加藤正治
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かとうまさはる 加藤正治 | |
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生誕 |
平林正治 1871年4月29日(明治4年3月10日) |
死没 | 1952年(昭和27年)3月16日 |
出身校 | 東京帝国大学英法科 |
職業 | 法学者 |
肩書き | 東京大学名誉教授、中央大学学長・総長 |
子供 | 長男、次男、次女。正隆、正泰、泰子。 |
親 | 義父:加藤正義 |
加藤 正治(かとう まさはる、1871年4月29日(明治4年3月10日) - 1952年(昭和27年)3月16日)は、日本の法学者。専門は民事訴訟法。東京大学名誉教授。第11代中央大学学長、初代総長[1]。日本郵船副社長加藤正義の養子になった。旧姓平林。岡野敬次郎に師事。弟子に兼子一、菊井維大など[2]。
経歴
[編集]- 信濃国筑摩郡上生坂村(現・長野県東筑摩郡生坂村)出身。
- 1889年(明治22年) 旧制松本中学卒業。
- 第一高等学校卒業。
- 1897年(明治30年)東京帝国大学英法科卒業。
- 1899年(明治32年)12月民事訴訟法・破産法及海法研究のため欧州に留学。
- 1903年(明治36年)5月帰国と同時に東京大学教授に任ぜられる。
- 1904年(明治37年)法学博士の学位を受け、1925年(大正14年)帝国学士院会員となる。
- 1931年(昭和6年)3月停年により東京大学を退職。同6月名誉教授の称号を受け、その後学士院幹事、三菱信託監査役・取締役、枢密院顧問官、三菱本社監査役を務める。枢密院顧問官としては、日本国憲法などの審議に加わった。
- 1948年(昭和23年)7月学士院第一部長に、同月中央大学学長にそれぞれ選任された。
- 1949年(昭和24年)中央大学総長に選任された。
- 1952年(昭和27年) 3月16日死去。
栄典
[編集]- 位階
- 1900年(明治33年)9月21日 - 従七位[3]
- 1901年(明治34年)7月10日 - 正七位[3]
- 1905年(明治38年)7月20日 - 従六位[3]
- 1907年(明治40年)10月30日 - 正六位[3]
- 1910年(明治43年)2月21日 - 従五位[3]
- 1912年(明治45年)7月10日 - 正五位[3]
- 1917年(大正6年)7月31日 - 従四位[3]
- 1922年(大正11年)8月30日 - 正四位[3]
- 1927年(昭和2年)10月15日 - 従三位[3][4]
- 1931年(昭和6年)4月15日 - 正三位[3][5]
- 勲章等
- 1917年(大正6年)6月26日 - 勲三等瑞宝章[3]
- 1919年(大正8年)9月29日 - 旭日中綬章[3]
- 1924年(大正13年)6月30日 - 勲二等瑞宝章[3][6]
- 1927年(昭和2年)4月 - 旭日重光章[3]
人物
[編集]趣味は俳句、俳画、茶道。俳号の犀水は、犀川に由来。松本市城山公園には頌徳碑があるほか、句碑が多数残る[7]。母校旧制中学の同窓会長や長野県人連合会長も務めた。大正6年、澤柳政太郎を総裁、加藤を副総裁として財団法人「日本アルプス会」が結成された。なお、弟子には商法学者の森清(中央大学名誉教授)がいた
松本高校誘致運動
[編集]1917年(大正6年)の高等学校旧制松本高校誘致運動では、横田秀雄・田中穂積らと連署で「高等学校設立建白書」を政府に提出し、松本への高等学校誘致に努めた[7]。
家族
[編集]- 妻・すみ(1882年生)は、養父・加藤正義の長女。
- 長男・正徳(1904年生)は暁星中学卒業後、フランス童話集を出版した[8]。
- 三男・正隆(1916年生)は、逓信省電気試験所、東京高等工業学校講師を経て中央大学文学部教授[9][10]。五洋貿易常務、千代田ビル管理、千代田管財創業[11]。妻・多美子は子爵松平忠寿の娘。長男の加藤正文(1943年生、慶応大学卒)は千代田ビル管理、千代田管財、日本ウイントン社長[11][12]。長女の喜美子(1941年生、聖心女子学院卒)は電通社長・吉田秀雄の二男八郎の妻[11]。
- 四男・正泰(1918年生)は東京帝国大学卒業後、山下汽船[9]。妻・照子は元日本郵船社長大谷登の娘。
- 二女泰子(1913年生)は法学者兼子一の妻。
頌徳展
[編集]生地の東筑摩郡生坂村では、これまであまり知られていない存在だった。そこで、村教育委員会では、2012年7月下旬に、加藤の「頌徳展」を初めて企画し、準備を進めている。同村上生坂には生家が残っており、そこで発見された資料その他を、村内の農村資料館で展示することになっている[7]。
主著
[編集]- 『破産法研究 第1~11巻』(有斐閣、1912~1953年)
- 『民事訴訟法要論〔新訂版〕』(有斐閣、1952年)
- 『破産法要論〔新訂増補〕』(有斐閣、1950年)
- 『強制執行法要論』(有斐閣、1935年)
- 『和議法要論』(有斐閣、1935年)
- 『海商法講義』(有斐閣、1925年)
- 『民事訴訟法判例批評集 第1巻』(有斐閣、1926年)
- 『民事訴訟法判例批評集 第2巻』(有斐閣、1927年)
脚注
[編集]- ^ 中央大学初代総長「加藤正治(犀水)先生」句碑除幕式並びに顕彰会総会が長野県東筑摩郡生坂村において開催されました
- ^ “吾妻京一郎編『法学部物語』(一粒社、1958)”. dl.ndl.go.jp. 2023年8月1日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 「加藤正治」 アジア歴史資料センター Ref.A06051186700
- ^ 『官報』第290号「叙任及辞令」1927年12月15日。
- ^ 『官報』第1317号「叙任及辞令」1931年5月23日。
- ^ 『官報』第3559号「叙任及辞令」1924年7月4日。
- ^ a b c 『信濃毎日新聞』2012年6月20日号25面
- ^ 加藤正徳『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ a b 加藤正治『人事興信録』第14版 上
- ^ 『民衆文化の構成と展開: 遠野物語から民衆的イベントへ』中央大学人文科学研究所、中央大学出版部 1989、p105
- ^ a b c 『人事興信録』45版
- ^ 主宰 加藤正文本人サイト
参考文献
[編集]- 『第十六版人事興信録(上)』1951年 か10
- [1] 無料公開マンガふるさとの偉人「日本の近代化を進めた法学者 加藤正治物語」 発行 長野県生坂村教育委員会 2022年3月発行