丸新百貨店
種類 | 株式会社 |
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本社所在地 |
![]() 〒770-0916 徳島県徳島市東新町1-29[1][3] |
設立 | 1935年(昭和10年)9月20日[1][2] |
業種 | 小売業 |
事業内容 | 百貨店[1] |
代表者 |
西谷菊次(社長)[4] ↓ 千葉公義(社長)[2] ↓ 西谷理[1] |
資本金 |
50万円[4] ↓ 1億6000万円[3][1] |
売上高 |
16億円 (1967年(昭和42年))[2] ↓ 約116億4600万円 (1983年(昭和58年)2月期)[3] ↓ 約54億円 (1994年(平成元年)2月期)[5] |
従業員数 |
344[6] ↓ 260[4] ↓ 311[2] ↓ 227[1] |
決算期 | 2月・8月[4] |
主要子会社 | 丸新友の会サービス[1]、丸新運送株式会社[1]、株式会社丸新エアサービス[1]、株式会社丸新ハウジング[1]、株式会社ニュー徳島[1] |
丸新百貨店 MARUSHIN | |
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店舗概要 | |
所在地 |
〒770-0916 徳島県徳島市東新町1-29[1] |
開業日 | 1934年(昭和9年)3月24日[7] |
閉業日 | 1995年(平成7年)3月22日[8] |
正式名称 | 丸新百貨店 |
施設所有者 | 株式会社丸新[4] |
設計者 | 大成建設[9] |
施工者 | 大成建設[9] |
敷地面積 | 2,252.652 m²[9] |
延床面積 |
6,030m2[6] ↓ 13,726.587 m²[9] |
商業施設面積 |
5,220m2[6] ↓ 4,552m2[2] ↓ 7,898 m²[1] |
営業時間 | 9:30-18:00[2] |
最寄駅 | 徳島駅 |
MARUSHIN |
丸新百貨店(まるしんひゃっかてん)は、徳島県徳島市東新町にあり[1]、徳島そごうの開業前は徳島の地域一番店となっていた百貨店[5]。
歴史・概要
[編集]1934年(昭和9年)3月24日に東新町商店街に徳島市内の卸売業者26店による「観商場」形式の新町百貨店として開業したのが始まりである[7]。 建物は木造3階建で、1階が各種商品売り場で、2階が呉服売り場と食堂、3階が遊技場などとなっていた[7]。
1935年(昭和10年)9月20日に「株式会社丸新」を設立し[1]、同年10月5日に「丸新百貨店」として新装開店した[10]。
同年11月に隣接する「広田呉服店」跡に「一楽屋呉服店」が鉄筋コンクリート造4階建ての「一楽屋百貨店」を開設し、当店と共に隆盛を誇った[11]。
西隣に[7]1938年(昭和13年)9月30日に鉄筋コンクリート造・地下1階地上5階建て・塔屋付きの建物を新設し[12]、売場面積を5,220m2とした[6]。 この新館は全館冷暖房で、客用と貨物用のエレベーターが各々1基設置され、ショーウィンドウは路面用2か所のほか踊り場用が4か所設けられ、約200席の一般食堂と約50席の特別食堂、約30席の喫茶店などが配されていた[6]。
1939年(昭和14年)1月に百貨店法の規制により、営業時間を18時までに短縮した[13]。
1943年(昭和18年)4月14日に3階・4階・5階を徳島貯金支局に供出し、1945年(昭和20年)7月4日の徳島大空襲まで業務が行われた[14]。 また、1943年(昭和18年)4月に有価証券事業の免許を取得し[15]、同年5月に国債売捌所を開設した[16]。 また、同年12月には屋上に防空監視廠を設置した[16]。
しかし1945年(昭和20年)7月4日の徳島大空襲で丸新百貨店は全焼したが[17]、同年9月に仮店舗で営業を再開した[18]。幸い鉄筋コンクリート造りであったことから短期間で営業を再開することができた[19]。 しかし、1946年(昭和21年)7月から1947年(昭和22年)3月まで当店4階の売り場は占領軍向けの娯楽場・ダンスホールとして接収された[20]。 なお、接収が完全に解除されたのは、1950年(昭和25年)12月であった[21]。
また、1945年(昭和20年)11月10日に徳島郵便局丸新百貨店分室が開設されたが、翌年1946年(昭和21年)10月6日に廃止された[22]。 その他、徳島県の斡旋で同年7月1日から1949年(昭和24年)11月30日まで中華民国の「国際新聞社」に5階売り場の一部の賃貸も行った[23]。
1950年(昭和25年)から1953年(昭和28年)までアメリカ軍の中古衣類の売出しを行い、当時の衣料品不足から人気を集めた[24]。
1955年(昭和30年)12月31日に2,843.91m2から4,606.66m2への増築工事が完成し[25]、1956年(昭和31年)1月に新装開店した[26]。6階屋上にはミュージックサイレンが設置され、市民に時刻を知らせるようになった[27]。 そして、同年2月には「丸新友の会」を発足させ、得意客の組織化を図った[28]。
1957年(昭和32年)3月に全館冷暖房を導入した[29]。
1959年(昭和34年)2月に「丸新興業株式会社」を設立し[30]、同年4月に洋画封切り館として「テアトル丸新」を開設した[31]。
1962年(昭和37年)6月26日に5,526.35m2から6,507.37m2への増築工事が完成し[32]、同年7月に全国百貨店共同仕入機構(JMA)に加盟した[33]。
1963年(昭和38年)2月19日に食堂やレストランを運営する「株式会社ニュートクシマ」を設立し[34]、同年10月に「株式会社新栄ストアー」を設立して「徳島駅前名店街」2階で洋品雑貨の販売を開始した[1]。
1964年(昭和39年)4月に社内に航空サービス部を設置し、1966年(昭和41年)に12月に「丸新エアーサービス株式会社」に改組して、東亜国内航空の総代理店と旅行代理店を展開した[35]。
1966年(昭和41年)に増改築を行い、同年4月にそれまで5階にあった映画館の「テアトル丸新」を「徳島劇場」に移転して売り場を拡張した[1]。
1968年(昭和43年)5月に阿南出張所を開設した[36]。
1971年(昭和46年)6月18日にダイエー徳島店が開店したため[37]、地下2階地上6階一部7階建て・延べ床面積約7,843m2の新館を増築して1973年(昭和48年)10月10日に売場面積を約10,635m2と[38]約2倍に増床することでダイエーとの競合に対処した[39]。 また、同日には徳島市南末広町に鉄骨造4階建て約4,600m2の商品センターを開設し[40]、この間の同年4月に「テアトル丸新」跡地に事務館を開設した[41]。 同年2月に全日本デパートメントストアーズ開発機構(ADO)に加盟した[42]。
大型店の出店競争により徳島市の商店街の売上高が徳島県全体での占有率は1974年(昭和49年)には約48.4%まで拡大した[43]。 しかし、徳島市の商店街の売上高が徳島県全体での占有率は1976年(昭和51年)には約47.1%と減少に転じ[43]、駐車場不足の新町商店街の流入客数は「徳島そごう」開業前の1982年(昭和57年)には1974年(昭和49年)と比べて約半減(平日約44.3%減・日曜日約50.4%減)と駐車場を備えた郊外型大型店の影響を受けて地盤沈下が進んでしまった[44]。 その為、当店前の歩行者数も1982年(昭和57年)には1974年(昭和49年)と比べて日曜日約44.6%減・平日約33.9%減と大きく減少することになった[44]。
1977年(昭和52年)7月に新町地区商店街パーキングサービス事業に参画し[45]、1978年(昭和53年)12月に「丸新ひまわりカード」の発行を開始した[46]。
徳島西地区再開発ビルに当社とそごうが共同出資で設立する「丸新そごう」を出店する構想が進んでいたが、1979年(昭和54年)7月に徳島市が当社40%・そごう60%で商標も「そごう」を使用するとの案を出したことから、長年の営業で築いた営業基盤と安定した黒字経営の地場資本の既存店として承服できないと拒絶した[47]。
1983年(昭和58年)10月1日に国鉄(現在:JR)徳島駅前に当時四国最大の百貨店として「徳島そごう)」が店舗面積約19,500m2で開業したが[48]、同店は専門店街や約670台収容の大規模な駐車場を併設したワンストップショッピングを可能な複合施設として開業当初から計画を上回る売上を上げた[49]。
同店の進出に対抗して全面リニューアルや外商強化などの対抗策を売ったものの、開業直前の1983年(昭和58年)2月期には約116億4600万円あった売上高は、1983年(昭和58年)2月期には約105億5500万円へ落ち込むことになった[3]。
また、当店のあった新町地区の徳島市内の小売売上高に対する占有率も1982年(昭和57年)までは約20~約25%と約13~約17%の駅前地区を上回っていたが、徳島そごう開業後の1985年(昭和60年)には約14%まで落ち込んで駅前地区の約17%と逆転され、1988年(昭和63年)には約12%まで落ち込んで駅前地区の約23%と差が開く一方となり、開業から10年後には売上が半減した店舗が続出する事態に陥った[50]。
1989年(平成元年)5月に西武百貨店と資本提携て[51]、同年夏に当社と西武百貨店は「新町ペンタゴン地区市街地再開発準備組合」や徳島市と共に再開発事業での協力についての覚書を締結し[52]、同地区の再開発ビルの各店舗として店舗面積約30,000m2の大型店の出店を目指した[51]。
しかし、その後も売上の低迷は続いて1994年(平成6年)2月期には売上高が約54億円と最盛期の半分以下に落ち込み[5]、同年6月10日にリニューアルオープンしたが、[要出典]1995年(平成7年)3月22日に閉店して61年の歴史に幕を下ろした[8]。
店舗跡のうち新館を阿波銀行が取得して[53]1997年(平成9年)2月に「阿波銀プラザ」などが入る阿波銀行新町ビルとして新装開館したが[54]、2018年(平成30年)3月から建て替えのため解体されることになった[53]。 2019年(令和元年)12月16日に阿波銀行本店営業部になった[55]。
かつて存在した支店
[編集]- 徳島陸軍病院出張所(徳島市蔵本町)
- 阿南出張所(阿南市西石塚20-5[56]、1968年(昭和43年)5月開設[36])
- 徳島市役所売店(1974年(昭和49年)4月開設[42])
- 脇町店(美馬郡脇町猪尻西分3-3[57][56]、1982年(昭和57年)5月30日[56])
過去に存在した関連会社
[編集]- 丸新運送株式会社(徳島市南末広町2-8-17[59]、1962年(昭和37年)3月28日設立[59]、資本金300万円[59]、陸上貨物運送[59])
- 株式会社ニュー徳島(徳島市東新町1-29[59]、1963年(昭和38年)2月19日設立[59]、資本金300万円[59]、料理・喫茶・飲食・旅館・食品製造・土産物製造販売[59])
- 丸新エアーサービス株式会社(徳島市東新町1-29[60]、1966年(昭和41年)12月28日設立[60]、資本金5000万円[60]、航空代理店・保険代理店[60])
- 丸新友の会サービス株式会社(徳島市東新町1-29[60]、1973年(昭和48年)3月10日設立[60]、資本金300万円[60]、割賦販売法による前払式特定取引業[60])
- 株式会社丸新ハウジング(徳島市東新町1-29[60]、1973年(昭和48年)7月24日設立[60]、資本金300万円[60]、家具販売・内装工事[60])
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『全国繊維企業要覧 1990 西日本篇』 信用交換所大阪本社、1989年9月20日。pp1980
- ^ a b c d e f g 『デパート・ニューズ調査年鑑 1969年度版』 デパートニューズ社、1969年。pp311
- ^ a b c d 『四国の中堅100社』 日本経済新聞社、1985年5月24日。 pp38-39
- ^ a b c d e 百貨店年鑑 昭和16・17年度, 日本百貨店通信社, (1941-1-25), pp. 135
- ^ a b c “交差点 ひと 粟飯原一平・東船場商店街振興組合理事長(徳島県)”. 日経地域情報 1995年3月3日号 (日経産業消費研究所) (1995年3月3日).pp29
- ^ a b c d e 『日本百貨店総覧 昭和14年版』 百貨店新聞社、1939年5月8日。 pp465
- ^ a b c d 『帰らざるふるさと・徳島』 株式会社出版、1972年10月1日。 pp182
- ^ a b 松茂町誌編さん委員会 『松茂町誌 続編 第2巻』 松茂町誌編さん室、2001年8月1日。 pp692
- ^ a b c d 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp172
- ^ “內外の業界”. 日本百貨店組合調査彙報 第3年 第10号 (日本百貨店組合) (1935年10月).pp93
- ^ 徳島市史編さん室 『徳島市史 第3巻 産業経済編・交通通信編』 徳島市教育委員会、1983年3月31日。 pp390-391
- ^ 『日本百貨店総覧 昭和14年版』 百貨店新聞社、1939年5月8日。 pp462-463
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp54
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp63
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp248
- ^ a b 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp249
- ^ 『徳島県教育委員会二十年史』 徳島市教育委員会、1968年11月1日。 pp1
- ^ 『日本繊維商社銘鑑 1970年版』 東京信用交換所、1969年10月1日。pp1785
- ^ “徳島の20世紀(12)東新町の100年”. おはようとくしま. 四国放送 (2000年3月31日). 2013年8月6日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp250
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp253
- ^ 『徳島県商工要覧 1957年版』 徳島県商工水産林務部商工課、1957年3月31日。pp191
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp81
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp86
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp111-112
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp119
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp121
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp123
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp258
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp259
- ^ 『徳島年鑑 昭和35年版』 徳島新聞社、1960年3月30日。pp317
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp136
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp261
- ^ 『十年の歩み』 徳島商工会議所、1977年4月3日。 pp295
- ^ 松茂町誌編さん委員会 『松茂町誌 続編』 松茂町誌編さん室、1987年3月31日。 pp184
- ^ a b 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp264
- ^ 『徳島年鑑 1976年版』 徳島新聞社、1976年6月30日。pp485
- ^ 『徳島年鑑 1974年版』 徳島新聞社、1974年7月31日。 pp96
- ^ 『全国取材 大型店対策を現地に探る』 誠文堂新光社、1978年9月22日。 pp350
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp186
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp185
- ^ a b 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp267
- ^ a b 『全国取材 大型店対策を現地に探る』 誠文堂新光社、1978年9月22日。 pp351
- ^ a b 『徳島年鑑 1983年版』 徳島新聞社、1983年6月15日。 pp97
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp269
- ^ 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp270
- ^ “地方経済動向”. 月刊経済 1979年7年号 (月刊経済社) (1979年7月1日).pp96
- ^ “四国商圏の席巻狙う「そごう」の威勢 一〇月一日徳島そごうオープンの意味”. 総合食品 1983年11月号 (総合食品研究所) (1983年11月).pp112
- ^ 三浦智彦 “特別レポート 百貨店業界の常識を無視した多店舗化に不安はないのか 吉と出るか!?二〇〇〇億円の大バクチ打つ"そごう"”. 総合食品 1984年1月号 (総合食品研究所) (1984年1月).pp142
- ^ “日本のSC 徳島クレメントプラザ(徳島市)”. ショッピングセンター 1993年7月号 (日本ショッピングセンター協会) (1993年7月1日).pp14
- ^ a b “徳島市新町再開発で開発事業者を公募”. 日経地域情報 1990年9月3日号 (日経産業消費研究所) (1990年9月3日).pp29
- ^ “(事例)3 徳島市”. 日経地域情報 創刊100号記念調査 1990年5月21日号 (日経産業消費研究所) (1990年5月21日).pp6
- ^ a b “阿波銀が東新町に新ビル 完成後、本店営業部を移転”. 徳島新聞(徳島新聞社). (2016年10月6日)
- ^ 庄野邦彦 “ちぎんレポート 「質の高いサービスを提供する地域密着総合金融サービス業」として、お客さま、株主、地域社会から信頼される銀行をめざす”. 信用保険月報 2000年3月号 (中小企業総合研究機構) (2000年3月1日).pp19
- ^ 福家司(2016年12月17日). “東新町に阿波銀行の新拠点がオープン”. 朝日新聞(朝日新聞社).
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp200
- ^ 『徳島県事業所名鑑』 総務庁統計局、1985年8月。pp191
- ^ 松茂町誌編さん委員会 『松茂町誌 続編 第2巻』 松茂町誌編さん室、2001年8月1日。 pp164
- ^ a b c d e f g h 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp209
- ^ a b c d e f g h i j k l 『丸新五十年史』 丸新、1984年8月31日。 pp208
関連項目
[編集]- そごう徳島店:2020年8月に閉店。
- 徳島駅前再開発ビルアミコビル
- まるしんクリエイト - 後身会社で徳島阿波おどり空港で売店を運営。ロゴマークは丸新百貨店当時のものを使用。