伊集院五郎
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生誕 |
1852年11月9日 (嘉永5年9月28日) 日本・薩摩国鹿児島郡鹿児島城下 |
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死没 |
1921年1月13日(68歳没) 日本・東京府 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1871年 - 1917年 |
最終階級 | 元帥海軍大将 |
墓所 | 青山霊園 |
伊集院 五郎(いじゅういん ごろう、1852年11月9日(嘉永5年9月28日) - 1921年(大正10年)1月13日)は、日本の海軍軍人。元帥海軍大将正二位勲一等功一級男爵。
経歴
[編集]薩摩藩士の子として生まれ、明治10年(1877年)の西南戦争に参戦する。イギリスの海軍兵学校・海軍大学校で兵学を学んでいたため、日本海軍の中でも博識であった。海兵5期[1]。
下瀬雅允海軍技師が開発した下瀬火薬の威力を発揮させるため、伊集院信管を開発した。この信管は明治38年(1905年)の日本海海戦(日露戦争中)で、下瀬火薬とともにその威力を発揮し、連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破する大きな要因となった。そのため伊集院は、「日本海海戦勝利の影の功労者」と言われている。
日露戦争後は第二艦隊司令長官、第一艦隊司令長官、海軍軍令部長を歴任した。第一艦隊司令長官時代に行った猛訓練は「月月火水木金金」といわれ、後に同名の軍歌が作られるに至った。
年譜
[編集]※日付は明治5年までは旧暦
- 嘉永5年(1852年)9月28日 薩摩藩士 伊集院才之丞の長男として生まれる
- 明治4年(1871年)9月24日 海軍兵学寮幼年学舎入り
- 明治9年(1876年)9月5日 軍艦「筑波」乗組
- 明治10年(1877年)11月9日 イギリス留学(深尾弘とともに「学業進歩」により選抜される)
- 明治12年(1878年)8月16日 英戦艦「トライアンフ」 (Triumph) 乗組
- 明治13年(1880年)10月4日 「トライアンフ」航海士
- 明治15年(1882年)
- 1月22日 「トライアンフ」退艦
- 10月1日 グリニッジ海軍大学校入学
- 明治16年(1883年)
- 6月 グリニッジ海軍大学校卒業
- 11月27日 任 海軍中尉
- 明治17年(1884年)5月 「浪速」「高千穂」「畝傍」三艦武器監督
- 明治18年(1885年)
- 明治19年(1886年)
- 明治21年(1888年)5月14日 海軍参謀本部第1局員
- 明治22年(1889年)
- 明治23年(1890年)
- 明治24年(1891年)4月11日 帰国
- 明治25年(1892年)6月3日 常備艦隊参謀
- 明治26年(1893年)
- 明治27年(1894年)
- 明治28年(1895年)6月4日 海軍軍令部第1局長
- 明治30年(1897年)12月27日 兼海軍軍令部第2局長
- 明治31年(1898年)
- 明治32年(1899年)9月26日 任 海軍少将・海軍軍令部次長兼将官会議議員
- 明治35年(1902年)3月17日 常備艦隊司令官
- 明治36年(1903年)9月5日 任 海軍中将・海軍軍令部次長兼将官会議議員
- 明治39年(1906年)
- 明治40年(1907年)9月21日 男爵
- 明治41年(1908年)5月26日 第1艦隊司令長官(同年10月から11月まで連合艦隊司令長官を兼任)
- 明治42年(1909年)12月1日 海軍軍令部長兼将官会議議員
- 明治43年(1910年)12月1日 任 海軍大将
- 大正3年(1914年)4月22日 軍事参議官
- 大正6年(1915年)5月26日 元帥
- 大正10年(1921年)1月13日 薨去
栄典
[編集]- 位階
- 1885年(明治18年)9月16日 - 正七位[2]
- 1891年(明治24年)12月16日 - 従六位[3]
- 1894年(明治27年)12月28日 - 正六位[4]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 従五位[5]
- 1899年(明治32年)11月20日 - 正五位[6]
- 1903年(明治36年)10月30日 - 従四位[7]
- 1906年(明治39年)12月21日 - 正四位[8]
- 1910年(明治43年)1月31日 - 従三位[9]
- 1913年(大正2年)2月20日 - 正三位[10]
- 1918年(大正7年)3月11日 - 従二位[11]
- 1921年(大正10年)1月13日 - 正二位[12]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月22日 - 勲五等瑞宝章[13]
- 1895年(明治28年)
- 1900年(明治33年)9月22日 - 勲三等旭日中綬章[16]
- 1901年(明治34年)12月27日 - 勲二等旭日重光章[17]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲一等旭日大綬章・功一級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章[18]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [19]
- 1915年(大正4年)
- 1917年(大正6年)5月26日 - 元帥[22]
- 1921年(大正10年)1月13日 - 旭日桐花大綬章[12]
- 外国勲章佩用允許
親族
[編集]著作等
[編集]- 「明治十四年第一月一日南亜米利加白露国カルレオ港停泊英国旗艦ツライアムフ号乗組我海軍生徒伊集院五郎ヨリ川村海軍卿其他ヘ報知セル書翰ヲ訂正シテ白露知里両国の戦況等ヲ掲載スル」海軍省雑誌1号、1881年5月。「白露」はペルー、「知里」はチリ。
脚註
[編集]- ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、107頁。
- ^ 『官報』第776号「叙任」1886年2月5日。
- ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
- ^ 『官報』第3453号「叙任及辞令」1895年1月4日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第4918号「叙任及辞令」1899年11月21日。
- ^ 『官報』第6101号「叙任及辞令」1903年10月31日。
- ^ 『官報』第7046号「叙任及辞令」1906年12月22日。
- ^ 『官報』第7980号「叙任及辞令」1910年2月1日。
- ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。
- ^ 『官報』第1680号「叙任及辞令」1918年3月12日。
- ^ a b 『官報』第2534号「叙任及辞令」1921年1月15日。
- ^ 『官報』第1925号「叙任及辞令」1889年11月27日。
- ^ 『官報』第3578号「叙任及辞令」1895年6月5日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第5170号「叙任及辞令」1900年9月24日。
- ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1445号「叙任及辞令」1917年5月28日。
- ^ 『官報』第5328号「叙任及辞令」1901年4月11日。
- ^ a b c d 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
- ^ a b 『官報』第8037号「叙任及辞令」1910年4月11日。
参考文献
[編集]- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年
- 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、発売:第一法規出版、1995年
外部リンク
[編集]軍職 | ||
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先代 東郷平八郎 |
連合艦隊司令長官 第5代:1908年10月8日 - 同11月20日 |
次代 吉松茂太郎 |
先代 東郷平八郎 |
海軍軍令部長 第9代:1909年12月1日 - 1914年4月1日 |
次代 島村速雄 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 伊集院(五郎)家初代 1907年 - 1921年 |
次代 伊集院松治 |