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劉玄佐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

劉 玄佐(りゅう げんさ、735年 - 792年)は、唐代軍人宣武軍節度使本貫滑州匡城県[1][2]

経歴

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もとの名を洽といった。若くして才気にすぐれ、生業をおさめなかった。県の捕盗吏となったが、法に違反して笞打たれて死にかけ、亡命して従軍した。大暦年間、永平軍衙将となった。李霊曜汴州に拠ると、劉洽は兵を率いてその虚に乗じて、小道から宋州に入って占拠した。詔により宋州は永平軍に属することとなり、節度使の李勉の上奏により劉洽は臨時の宋州刺史となった。建中2年(781年)、御史中丞・亳潁節度等使を兼ね加えられた[1][2]

淄青節度使李正己が死去し、その子の李納が父の死を隠して反乱を起こした。しかし李洧徐州で帰順したため、李納は兵を派遣して徐州を包囲した。劉洽は諸軍とともに李洧の援軍となり、反乱軍と白兵戦し、これを破った。1万人あまりを斬首した。これにより運輸の道が開通し、劉洽は御史大夫の位を加えられた。さらに濮州を奪回し、濮州の将の楊令暉を降した。濮陽の将の高彦昭を降し、濮陽津を開通させた。劉洽は尚書に転じ、曹濮観察使を兼ねた。ほどなく淄青兗鄆招討使を加えられ、さらに汴滑都統副使を加えられた[3][4]

李希烈が汴州を攻めると、劉洽は連戦して、反乱軍を撃退した。興元元年(784年)、検校左僕射を進め加えられ、平章事を加えられた。李希烈が寧陵を包囲したが、劉洽の部下の大将の劉昌言が堅守して下らなかった。李希烈が陳州を攻めると、劉洽は劉昌言を派遣して諸軍とともに陳州を救援した。反乱軍を破り、李希烈の部将の翟崇暉を捕らえた。李希烈が汴州を放棄すると、劉洽は軍を率いて汴州を奪回し、汴宋節度を加えられた。ほどなく本管および陳州諸軍行営都統に任じられ、玄佐の名を賜った。この年、玄佐は長安に入朝し、さらに涇原四鎮北庭等道兵馬副元帥に任じられ、司空を検校した[5][6]

玄佐は贅沢で派手好きな性格で、財を軽んじて義を重んじ、軍士に厚く褒賞を与えたので、人民はますます困窮した。さらに玄佐は小吏の張士南や養子の楽士朝を寵愛し信任して、巨万の財物を与えていた。貞元8年(792年)3月、死去した。楽士朝が玄佐の妾と私通しており、その発覚を恐れて毒殺したものという。享年は58。太傅の位を追贈された。は壮武といった[5][6]

子女

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脚注

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  1. ^ a b 旧唐書 1975, p. 3931.
  2. ^ a b 新唐書 1975, p. 5999.
  3. ^ 旧唐書 1975, pp. 3931–3932.
  4. ^ 新唐書 1975, pp. 5999–6000.
  5. ^ a b c d 旧唐書 1975, p. 3932.
  6. ^ a b 新唐書 1975, p. 6000.
  7. ^ a b 新唐書 1975, p. 6001.

伝記資料

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参考文献

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  • 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2 
  • 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6