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北畠顕統

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
北畠顕統
時代 南北朝時代
生誕 不詳
死没 元中3年/至徳3年(1386年[1]?
改名 顕雄?
別名 冷泉顕統
官位 内大臣南朝
主君 後村上天皇長慶天皇後亀山天皇
氏族 村上源氏中院流北畠家
父母 父:冷泉持房、養父:北畠親房
兄弟 持定顕統、定能
雅持
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北畠 顕統(きたばたけ あきもと/― あきむね)は、南北朝時代公卿歌人参議冷泉持房の次男で、伯父親房養子となった。南朝に仕え、官職は内大臣暦術に通じ、能筆であったと伝えられる。冷泉顕統とも。

経歴

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父とともに早くから南朝に仕えたようであるが、具体的な官歴は不明である。正平2年/貞和3年(1347年)12月「権左中弁左近衛少将」として親房の『職原抄』を書写し、この顕統本が流布の初めとなった。次いで正平5年/観応元年(1350年)7月には「蔵人頭右大弁[2]であり、正平10年/文和4年(1355年)6月にも同じ署名[3]を残した。正平16年/康安元年(1361年)までに公卿の列に加わったとみられ[4]建徳2年/応安4年(1371年)2月の『三百番歌合』には春宮大夫として出詠(本官は大納言か)、天授元年/永和元年(1375年)の『五百番歌合』においても春宮大夫として出詠したが、翌天授2年/永和2年(1376年)4月の『百番歌合』の直前に内大臣に任じられる。やがて散位に移り、弘和元年/永徳元年(1381年)12月に成立した『新葉和歌集』には「前内大臣」として15首が入集した。南朝末期歌壇の有力歌人である。

脚注

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  1. ^ 没年月日に関して、『南朝編年記略』は元中3年1月24日1386年2月23日)とし、『南朝公卿補任』は同年6月6日(1386年7月2日)とするが、何れも確証を得ない。『観心寺文書』中の元中3年12月14日付讃岐守仲益奉書袖判が顕統のものだとすれば(『花押かがみ』8-4310)、当時なお存命していたとみるべきである。
  2. ^ 五条文書』正平5年7月29日付後村上天皇口宣案
  3. ^ 矢島文書』正平10年6月3日付後村上天皇口宣案
  4. ^ 正平16年(1361年)のものと推定される後村上天皇宸翰消息(『村手重雄氏所蔵文書』、穂久邇文庫現蔵)に「顕統」と見える。

参考文献

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  • 村田正志 「村手重雄氏蔵後村上天皇宸翰の考証」(『村田正志著作集 第1巻 増補南北朝史論』 思文閣出版、1983年、ISBN 9784784203437。初出は1951年)
  • 小木喬 『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年、ISBN 9784305101815