劓所得齊卒,置之前行,與我戰,即墨敗矣。」燕人聞之,如其言。城中人見齊諸降者盡劓,皆怒,堅守,唯恐見得。單又縱反間曰:「吾懼燕人掘吾城外塚墓,僇先人,可為寒心。」燕軍盡掘壟墓,燒死人。即墨人從城上望見,皆涕泣,倶欲出戰,怒自十倍。
  24. ^ 史記 巻八十二 田單列傳》:田單知士卒之可用,乃身操版插,與士卒分功,妻妾編於行伍之間,盡散飲食饗士。令甲卒皆伏,使老弱女子乘城,遣使約降於燕,燕軍皆呼萬歳。田單又收民金,得千溢,令即墨富豪遺燕將,曰:「即墨即降,原無虜掠吾族家妻妾,令安堵。」燕將大喜,許之。燕軍由此益懈。
  25. ^ 史記 巻八十二 田單列傳》:田單乃收城中得千餘牛,為絳繒衣,畫以五彩龍文,束兵刃於其角,而灌脂束葦於尾,燒其端。鑿城數十穴,夜縱牛,壯士五千人隨其後。牛尾熱,怒而奔燕軍,燕軍夜大驚。牛尾炬火光明炫燿,燕軍視之皆龍文,所觸盡死傷。五千人因銜枚撃之,而城中鼓譟從之,老弱皆撃銅器為聲,聲動天地。燕軍大駭,敗走。齊人遂夷殺其將騎劫。燕軍擾亂奔走,齊人追亡逐北,所過城邑皆畔燕而歸田單,兵日益多,乘勝,燕日敗亡,卒至河上,而齊七十餘城皆復為齊。
  26. ^ 史記 巻八十二 田單列傳》:乃迎襄王於莒,入臨淄而聽政。襄王封田單,號曰安平君。
  27. ^ 資治通鑑 巻四 周紀四》:「王亟殺此九子者以謝安平君,不然,國其危矣!」乃殺九子而逐其家,益封安平君以夜邑萬戸。

関連項目

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