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劉宗紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
劉宗紀
プロフィール
出生: 1887年または1888年[注 1]
死去: 不詳
出身地: 清の旗 湖北省[1][注 2]
職業: 軍人・政治家
各種表記
繁体字 劉宗紀
簡体字 刘宗纪
拼音 Liú Zōngjì
ラテン字 Liu Tsung-chi
和名表記: りゅう そうき
発音転記: リウ ゾンジー
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劉 宗紀(りゅう そうき、1887年または1888年 – 没年不詳)は中華民国の軍人・政治家。北京政府では直隷派の陸軍将官として各職を歴任し、後に冀東防共自治政府に参加した。

事績

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日本に留学し、陸軍士官学校第21期(中国第6期)を卒業した[1]。帰国後は北京禁衛軍参謀、江蘇都督府(後に督軍署)[注 3]参謀、馮国璋護衛司令[2]江西督軍参謀長[注 4]、北京将軍府参軍[3][注 5]を歴任している。

1924年(民国13年)から1927年(民国16年)にかけて、劉宗紀は孫伝芳の五省聯軍総司令部で参謀長を務め[2]、孫が済南へ撤退した際には総参議に任命された[4]。なお、1918年9月16日に陸軍少将、1924年10月4日に陸軍中将、1926年10月9日に陸軍上将へとそれぞれ昇進している[3]国民政府成立後の1935年(民国24年)、河北省政府主席・于学忠の下で保安処副処長になった[2]

冀東防共自治政府が成立した後の1936年(民国25年)1月、劉宗紀は自治政府保安処長に任命され[2][注 6]満洲国への修好使節となった秘書長兼外交処長・池宗墨に随従して新京へ向かった[5]1937年(民国26年)7月29日の通州事件勃発後、8月2日には劉は北平(北京)に在り、冀東防共自治政府臨時弁事処の治安組で執務を開始した[6][注 7]

以後、劉宗紀の行方は不詳である[注 8]

注釈

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  1. ^ 高木(1937)、138頁は「本年五十一歳」(数え年ならば1887年生)、神田・東洋事情研究会(1937)、49頁は「年歳五十」(数え年ならば1888年生)としている。
  2. ^ 高木(1937)、138頁は「湖北省」、神田・東洋事情研究会(1937)、49頁は「河北河間」(清末は直隷省)としている。しかし、後者は後述する「劉宗彝」と混同している可能性があることから、本記事では高木(1937)に従う。
  3. ^ 当時の江蘇督軍は、馮国璋
  4. ^ 当時の江西督軍は、直隷派陳光遠
  5. ^ 高木(1937)、138頁では、1920年民国9年)から1922年(民国11年)にかけて、参軍の地位に在ったとしている。
  6. ^ 前任の保安処長は張慶余である。
  7. ^ 臨時弁事処には治安組を含む四組が設置され、総務組では張仁蠡、財政組では張志遠と江華、交通組では王厦材がそれぞれ執務を担当した。
  8. ^ 後年、汪兆銘政権華北政務委員会北京特別市公署で秘書長兼社会局長を務めた人物に「劉宗彝」がいる(劉ほか編(1995)、1139頁・1459頁)。この人物は光緒8年(1882年)・河北省河間府生まれ、清の挙人という経歴のため(満蒙資料協会(1941)、938頁)、本記事の劉宗紀とは別人と思われる(劉ほか編(1995)も別人扱いしている)。ただしこの人物は、『華北商工』創刊号、1943年5月、1頁及び『国民雑誌』第3巻第6期、1943年6月、3頁のように「劉宗紀」表記で資料に記載される事例もある。以上のような状況であるが、いずれにしても本記事の劉宗紀との同定ができないため別人と見なす。

出典

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  1. ^ a b 楊承禧ほか編『湖北通志』巻一三二 人物志十 選挙表十。
  2. ^ a b c d 高木(1937)、137-138頁。
  3. ^ a b 中華民国政府官職資料庫「姓名:劉宗紀」
  4. ^ 外務省情報部編(1928)、347頁。
  5. ^ 『外交時報』78巻3号通号754号、1936年5月1日号、外交時報社、192-193頁。
  6. ^ 『同盟旬報』1巻5号、1937年8月上旬号、同盟通信社、201頁。

参考文献

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  • 高木翔之助編『冀東政権の正体』北支那社、1937年。 
  • 神田隆介著・東洋事情研究会編『冀東綜覧 北支経済資料 改訂増補』東洋事情研究会、1937年。 
  • 外務省情報部『現代支那人名鑑 改訂』東亜同文会調査編纂部、1928年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 満蒙資料協会編『満華職員録 康徳九年版 民国三十一年版』満蒙資料協会、1941年。