伊東祐保
生誕 | 1869年4月14日(明治2年3月3日) |
---|---|
死没 | 1914年10月18日(45歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1890年 - 1914年 |
最終階級 | 海軍大佐 |
伊東 祐保(いとう すけやす、1869年4月14日(明治2年3月3日) - 1914年(大正3年)10月18日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大佐。 第一次世界大戦において防護巡洋艦・「高千穂」艦長として戦死した。
生涯
[編集]略歴
[編集]佐賀県出身。攻玉社を経て明治19年(1886年)海軍兵学校に進み、明治23年(1890年)卒業(17期)。同期に秋山真之、山路一善、森山慶三郎らがいる。
海軍少尉に任官後、日清戦争に参戦。威海衛で行われた世界初の水雷夜襲実施の際は、占領した砲台に赴き港内偵察にあたった[1][2]。日露戦争にも参戦し「亜米利加丸」航海長として、後にバルチック艦隊が集結したカムラン湾を視察し[3]、同職のまま日本海海戦に参戦した。明治40年(1907年)中佐へ進級。大正2年(1913年)12月1日大佐進級と同時に軍令部参謀兼軍務局員に補され、次いで「高千穂」艦長として第一次世界大戦に参戦。青島の戦いにおいて戦死した。
高千穂
[編集]伊東が艦長を務めた「高千穂」は第二艦隊に属していたが、10月18日は哨戒部隊として第二水雷戦隊司令官・岡田啓介少将の指揮下にあった。18日午前1時、ドイツ水雷艇「S90号」が発射した魚雷が2発命中。搭載していた機雷の誘爆により「高千穂」は撃沈され、3名の生存者を除く全員が戦死した[4]。伊東の遺骸は収容されている。岡田は仇を討とうと水雷艇を港内に侵入させ攻撃を行うよう命じ、自ら偵察に赴き攻撃隊に同行したが、警戒厳重と見て、決行寸前に中止した。岡田は戦後「高千穂」沈没地点に赴き、追悼法要を行った。
なお「高千穂」は、日本海軍が敵艦船との戦闘によって失った最初の軍艦である[5]。
親族
[編集]兄は近衛歩兵第一聯隊大隊長、水戸連隊区司令官を務めた伊東祐俊。祐俊の妻エイチヨは、第9代鍋島藩主鍋島斉直の曾孫、皇族梨本宮妃伊都子の従姉にあたる。伊東家は飫肥藩の一族。家紋は庵木瓜。妻は鍋島幹の六女ミヨでいとこでもある。祖父は、第10代鍋島藩主鍋島直正に仕えた伊東次兵衛である。
栄典
[編集]- 位階
- 1897年(明治30年)5月31日 - 従七位[6]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 正七位[7]
- 1907年(明治40年)11月30日 - 正六位[8]
- 1914年(大正3年)10月18日 - 正五位[9]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等瑞宝章・功五級金鵄勲章[10]・明治二十七八年従軍記章[11]
- 1902年(明治35年)5月10日 - 明治三十三年従軍記章[12]
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲四等瑞宝章[13]
- 1914年(大正3年)10月18日 - 旭日中綬章・功三級金鵄勲章[9]・大正三四年従軍記章[14]
脚注
[編集]- ^ 『二十七八海戦史 第2冊(下巻)』第十章第二節
- ^ 伊藤正徳の著作では、祐保少尉が夜襲に同行していたとある。ただし祐保少尉が連合艦隊司令長官・伊東祐亨の長男としており、真偽不明。同姓に加え家紋も同じ庵木瓜である。(『大海軍を想う』p110)
- ^ この記述はアジア歴史資料センターの資料に基づく。
- ^ 『回想の日本海軍』「第一次世界大戦における青島戦の思い出」
- ^ 『日本の海軍』(下)p44
- ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。
- ^ a b 『官報』第669号「叙任及辞令」1914年10月23日。
- ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」明治28年11月29日。
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
- ^ 『官報』第5835号・付録「叙任及辞令」1902年12月13日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』第1022号・付録「辞令」1915年12月27日。