一坂俊太郎
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一坂俊太郎 いちさか しゅんたろう | |
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生年月日 | 1856年7月6日 |
出生地 | 徳島県 |
没年月日 | 1922年2月4日(65歳没) |
前職 | 徳島市長 |
第6-9代 徳島市長 | |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1907年4月13日 - 1922年2月3日 |
一坂 俊太郎(いちさか しゅんたろう、1856年8月6日(安政3年7月6日[1]) - 1922年(大正11年)2月4日[2])は、日本の政治家(衆議院議員)。徳島市長。
経歴
[編集]1874年に初代徳島市長である井上高格らと共に自由民権運動を訴える「自助社」を結成。しかし自助社が出版した「通諭書」は過激な言葉で日本政府を批判していた為、俊太郎らは政府に捕らわれてしまう。
この事件を裁いた玉乃世履は、公判廷での俊太郎の熱弁に魅了され、俊太郎を自分の養子にする話を持ち出したが、養子にはならなかった。[3]
その後、京都府、内務省、逓信省で書記官などを務めた後、1907年に徳島市長に就任。4期に渡って市長を務めた。1912年に第11回衆議院議員総選挙に立憲政友会より出馬し当選した。
栄典
[編集]- 1885年(明治18年)10月8日 - 正七位[4]
- 1891年(明治24年)12月22日 - 従六位[5]
- 1894年(明治27年)2月28日 - 正六位[6]
- 1896年(明治29年)2月20日 - 従五位[7]
- 1903年(明治36年)12月26日 - 正五位[8]
脚注
[編集]- ^ 『第拾壱回改選 代議士銘鑑』、国華新聞社、1912年。
- ^ 参考文献『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』69頁。
- ^ 情報スパイス(中国新聞情報文化センター)
- ^ 『官報』第684号「叙任」1885年10月9日。
- ^ 『官報』第2546号「叙任及辞令」1891年12月23日。
- ^ 『官報』第3199号「叙任及辞令」1894年3月1日。
- ^ 『官報』第3791号「叙任及辞令」1896年2月21日。
- ^ 『官報』第6148号、「叙任及辞令」1903年12月28日。
参考文献
[編集]- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
公職 | ||
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先代 桑村猪平 |
徳島市長 第6-9代:1907 - 1922 |
次代 武市彰一 |