中川弘
中川 弘 なかがわ ひろむ | |
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生年月日 | 1911年2月20日 |
出生地 | 広島県沼隈郡神島村(現・福山市) |
没年月日 | 2011年3月14日(100歳没) |
出身校 | 広島県立福山誠之館中学校 |
所属政党 |
(自由民主党[1]→) 無所属 |
称号 |
藍綬褒章 勲三等旭日中綬章 従四位 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1979年8月26日 - 1983年8月25日 |
選挙区 | 福山市・沼隈郡選挙区 |
当選回数 | 8回 |
在任期間 | 1951年4月30日 - 1979年 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1947年4月 - 1951年 |
中川 弘(なかがわ ひろむ、1911年(明治44年)2月20日[2] - 2011年3月14日)は、日本の政治家。第9代福山市長(1期)。
人物
[編集]広島県沼隈郡神島村(現福山市)出身。1928年(昭和3年)3月、広島県立福山誠之館中学校(現広島県立福山誠之館高等学校)を卒業。蚕糸、削鰹製造業にたずさわる。1940年(昭和15年)3月、中国に渡り天津市で藁工品製造業を営んだ。1945年(昭和20年)、現地応召[3]。
1946年(昭和21年)6月、引き揚げ。公職追放を受けていた元衆議院議員の宮澤裕[4]の薫陶を受けて政治に関与するようになる[3]。
1947年(昭和22年)4月、福山市議会議員に初当選。1951年(昭和26年)4月には広島県議会議員となり、以来1979年(昭和54年)まで連続8回当選を重ねた[3]。
1979年(昭和54年)7月28日、立石定夫福山市長が次期衆院選に出馬するため辞職(衆議院は同年9月7日に解散した)。その直後の7月30日、中川は市長選への立候補を表明。引揚者団体の福山更生会、広島県遺族会、実践倫理宏正会などの支援を受け、8月26日に行われた市長選で初当選した。投票率は46.48%と前回をわずかに上回った[5]。
1980年(昭和55年)12月、市議の土屋陽光を助役に起用。1981年(昭和56年)9月に第一助役の藤井守が退職したのちも、土屋を高く評価する中川は「二人も要らない」と、後任を置かなかった。土屋の懐刀と言われた職員が逮捕され、1982年(昭和57年)12月25日には土屋自身も収賄と入札妨害容疑で逮捕される[6]。
1983年(昭和58年)8月21日、汚職事件で混乱した市政の建て直しと財政再建(1981年度の経済収支比率は94.8%にのぼった[7])が課題として争われた市長選が実施される。2期目を目指すも、楽器製造会社役員の牧本幹男に2万6千票の大差で敗れた[8]。
2011年(平成23年)3月14日死去、100歳[3]。死没日をもって従四位に叙される[9]。
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ 政治情報ライブラリ 広島県議会議員選挙結果:福山市選挙区
- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、348頁。
- ^ a b c d 誠之館人物誌 「中川弘」 福山市議会議員、広島県議会議員、福山市長(第9代)
- ^ 誠之館人物誌 「宮沢裕」 衆議院議員
- ^ 「読売新聞」1979年8月28日。『福山市史 近代現代資料編Ⅰ 政治・行財政』に転載。
- ^ 「朝日新聞」1982年12月26日。『福山市史 近代現代資料編Ⅰ 政治・行財政』に転載。
- ^ 「中国新聞」1983年6月1日。『福山市史 近代現代資料編Ⅰ 政治・行財政』に転載。
- ^ 「朝日新聞」1983年8月23日。『福山市史 近代現代資料編Ⅰ 政治・行財政』に転載。
- ^ 『官報』第5539号8頁 平成23年4月19日号
参考文献
[編集]- 『福山市史 近代現代資料編Ⅰ 政治・行財政』 福山市、2013年3月29日。