兵頭雅誉
兵頭 雅誉(譽)(ひょうどう まさよ、安政5年1月20日[1](1858年3月5日) - 1927年(昭和2年)4月1日[2])は、明治、大正時代の軍人。最終階級は陸軍中将、位階勲等は従三位勲二等功三級。
生涯
[編集]安政5年(1858年)1月20日、伊予宇和島藩士の兵頭慶右衛門[1] の長男として江戸の宇和島藩邸で生まれる。初名は久太郎。1870年(明治3年)、父が死去したことにより、家督を相続した[1]。
1875年(明治8年)、陸軍士官学校に入学し、同校の旧二期生となる。同期には井口省吾、石井隼太、伊地知幸介、大迫尚道、大谷喜久蔵、加藤泰久、税所篤文、渋谷在明、仙波太郎、田内三吉、鷹司煕通、田村怡与造、豊島陽蔵、長岡外史、松本鼎、村木雅美、村田惇、山田忠三郎らがいる[3]。
1879年(明治12年)2月1日に同校を卒業し、陸軍少尉に任じ[2]、正八位に叙せられ[1]、大阪鎮台山砲隊附となる。
日清戦争では野戦砲兵第三聯隊第二大隊長となり、勲功に依り功四級金鵄勲章を賜う。1897年(明治30年)には勲五等を賜う[1]。1902年(明治35年)には陸軍大佐に昇進し、従五位を叙せられた[1]。日露戦争が始まると、野戦砲兵第一聯隊長として各地を転戦し、この功に依り功三級金鵄勲章を賜う。1907年(明治40年)11月には、陸軍少将に任ぜられた。同年に基隆要塞司令官[4]、1910年(明治43年)に陸軍兵器本廠長[4]、同年転じて東京砲兵工廠提理[4] などを歴任した。
1912年(明治45年)、愛媛県軍人会の発起人(中心は秋山好古中将)となり創設に関わる。発起人には他に尾崎正満中佐(後に少将)、白石通則少佐(後に中将)がいた[5]。1912年(大正元年)12月に陸軍中将に累進。
1913年(大正2年)8月、正四位に陛る。1914年5月、予備役となる。その後は旧宇和島藩主伊達侯爵家の家令を務めた[6]。1922年(大正11年)、遊就館長となり、3年半在職する。1927年(昭和2年)4月1日卒去。享年70[7]。卒去後特旨により勲二等を叙せられた。嗣子良吉が家を継いだ。墓所は青山霊園1-ロ-8-29。戒名は、大量院殿髙岳雅譽大居士。墓誌は後進である鈴木孝雄陸軍大将が記している。
栄典
[編集]- 1883年(明治16年)5月25日 - 従七位[8]
- 1892年(明治25年)5月20日 - 従六位[9]
- 1897年(明治30年)10月15日 - 正六位[10]
- 1907年(明治40年)12月27日 - 正五位[11]
- 1914年(大正3年)6月10日 - 正四位[12]
親族
[編集]脚注
[編集]これ以外の引用は、青山霊園にある墓誌から。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 初版』(人事興信所、1903年)p.1096
- ^ a b 兵頭雅誉(ひょうどうまさよ)とは - コトバンク(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)
- ^ 陸軍軍人職歴一覧
- ^ a b c 兵頭 雅誉(ヒョウドウ マサヨ)とは - コトバンク(20世紀日本人名事典)
- ^ 豫山会の歴史 - 一般財団法人 豫山会
- ^ 『人事興信録』(第4版)データベース
- ^ 兵頭雅誉 - 軍人|死去ネット
- ^ 『官報』第23号「叙任」1883年7月27日。
- ^ 『官報』第2667号「叙任及辞令」1892年5月21日。
- ^ 『官報』第4289号「叙任及辞令」1897年10月16日。
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第558号「叙任及辞令」1914年6月11日。
- ^ 『人事興信録』第4版