コンテンツにスキップ

洞院佶子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
京極院から転送)
洞院 佶子
第90代天皇后
皇后 文応2年2月8日(1261年3月10日)
(中宮)
弘長元年8月20日(1261年9月16日
(皇后)
京極院
院号宣下 文永9年8月9日1272年9月2日

誕生 寛元3年(1245年
崩御 文永9年8月9日1272年9月2日
陵所 蓮華峯寺陵京都市右京区
佶子(きつし)
氏族 藤原氏洞院家
父親 洞院実雄
母親 徳大寺栄子(徳大寺公審の娘)
配偶者 亀山天皇
入内 文応元年12月22日1261年1月24日
子女 晛子内親王
知仁親王
後宇多天皇
女御宣下 文応元年12月25日(1261年1月27日
立后前位階 従三位
テンプレートを表示

洞院 佶子(とういん きつし、藤原 佶子(ふじわら の きつし)、1245年寛元3年〉- 1272年9月2日文永9年8月9日〉)は、鎌倉時代の女性。亀山天皇皇后で、後宇多天皇の生母。女院号は京極院(きょうごくいん)。

系譜

[編集]

左大臣洞院実雄の女。生母は法印徳大寺公審の娘・栄子。異母妹に伏見天皇生母の洞院愔子(玄輝門院)、花園天皇生母の洞院季子(顕親門院)がいる。

略歴

[編集]

増鏡』によると佶子は大変容姿が優れており、同母兄の権中納言公宗に恋慕されるほどであったという。文応元年(1260年)11月、大嘗祭の際に亀山天皇の女御代を務め、翌12月に入内。女御宣下を受ける。

翌文応2年(1261年)2月、中宮に冊立される。半年後の弘長元年(1261年)8月、女御西園寺嬉子が立后されるのを受け、皇后となる。嬉子はこのときまだ10歳と幼く、天皇の寵愛も薄かったと言われているのに対し、佶子は天皇より4歳年上であるにもかかわらず寵愛が深く、この後、天皇との間には二男一女を儲ける。

しかし、文永9年8月9日(1272年9月2日)、佶子は28歳で崩御。同日院号宣下を受け、京極院と称された。陵所は京都市右京区蓮華峯寺陵。のちに佶子所生の後宇多天皇も同所に葬られた。

所生の皇子女

[編集]