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共公 (秦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
共公
第11代公
王朝
在位期間 前608年 - 前604年
都城 雍城
姓・諱 嬴稲
諡号 共公
生年 不詳
没年 共公5年(前604年
康公
陵墓 竘社(康公陵南)

共公(きょうこう)は、の第11代公。康公の子。

生涯

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康公12年(前609年)春、康公が薨去したため、子の稲(とう)が立って秦君(以降は共公と表記)となった。

共公元年(前608年)冬、晋が秦の同盟国である崇に侵攻した。

共公2年(前607年)春、秦軍は前年の報復として晋を攻撃し、焦(晋の邑)を包囲した。9月、趙穿が主君の霊公を殺した。

共公3年(前606年)、荘王が強盛となり、北上して周都の(洛邑)へ進軍し、(かなえ)の軽重を問うて天下を乗っ取ろうとはかった。

共公5年[1]前604年)春、薨去し、子の桓公が立って秦公となった。

脚注

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  1. ^ 『左伝』では宣公4年(前605年)に死去したとあるが、『史記』では在位5年(前604年)に死去したとあるので、『史記』に依る。

参考資料

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  • 春秋左氏伝』(文公十八年、宣公元年、二年、四年)
  • 史記』(秦本紀第五)