マーク・バルデス
AA級ビンガムトン時代 (2011年6月10日) | |
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | オハイオ州デイトン |
生年月日 | 1971年12月20日(53歳) |
身長 体重 |
6' 0" =約182.9 cm 200 lb =約90.7 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1993年 MLBドラフト1巡目 |
初出場 |
MLB / 1995年8月28日 NPB / 2002年3月31日 |
最終出場 |
MLB / 2001年6月22日 NPB / 2004年10月24日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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マーク・クリストファー・バルデス(Marc Christopher Valdes , 1971年12月20日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
[編集]MLB時代
[編集]1993年のMLBドラフト1巡目(全体の27番目)でフロリダ・マーリンズに指名され契約。1995年、メジャー初昇格。その後、モントリオール・エクスポズ、ヒューストン・アストロズ、アトランタ・ブレーブスと渡り歩く。
阪神時代
[編集]2002年1月28日に阪神タイガースと契約金、年俸それぞれ30万ドル(約4,000万円、推定)ずつで入団契約を結んだ[1]。背番号は18。新監督の星野仙一から制球力や変化球を評価され、成本年秀に代わる抑え投手として期待された[2]。シーズンに入るとクローザーとして活躍し、22セーブを挙げている[3]。オフの10月11日には残留が決まっていたが[4]、ジェフ・ウィリアムスの獲得を受けて解雇となった[5]。
中日時代
[編集]ウェイバー公示を受け、2002年11月15日に中日ドラゴンズが獲得を発表[6]。12月21日に年俸100万ドル(約1億2,000万円、推定)+出来高払いで契約している[7][8]。背番号は当初36に内定していた[8]が、程なくしてオリックス・ブルーウェーブから移籍した平井正史と交換する形で38に変更され、更に同年途中に中日に入団したオマール・リナレスと交換し、44に再度変更された[注釈 1]。
2003年は、メルビン・バンチの穴を埋める先発投手として活躍を期待されていた[9][10]。オープン戦で結果を残し[11][12][13]、先発ローテーション入り。開幕4戦目・4月1日のヤクルトスワローズ戦(ナゴヤドーム)で初登板したが、5回7失点で敗戦投手となった[14]。4月22日の古巣・阪神戦(ナゴヤドーム)[15]と27日のヤクルト戦(神宮球場)[16]では2試合連続でKOされ、マーチン・バルガスと入れ替わる形で二軍に降格した[17]。
7月4日に一軍昇格すると[18]、それ以降は中継ぎとして登板[19][20][18]。中継ぎ登板では防御率2点台と結果を残した[21]こと、バルデス本人が中日残留を熱望していた[18]ことにより、翌年も中日でプレーすることになった。オフには年俸70万ドル(約7,500万円)で契約を更改した[22]。
2004年は1月29日に来日[21]。本人は抑えでの登板を希望していた[21]が、3月23日のオープン戦・阪神戦(ナゴヤドーム)で右膝半月板を損傷したため[23]、開幕二軍スタートとなった。
復帰後は中継ぎとして登板[24]。8月1日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)では延長11回表に登板し無失点に抑える[25]と、11回裏に川相昌弘がサヨナラ適時打を放った[26]ため、移籍後初白星を挙げた[25]。
同年はチームの優勝に貢献。日本シリーズ第2戦(10月17日)で、中日の投手では初めてナゴヤドームでの日本シリーズの試合で勝利投手となったが、オフに退団。
中日退団後
[編集]2005年はニューヨーク・ヤンキース傘下の2A・トレントン・サンダーや3A・コロンバス・クリッパーズでプレーし、同年限りで現役引退。2007年からはコーチに転身し、2011年はニューヨーク・メッツ傘下の2A・ビンガムトン・メッツで投手コーチを務めている。
プレースタイル
[編集]球質の重い[27]ムービングファストボールと高速スライダー、低めへの制球力が持ち味だった[28]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1995 | FLA | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 49 | 7.0 | 17 | 1 | 9 | 0 | 1 | 2 | 1 | 0 | 13 | 11 | 14.14 | 3.71 |
1996 | 11 | 8 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 228 | 48.2 | 63 | 5 | 23 | 0 | 1 | 13 | 3 | 2 | 32 | 26 | 4.81 | 1.77 | |
1997 | MON | 48 | 7 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 2 | -- | .500 | 407 | 95.0 | 84 | 2 | 39 | 5 | 8 | 54 | 2 | 0 | 36 | 33 | 3.13 | 1.29 |
1998 | 20 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | 0 | -- | .250 | 169 | 36.1 | 41 | 6 | 21 | 2 | 1 | 28 | 4 | 0 | 34 | 30 | 7.43 | 1.71 | |
2000 | HOU | 53 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 5 | 2 | 0 | .500 | 264 | 56.2 | 69 | 3 | 25 | 1 | 5 | 35 | 1 | 0 | 41 | 32 | 5.08 | 1.66 |
2001 | ATL | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | 28 | 7.0 | 7 | 4 | 1 | 1 | 0 | 3 | 0 | 0 | 6 | 6 | 7.71 | 1.14 |
2002 | 阪神 | 42 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 22 | -- | .571 | 215 | 52.2 | 40 | 1 | 17 | 3 | 2 | 39 | 1 | 2 | 11 | 9 | 1.54 | 1.08 |
2003 | 中日 | 37 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | -- | .000 | 256 | 58.2 | 54 | 8 | 24 | 2 | 6 | 38 | 2 | 2 | 33 | 29 | 4.45 | 1.33 |
2004 | 30 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | -- | .500 | 114 | 25.2 | 28 | 2 | 8 | 1 | 4 | 17 | 0 | 0 | 12 | 10 | 3.51 | 1.40 | |
MLB:6年 | 144 | 22 | 0 | 0 | 0 | 12 | 15 | 4 | 0 | .444 | 1145 | 250.2 | 281 | 21 | 118 | 9 | 16 | 135 | 11 | 2 | 162 | 138 | 4.95 | 1.59 | |
NPB:3年 | 109 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5 | 7 | 24 | -- | .417 | 585 | 137.0 | 122 | 11 | 49 | 6 | 12 | 94 | 3 | 4 | 56 | 48 | 3.15 | 1.25 |
記録
[編集]- NPB投手記録
- 初登板・初セーブ:2002年3月31日、対読売ジャイアンツ2回戦(東京ドーム)、9回裏に6番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初奪三振:2002年4月4日、対横浜ベイスターズ3回戦(横浜スタジアム)、11回裏にマイク・グランから空振り三振
- 初勝利:2002年6月29日、対横浜ベイスターズ14回戦(阪神甲子園球場)、10回表に2番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初先発:2003年4月1日、対ヤクルトスワローズ1回戦(ナゴヤドーム)、5回7失点で敗戦投手
- NPB打撃記録
- 初安打:2002年8月4日、対ヤクルトスワローズ19回戦(阪神甲子園球場)、10回裏に五十嵐亮太から投手前安打
背番号
[編集]- 44 (1995年 - 1996年)
- 18 (1997年 - 1998年)
- 16 (2000年)
- 43 (2001年)
- 18 (2002年)
- 36 (2003年移籍当初)
- 38 (2003年当初)
- 44 (2003年 - 2004年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 移籍後初登板の2003年4月1日時点では背番号44を着用している。
出典
[編集]- ^ 毎日新聞、2002年1月29日付朝刊、P.23
- ^ 読売新聞、2002年1月26日付朝刊、
- ^ “バルデス D党に約束 2・1万全で行く”. 中日スポーツ (2002年12月31日). 2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ 読売新聞、2002年10月12日付朝刊、P.19
- ^ 読売新聞、2002年11月1日付朝刊、P.21
- ^ “バルデス入団 4本柱できた!”. 中日スポーツ (2002年11月16日). 2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ 読売新聞、2002年12月22日付朝刊、P.15
- ^ a b “バルデス 「先発構想望むところ」 年俸1億2千万プラス出来高”. 中日スポーツ (2002年12月22日). 2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ “バルデスは絶対ヤルデス 谷繁が太鼓判”. 中日スポーツ (2003年2月8日). 2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ 読売新聞、2003年3月22日付朝刊、P.20
- ^ “バルデス2回完全 先発へ前進”. 中日スポーツ (2003年2月26日). 2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ “バルデス先発いけるぞ3イニング1失点”. 中日スポーツ (2003年3月6日). 2004年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ “完ぺき開幕リハ バルデス”. 中日スポーツ (2003年3月12日). 2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2003年3月12日閲覧。
- ^ “投壊!! 開幕4試合32失点 2被弾7失点 バルデスもか…”. 中日スポーツ (2003年4月2日). 2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ “バルデス 背信KO”. 中日スポーツ (2003年4月23日). 2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ “背信バルデス降格濃厚”. 中日スポーツ (2003年4月28日). 2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ “竜 先発再編 150キロ バルガス昇格”. 中日スポーツ (2003年4月28日). 2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ a b c “バルデス「来季はリリーフで」 残留熱望”. 中日スポーツ (2003年9月21日). 2004年11月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ “竜 執念8人継投 最後は悪夢 ベンチが、監督が、放心”. 中日スポーツ (2003年7月7日). 2004年12月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ “中継ぎ&抑え万全 バルデス→落合→山北→岩瀬→大塚 無失点リレー”. 中日スポーツ (2003年7月22日). 2004年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ a b c “バルデス 俺にも資格アリ 新守護神に名乗り”. 中日スポーツ (2004年1月30日). 2004年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ 読売新聞、2003年10月30日付朝刊、P.21
- ^ “バルデス長期離脱必至 右ひざ半月板損傷”. 中日スポーツ (2004年3月26日). 2004年12月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ ““魔の7回さらば” ドラ最強リレーだ! 岡本-岩瀬-バルデス-落合英”. 中日スポーツ (2004年6月5日). 2004年12月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ a b “中日、執念の継投 朝倉、中継ぎで復活”. 中日スポーツ (2004年8月2日). 2004年12月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ “最後の野手・川相、延長11回サヨナラ打 オレしかいない!! 一振りで連敗止めた”. 中日スポーツ (2004年8月2日). 2004年12月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月19日閲覧。
- ^ 毎日新聞、2002年3月22日付朝刊、P.15
- ^ 読売新聞、2002年3月20日付大阪版夕刊、P.15