オットー5世 (ブランデンブルク辺境伯)
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オットー5世 Otto V. | |
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ブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯 | |
在位 | 1267年 - 1298年 |
出生 |
1246年ごろ |
死去 |
1298年 |
配偶者 | ユーディト・フォン・ヘンネベルク=コーブルク |
子女 | 本文参照 |
家名 | アスカニア家 |
父親 | ブランデンブルク辺境伯オットー3世 |
母親 | ベアトリクス・フォン・ベーメン |
オットー5世(ドイツ語:Otto V., 1246年ごろ - 1298年)は、ブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯(在位:1267年 - 1298年)。ブランデンブルク辺境伯オットー3世の息子。長身伯(der Lange)と呼ばれる。
生涯
[編集]オットー5世は、プラハの母方の伯父ボヘミア王オタカル2世の宮廷で長年暮らしていた。1278年にオタカル2世が戦死した時、オットー5世はオタカル2世の息子で王位を継承したヴァーツラフ2世の摂政となった。ヴァーツラフ2世はオタカル2世が死去した時わずか7歳であった。摂政として、オットー5世はオタカル2世の未亡人クンフタ・ウヘルスカーの陰謀や有力貴族の派閥争いに対処せねばならなかった。ボヘミアの年代記作者らは、オットーの一貫した厳密さとヴァーツラフ2世が親政を始める前に上ラウジッツに対する主張を放棄せざるを得なかったことを伝えている。ヴァーツラフ2世が権力を引き継いだ時、オットーとは依然として良好な関係であり、ヴァーツラフ2世は母親の周辺グループからの強い影響力に対し対策を講じた。
オットー5世はまた、ポメラニアに対する権利をポーランドの反訴に対抗して一貫して主張した。
結婚と子女
[編集]ヘンネベルク伯ヘルマン1世の娘ユーディトと結婚し、以下の子女をもうけた。
- ベアトリクス(1270年頃 - 1316年頃) - 1284年にシフィドニツァ公ボルコ1世スロヴィと結婚
- マティルデ(1270年頃 - 1298年6月1日以前) - ポーランド大公ヘンリク4世と結婚
- ヘルマン(1275年頃 - 1308年) - ブランデンブルク=ザルツヴェーデル辺境伯
- オットー(1307年没)
- クニグンデ(1317年没) - 未婚
- ユーディト(ユッタ、1328年5月9日没) - 1303年にザクセン=ヴィッテンベルク公ルドルフ1世と結婚
- アルブレヒト(1283年以前 - 1296年頃)
参考文献
[編集]- Otto von Heinemann (1887), "Otto V. (Markgraf von Brandenburg)", Allgemeine Deutsche Biographie (ADB) (in German), vol. 24, Leipzig: Duncker & Humblot, p. 663
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