洞院公宗
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時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
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生誕 | 仁治2年(1241年) |
死没 | 弘長3年3月21日(1263年4月30日) |
官位 | 従二位、権中納言 |
主君 | 後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇 |
氏族 | 洞院家 |
父母 | 父:洞院実雄、母:栄子(公審の娘) |
兄弟 | 公宗、小倉公雄、守恵、佶子、愔子、公守、季子、禖子、慈順、公尹、公方、公風、定勝、実修、公潤、公春、近衛基平室、鷹司基忠室、西園寺公蔭室、三条公親室、実子 |
子 | 英子[1] |
洞院 公宗(とういん きんむね)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。左大臣・洞院実雄の長男。官位は従二位・権中納言。
増鏡によると、同母妹で後に亀山天皇の皇后となる佶子に密かな恋心を抱いていたという。
経歴
[編集]以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 正嘉2年(1258年)1月5日、従三位に叙せられる。同月7日、左中将は元の如し。同年8月7日、春宮権大夫を兼ねる。
- 正嘉3年(1259年)3月8日、正三位に昇叙。同年11月には春宮が践祚したため権大夫を止める。
- 正元2年(1260年)3月29日、駿河権守を兼ねる。
- 文応2年(1261年)2月8日、中宮権大夫を兼ねる。同年8月には皇后宮権大夫に遷る。
- 弘長2年(1262年)7月16日、参議を経ずに権中納言に任ぜられる。同年10月13日、皇后宮権大夫を止める。
- 弘長3年(1263年)2月19日、従二位に昇叙。同年3月21日、腫れ物の病により薨去。