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ポンス (トゥールーズ伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポンス
Pons
トゥールーズ伯
在位 1037年 - 1060年

出生 1019年
死去 1060年
トゥールーズ
埋葬 トゥールーズサン・セルナン教会英語版
配偶者 マージョリー
  アルモディス・ド・ラ・マルシュ
子女 ポンス
ギヨーム4世
レーモン4世
ユーグ
アルモディス
家名 トゥールーズ家
父親 トゥールーズ伯ギヨーム3世
母親 エマ・ド・プロヴァンス
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ポンス(2世)・ギヨームフランス語:Pons (II) Guillaume, 1019年 - 1060年[1]は、トゥールーズ伯(在位:1037年 - 1060年)。トゥールーズ伯ギヨーム3世エマ・ド・プロヴァンスの長男[2]。母方よりプロヴァンス辺境伯領を継承した。多くの完全私有地(allodium)を保持していたことで知られ、ローマ法サリカ法および西ゴート法に信を置いていた。

生涯

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すでに1030年に、ポンスはアルビジョワにおいて大きな権力を保持していた。1037年、ポンスは多くの私有教会や、ポルタ・スピナ、ニームおよびプロヴァンスにある半分の城などを結婚祝いとして妃マージョリーに与えた。

1038年、ポンスはアルビ教区をトレンカヴェル家との間で分割した。1040年、ディアンの領地をクリュニー修道院に寄贈した。1047年に、クリュニー修道院にモワサックを寄贈した特許状において、ポンスは初めて宮中伯として言及されている。

ポンスは1060年か1061年初めにトゥールーズで死去し、サン・セルナン教会英語版に埋葬された。

結婚と子女

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1022年に、マージョリー(1044年没)と結婚し[3]、以下の息子をもうけた。

  • ポンス(1063年没) - 伯位を継承せず

1040年に、ユーグ5世・ド・リュジニャンの妃であったアルモディス・ド・ラ・マルシュと結婚し、以下の子女をもうけた。しかし、ポンスも1053年にアルモディスを離婚した。

  • ギヨーム4世(1040年頃 - 1094年) - トゥールーズ伯(1061年 - 1094年)
  • レーモン4世(1052年頃 - 1105年)[4] - トゥールーズ伯(1094年 - 1105年)
  • ユーグ - サン=ジル修道院長
  • アルモディス - メルグイユ伯ピエールと結婚

脚注

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  1. ^ レーモン・ポンスが"ポンス1世"といわれる。ラテン語でPontiusまたはPoncius、スペイン語でPonceと綴られる。
  2. ^ Graham-Leigh 2005, p. table 9.
  3. ^ Graham-Leigh 2005, p. table 2.
  4. ^ Sweetenham 2011, p. 391.

参考文献

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  • Graham-Leigh, Elaine (2005). The Southern French Nobility and the Albigensian Crusade. The Boydell Press 
  • Lewis, Archibald R. (1965). The Development of Southern French and Catalan Society, 718 - 1050. Austin: University of Texas Press 
  • Sweetenham, Carol, ed (2011). The Chanson D'Antioche: An Old French Account of the First Crusade. transl. Susan Edgington. Routledge 
先代
ギヨーム3世
トゥールーズ伯thum
1037年 - 1060年
次代
ギヨーム4世