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楽池

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

楽 池(がく ち、生没年不詳)は、中国戦国時代中山国の出身で宰相・将軍。1年ほどではあるがでも相邦の地位に就いている。

紀元前318年、楽池は秦の恵文王に相邦に任じられた。紀元前317年、楽池は相邦を解任され張儀が復帰し相邦に再任された[1]

紀元前314年子之の乱で内乱状態に陥った際、武霊王に人質となっていた公子職(後の燕の昭王)を帰国させた。この際、楽池が派遣され燕まで公子職を護送した。裴駰の『史記集解』では太子平が燕の昭王となり、公子職は王にならなかったと誤解している[2]

脚注

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  1. ^ 『史記』巻五・秦本紀第五:七年、楽池相秦。……八年、張儀復相秦。
  2. ^ 『史記』巻三十四・燕召公世家第四:二年,而燕人共立太子平,是為燕昭王。
    『史記索隠』按:上文太子平謀攻子之,而年表又云君噲及太子相子之皆死,紀年又云子之殺公子平,今此文云“立太子平,是為燕昭王”,則年表・紀年為謬也。而趙世家云武霊王聞燕乱,召公子職於韓,立以為燕王,使楽池送之,裴駰亦以此世家無趙送公子職之事,当是遥立職而送之,事竟不就,則昭王名平,非職明矣。進退参詳,是年表既誤,而紀年因之而妄説耳。
    『史記』巻四十三・趙世家第十三:(趙武霊王)十一年,王召公子職於韓,立以為燕王,使楽池送之。史記集解:按燕世家,子之死後,燕人共立太子平,是為燕昭王,無趙送公子職為燕王之事,当是趙聞燕乱,遥立職為燕王,雖使楽池送之,竟不能就。

参考文献

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