亀岡謙太郎
亀岡 謙太郎(かめおか けんたろう、1868年1月17日(慶應3年12月23日) - 1943年(昭和18年)2月24日)は、日本の教育者、酒造家[1]、政治家。亀岡酒造場代表[2]。平岡尋常小学校(現・天神小学校)校長。愛媛県喜多郡天神村長[3]、同村助役、同村会議員。
経歴
[編集]大洲藩領喜多郡平岡村(のち愛媛県喜多郡天神村・五十崎町、現内子町)出身。父・久平の長男[4]。父・久平死亡により、謙太郎は1892年12月15日に相続し、酒造業を営む[5]。1897年頃一時休業したが、1907年再び斯業を始めた[5]。
1890年、愛媛県師範学校卒業後、五十崎尋常小学校(現・五十崎小学校)に奉職[4]。1894年から1907年まで平岡尋常小学校(現・天神小学校)の2代目校長として、裁縫科の加設、運動場拡張、学校改築、壮丁教育、高等科の設置、戦没記念通俗文庫開設など永年教育界に貢献した[4]。1928年4月、4名の歴代校長(亀岡謙太郎)の「旧師頌徳謝恩碑」が校庭に建立された[4]。
1911年から1924年まで村助役、1918年から1期4年間村会議員、1926年から1942年まで天神村長を歴任した[4]。村内の重要道路の開設、産業の興隆などに貢献した[4]。1912年から2期、天神村信用組合の理事に就任した[4]。
人物
[編集]永年の教育界、村政、産業など広い分野で郷土の振興発展に貢献した業績は大きかった[4]。また、信仰心厚く神社などに金品を寄進した[4]。篤農家としても知られた[6]。住所は愛媛県喜多郡天神村大字平岡。
亀岡謙太郎が代表の亀岡酒造場について、『全国工場通覧』には「生産品目・清酒、酒粕、開業年月は明治40年10月」とある[2]。
家族・親族
[編集]- 亀岡家
亀岡家は、1716年、亀岡久平により亀岡酒造(現千代の亀酒造)創業[7]、代々酒造業を営む[4]。
- 父・久平[5]
- 母・キクエ(1855年 - ?)[5]
- 弟・太久馬(1871年 - ?)[5] - 1893年7月、東京法学院を卒業[8]。英国倫敦で商業を営んだ[5]。
- 妻・マキ(1885年 - ?)[5]
- 養子・嘉秋(1903年 - 1984年、酒造家、政治家)[4] - 愛媛県温泉郡三津浜町(現松山市)で、八原久治郎の三男として生まれた[4]。松山高等商業学校(現松山大学)卒業[4]。1934年、亀岡謙太郎家の養子となり、四国電力に定年まで勤めながらも家業をもり立てた[4]。天神商工会の三代目会長として商工業の振興にも努力した[4]。1962年から五十崎町議会議員を2期務めた[4]。人権擁護委員として永年勤続した[4]。
- 同長男・徹[4](実業家)
脚注
[編集]- ^ 『喜多郡の華 附・上浮穴郡小田郷』10頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年8月11日閲覧。
- ^ a b 『全国工場通覧』898頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年12月22日閲覧。
- ^ 『現代展望・郷土誌 香川県 愛媛県』現代展望・愛媛県34頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年6月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『改訂 五十崎町誌』893 - 894、913 - 914頁。
- ^ a b c d e f g 『愛媛県人物名鑑 第2輯 喜多郡、上浮穴郡、伊予郡之部』喜多郡かの部47 - 48頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年1月28日閲覧。
- ^ 『大日本篤農家名鑑』100頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月19日閲覧。
- ^ 千代の亀酒造について(千代の亀酒造公式サイトより)。
- ^ 『東京法学院院友会々員名簿 明治29年6月改』か50頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年12月30日閲覧。
参考文献
[編集]- 坂本武治編『東京法学院院友会々員名簿 明治29年6月改』坂本武治、1894、1896年。
- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 小川薫水編『喜多郡の華 附・上浮穴郡小田郷』小川寳文館、1914年。
- 『愛媛県人物名鑑 第2輯 喜多郡、上浮穴郡、伊予郡之部』海南新聞社、1923 - 1924年。
- 商工省大臣官房統計課編『全国工場通覧』日刊工業新聞社、1931年。
- 『現代展望・郷土誌 香川県 愛媛県』帝国聯合通信社、1934年。
- 五十崎町誌編纂委員会編『改訂 五十崎町誌』五十崎町、1998年。