ヘルマン (ブランデンブルク辺境伯)
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ヘルマン長身伯 Hermann der Lange | |
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ブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯 | |
在位 | 1298年 - 1308年 |
出生 |
1275年ごろ |
死去 |
1308年2月1日 神聖ローマ帝国 メクレンブルク公領、リューブ |
埋葬 |
神聖ローマ帝国 ブランデンブルク辺境伯領、レーニン修道院 |
配偶者 | アンナ・フォン・エスターライヒ |
子女 |
アグネス マティルデ ユッタ(ユーディト) ヨハン5世 |
家名 | アスカニア家 |
父親 | ブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯オットー5世 |
母親 | ユーディト・フォン・ヘンネベルク |
宗教 | キリスト教カトリック |
ヘルマン長身伯(ドイツ語:Hermann der Lange, 1275年ごろ - 1308年2月1日)は、ブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯(在位:1298年 - 1308年)。
生涯
[編集]ヘルマンはブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯オットー5世とユーディト・フォン・ヘンネベルク(ヘンネベルク伯ヘルマン1世の娘)の間の息子である。1298年に父オットー5世が死去し辺境伯位を継承し、父の従兄弟ブランデンブルク=シュテンダル辺境伯オットー4世とともにブランデンブルクを支配した。1301年にピャスト家のヤヴォル公ボルコ1世スロヴィが死去した後、ボルコ1世の子供たちの後見人となった(ボルコ1世の妃ベアトリクスはヘルマンの姉)。
1308年、ブランデンブルクとメクレンブルク公との間で戦争が勃発した(北ドイツ辺境伯戦争)。ヘルマンとオットー4世はメクレンブルクに侵攻したが、ヘルマンはリューブの包囲戦の際に戦死した。ヘルマンはレーニン修道院に埋葬された。
結婚と子女
[編集]1295年、ヘルマンはローマ王アルブレヒト1世の娘アンナと結婚し、以下の子女をもうけた。
- アグネス(1297年頃 - 1334年) - 1309年にブランデンブルク辺境伯ヴァルデマールと結婚、1319年にブラウンシュヴァイク=ゲッティンゲン公オットーと結婚
- マティルデ(1323年没) - 1310年にグウォグフ公ヘンリク4世ヴィエルヌィと結婚
- ユッタ(ユーディト)(1301年 - 1353年) - 1318年にヘンネベルク伯ハインリヒ8世と結婚
- ヨハン5世(1302年 - 1317年) - ブランデンブルク辺境伯(1308年 - 1317年)
参考文献
[編集]- Otto von Heinemann (1880), "Hermann (Markgraf von Brandenburg)", Allgemeine Deutsche Biographie (ADB) (in German), 12, Leipzig: Duncker & Humblot, pp. 123–124
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