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八田卯一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
八田 卯一郎
名前
カタカナ ハッタ ウイチロウ[1]
ラテン文字 HATTA Uichiro
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1903年9月10日[2]
大日本帝国の旗 大日本帝国大阪府大阪市
没年月日 (1989-04-20) 1989年4月20日(85歳没)[1]
日本の旗 日本神奈川県藤沢市
選手情報
ポジション MF
ユース
19xx-1921 日本の旗 明星商業学校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1921-19xx 日本の旗 大阪サッカー倶楽部
代表歴
1925 日本の旗 日本 2 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

八田 卯一郎(はった ういちろう、1903年9月10日 - 1989年4月20日 )は、大阪府大阪市出身[3]裁判官サッカー選手。

来歴

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大阪府明星商業学校在学時はサッカー部に所属。1920年には主将を務め[4]第4回日本フットボール優勝大会(1921年1月開催)に出場した。

1921年、神田清雄安積四郎らの明星商業学校OBと共に大阪サッカー倶楽部を創設し、同チームに所属した[4][5]1925年5月にマニラで開催された第7回極東選手権競技大会サッカー日本代表に選出され2試合に出場した[5][3]

その後は旧制第一高校を経て、東京帝国大学法学部に入学。1930年に大学を卒業し、裁判官の道を進む。東京区裁判所在任時の1938年に小説家の石川達三新聞紙法に違反した事件の公判を担当した。1939年から1946年まで満州国新京地方法院次長、1950年から当時東京都にあった裁判所書記官研修所の初代所長を務め、任期終了後は東京地方裁判所に赴任。1965年に東京地裁の刑事部の裁判長時にハガチー事件(1960年6月11日)の公判を担当した[6][3]

1968年に静岡地方裁判所の所長を最後に定年退官したが、以降も東京簡易裁判所の裁判官を務めた[6]。1970年5月から国税不服審判所の初代所長を務めた[6]

1989年4月20日、神奈川県藤沢市において心不全により死去した。享年85歳[1]

所属チーム

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代表歴

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出場大会

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試合数

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  • 国際Aマッチ 2試合 0得点


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1925 2 0 0 0 2 0
通算 2 0 0 0 2 0

出場

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No. 開催日 開催都市 スタジアム 対戦相手 結果 監督 大会
1. 1925年05月17日 フィリピンの旗マニラ  フィリピン ●0-4 山田午郎 極東選手権
2. 1925年05月20日 フィリピンの旗マニラ  中華民国 ●0-2 極東選手権

脚注

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  1. ^ a b c 「八田卯一郎氏 死去=元国税不服審判所長、元静岡地・家裁所長」毎日新聞 (1989年4月21日) 2016年9月26日閲覧
  2. ^ 「whoplus」(日外アソシエーツ) , 2016年9月29日閲覧
  3. ^ a b c 「時の人」読売新聞 (1970年5月9日) 2016年9月29日閲覧
  4. ^ a b 『明星サッカー六十年史』 p.15, 2016年10月8日閲覧
  5. ^ a b 第7回極東選手権大会”. 日本サッカー協会. 2016年9月26日閲覧。
  6. ^ a b c 「ときの人=八田卯一郎」 毎日新聞 (1970年5月7日) 2016年9月26日閲覧

関連項目

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外部リンク

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