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プリモゲ (軽巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
プリモゲ
プリモゲ、1940年撮影。
プリモゲ、1940年撮影。
基本情報
建造所 ブレスト工廠
運用者  フランス海軍
艦種 軽巡洋艦
級名 デュゲイ・トルーアン級
艦歴
起工 1923年8月16日
進水 1924年5月21日
竣工 1926年9月1日
最期 1942年11月8日カサブランカで攻撃を受け大破擱座し放棄
要目
基準排水量 7,249 トン
長さ 181.6 m
17.2 m
速力 33ノット
兵装 55口径15.5cm連装砲4基
3連装魚雷発射管4基
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プリモゲ (Primauguet) はフランス海軍軽巡洋艦[注釈 1]デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦の3番艦[2][注釈 2]第一次世界大戦後にブレスト工廠で建造された[注釈 3]。 艦名は、Battle of Saint-Mathieuで戦死したフランス海軍のHervé de Portzmoguerのあだ名[5]。1934年6月5日東郷元帥国葬に参列した[6]第二次世界大戦でフランスが破れ、ヴィシー政権が成立すると、ヴィシー軍(休戦軍)に所属した[7]。1942年11月8日、トーチ作戦に伴いカサブランカに来襲した連合国軍の艦隊と交戦し[注釈 4]、擱坐したのち放棄された[8]カサブランカ沖海戦)。

艦歴

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戦間期

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第一次世界大戦後、フランス海軍オマハ級軽巡洋艦アメリカ海軍)を意識しつつ建造した巡洋艦が、デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦である[8]。 3隻が計画され、2隻(デュゲイ・トルーアン、プリモゲ)がブレスト工廠で、1隻がロリアン海軍工廠で建造された[8][注釈 5]。 「プリモゲ」は1923年(大正12年)8月16日に起工[7]。1924年(大正13年)5月21日に進水[7]。1926年(大正15年)9月1日に竣工した[7]

「プリモゲ」は東まわりで世界一周の航海に出た[注釈 6]。 1927年(昭和2年)9月30日、フランス極東艦隊旗艦(ジャン・ジャック・ストック少将)プリモゲは[11]大日本帝国横浜港に入港した[12]。 10月6日、フランス海軍の装甲巡洋艦「ジュール・ミシュレ (Jules Michelet) 」も横浜に入港し[13]、ストック少将は将旗を「プリモゲ」から「ジュール・ミシュレ」に移した[14]。 同6日、フランス大使とプリモゲの将校2名が乗用車でドライブ中、鎌倉市で暴漢二人に襲われ、士官が負傷した[注釈 7]。 10月7日、「プリモゲ」は横浜を出発する[16]。10月17日、ハワイ島に到着した[17]ホノルルに滞在したあと、サンフランシスコにむかった[18]

1933年(昭和8年)4月から8月にかけて、「プリモゲ」は日本の長崎、神戸、敦賀など各地を訪問する[19]。門司では出港直後に民間船と衝突して相手を沈没させたが、日本人5名を救助せずに別府に向かうなど、小事故や事件の多い訪日であった[20]

1934年(昭和9年)5月30日日本海軍東郷平八郎元帥が死去し[21]6月5日国葬がおこなわれる[22]。列強各国はアジア方面に配置していた巡洋艦と、艦隊司令官(司令長官)を大日本帝国に派遣することにした[23][24]イギリスは重巡「サフォーク (HMS Suffolk, 55) 」、アメリカ合衆国は重巡「オーガスタ (USS Augusta, CA-31) 」、イタリア王国は巡洋艦「クアルト (Esploratore Quarto) 」、中華民国巡洋艦寧海」を派遣する[6][注釈 8]。フランスが派遣したのが、本艦だった[26]。 6月4日、極東艦隊の「プリモゲ」は横浜港に入港[注釈 9]5日東郷平八郎元帥国葬に参列し[28]、日本艦や招待艦などと共に半旗を掲げ弔砲を発射した[注釈 10]。国葬後の6日、横須賀鎮守府司令長官永野修身大将(接伴委員長)は、各国司令長官や将星をホテルニューグランドでの午餐会に招待した[注釈 11]。 6月21日、極東艦隊司令長官のリシャール少将と、艦隊参謀長兼プリモゲ艦長のルルー大佐は、昭和天皇に拝謁した[注釈 12]。そしてリシャール少将は勲二等瑞宝章、ルルー大佐は勲三等瑞宝章の叙勲を受けた[32]。その後、「プリモゲ」は神戸、宮島、別府を経由して日本を離れる[27]。間もなく機関修理とタービン検査のため再来日し、三菱重工業長崎造船所に入渠することになった[33]。8月31日[34]から10月16日[35]まで長崎滞在、10月18日[36]から29日[37]まで横浜に寄港した[27]

1935年(昭和10年)8月上旬から10月末にかけて、「プリモゲ」は日本列島の各地に立ち寄った[38][注釈 13]10月14日[45]、「プリモゲ」は横浜港に入港する[46]。同14日、フィリピン大統領就任式およびフィリピン連邦始政式[47]に参加するため陸軍長官などを乗せて太平洋を横断してきたアメリカ海軍の重巡「チェスター (USS Chester, CA-27) 」も、横浜に到着した[46]15日ダーン合衆国陸軍長官と、フランス極東艦隊司令長官は[48]昭和天皇に拝謁した[49][注釈 14]10月16日、イギリス海軍の重巡「ドーセットシャー (HMS Dorsetshire, 40) 」が横浜港に到着する[46]。横浜に、外国艦艇の乗組員があふれることになった[注釈 15]。10月28日、日本海軍の軽巡「木曾」が礼砲を発射したが、天候不良のためか「プリモゲ」は答礼しなかった[52]

「プリモゲ」は1937年9月7日にブレストより出航し、タンジェを経て9月14日にトゥーロン[53]。復水器の不具合のため同地で入渠した後、10月4日に出航し、ビゼルトポートサイドスエズジブチアデンコロンボペナンを経由して[53]、11月16日にシンガポールへ入港した[54]。11月21日、サイゴンに着いた[53][55]。12月、Cap Saint-Jacquesカムランを経て上海へ移動[56]。1938年3月14日まで「プリモゲ」は上海にとどまり、それからChusan Archipelagoに赴いた[56]。そのあとは上海に戻り、4月23日まで同地にあった[56]。上海から出航すると、「プリモゲ」はChefoo、Chin-Wang-Tao、呉淞と訪れ、5月8日に上海に戻った[56]。5月18日に「プリモゲ」は出航し、Chusan Archipelagoで姉妹艦「ラモット・ピケ」と会ったあと香港へ向かった[56]。香港では整備を行い、カムラン泊地を経て6月3日にサイゴン着[56]。6月中旬から7月初めにかけて「プリモゲ」はカムラン、トゥーラン、Along Bay、Norway Islands、トンキン、ハイフォン、Vanfong Bayを訪れた[56]。しばらくサイゴンに滞在した後、Fort-Bayardを経て7月31日にAlong Bayで「ラモット・ピケ」と会い訓練を実施[57]。それから香港、上海、マニラと訪れ、サイゴンに戻った[56]。10月は初めはサイゴンにあり、その後は香港に滞在[56]。トゥーランとカムランを経て11月4日にサイゴンに戻った[56]。11月下旬からはFort-Bayard、ハイフォンと訪れ、Along Bayで「ラモット・ピケ」と会い、La Noix、Lan-Ha Bay、香港を訪れた[56]。その後はしばらく上海に滞在し、1939年1月19日に同地を出発した[注釈 16]。1月24日、サイゴン着[56]

1939年1月30日、「プリモゲ」は近東のフランス権益保護に向かう[56]。途中コロンボに寄港し[56]、2月14日にジブチ着[58]。マスカリ島等の監視を行った[56]。また、3月8-9日には通報艦「D'Iberville」、潜水艦「Morse」、「Souffleur」と訓練を行い、4月初めにはイランの皇太子を乗せた汽船「Mohamed Ali el Kebir」の護衛を行っている[56]。4月25日に「プリモゲ」はジブチを離れ、コロンボを経由し、シンガポールで入渠して5月20日にサイゴンに着いた[56]

6月、「プリモゲ」はニャチャン、カムラン、Port-Dayot、厦門、上海を訪れた[56]。6月15日、フランス潜水艦「フェニックス (Phénix) 」が演習中にカムラン湾で消息不明となると、「ラモット・ピケ」と「プリモゲ」はその捜索を行った[注釈 17]

7月28日、「プリモゲ」は巡洋艦「シュフラン」と交代となり、フランス本国へ向けて出発[60]。コロンボ、ディエゴ・スアレスケープタウンタコラディフリータウンを経て9月14日にダカール[61]。この間に第二次世界大戦が勃発した。

第二次世界大戦

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「プリモゲ」はダカールで入渠後、船団護衛やドイツ商船捜索に従事した[62]。10月13日に「プリモゲ」はダカールより出航し、巡洋艦「デュゲイ・トルーアン」と共にリュフィスク湾で訓練を実施[62]。その際、「プリモゲ」ではボイラー室で蒸気漏れが発生し、5名が死亡した[62]。ダカールへ戻り、それから道中船団を護衛して10月28日にロリアン[62]。同地で1940年2月5日まで整備改修が行われた[62]

1940年2月、「プリモゲ」はキブロン湾で訓練を実施[62]。3月2日にロリアンより出航し、ブレストカサブランカを経て3月7日にオラン[62]。同地より巡洋艦「ラ・ガリソニエール」とともにモロッコ小銃兵をマルセイユへ運び、それから「プリモゲ」はトゥーロンへ向かった[62]。3月10日に戦艦「ブルターニュ」、巡洋艦「アルジェリー」などと共に出航してオランへ向かい、到着後「プリモゲ」はカサブランカへ向かって3月13日に着いた[62]。3月後半は中立国商船の監視を行った[62]

4月1日、「プリモゲ」は巡洋艦「ジャンヌ・ダルク」と交代するためカサブランカよりマルティニークへ向け出航[62]。途中、3日にノルウェーのタンカー「Protée」を拿捕し、4月10日にフォール=ド=フランスに着いた[63]。「プリモゲ」の任務はカリブ海での船舶の監視で、4月後半には20隻ほどの船を停船させ、ノルウェー船「Gudvor」と「Gornes」をフォール=ド=フランスへ送った[64]。5月はオランダ領内のドイツ船の監視を実施[64]。10日にドイツが低地諸国へ侵攻すると「プリモゲ」はアルバ湾に入り、オイルタンクに対する破壊活動防止のため陸戦隊を派遣した[64]。 5月16日にフォール=ド=フランスに戻り、6月3日に同地を発ってポートオブスペイン、ダカール、カサブランカを経て6月19日にジロンド川に着いた[64]

6月20日、触雷した汽船「Mexque」を救援[64]。6月22日には「プリモゲ」は爆撃を受けたが命中はしなかった[65]。「プリモゲ」はロワイヤンで6月23日に金15トンやプラチナ、フランスの紙幣を積み、それらをカサブランカへ運んだ[66]

6月22日に独仏休戦協定ヴィラ・インサーチ協定英語版イタリア語版が結ばれて、フランスはドイツイタリア王国に事実上降伏した。ヴィシー・フランスが成立したが、同時に自由フランス軍も発足した。「プリモゲ」はヴィシー軍に残る[7]

チャドカメルーンコンゴが自由フランス側につくと、「プリモゲ」はスループ「La Surprise」、「Gazelle」、油槽船「Tarn」とともに9月4日にカサブランカからダカールへ向かい、9月9日に着いた[67]。また、巡洋艦3隻と大型駆逐艦3隻からなるY部隊がトゥーロンからダカールへ向かった[68]。「プリモゲ」はY部隊指揮官の指揮下に入り、後続のY部隊へ給油を行う予定の「Tarn」とともに9月14日にリーブルヴィルへ向けて出発したが、2隻は9月19日にイギリス巡洋艦「コーンウォール」、「デリー」に捕捉されてカサブランカへ戻るよう命じられ、Y部隊指揮官の命令により2隻はカサブランカに戻った[69]

11月中旬、水雷艇や潜水艦と演習を実施[70]。その際、アガディールに滞在している[70]。12月上旬、「プリモゲ」は30億ドル相当の金のインゴットをダカールからカサブランカへ運んだ[70]。その後は数度の訓練及び後述の1941年4月中旬の出来事を除き、「プリモゲ」は1941年10月27日に離れるまでカサブランカにとどまった[70]。4月12日、「プリモゲ」と駆逐艦「シムーン」、「フロンデュール」に支援された駆逐艦「アルバトロス」が、イギリス海軍に拿捕されたバナナ運搬船「Fort-de-France」[71]を奪還した[70]。「プリモゲ」は11月2日から11月17日までダカールでドック入りし、続いてカサブランカで1942年3月15日まで大規模な改修がなされた[72]。4月19日、カサブランカで第2軽戦隊が編成され、「プリモゲ」は同戦隊旗艦となった[73]。9月までは時々訓練を行うのみで、10月4日から再び改修に入った[74]。その完了は11月25日の予定であったが[75]、その前にアメリカ軍が来襲した。

1942年11月8日、連合国軍はモロッコとアルジェリアへの上陸を実行(トーチ作戦)。カサブランカ付近ではアメリカ海軍第34.1任務群(戦艦「マサチューセッツ」、重巡洋艦「ウィチタ」、「タスカルーサ」他)、第34.9任務群(重巡洋艦「オーガスタ」、軽巡洋艦「ブルックリン」他)、第34.2任務群 (空母「レンジャー」他)とフランス軍との間で戦闘が生起した。

「プリモゲ」は第2軽戦隊の大型駆逐艦2隻、駆逐艦5隻の出撃より遅れて10時[76]頃に出撃[73]。10時15分に大型駆逐艦「ミラン」、「アルバトロス」などと合流し、10時35分に「マサチューセッツ」に対して砲撃を開始した[77]。11時20分、「プリモゲ」は艦首、中央部、ミリタリーマストに被弾したが、すべて不発であった[78]。これは「ブルックリン」ないし、「ブルックリン」と駆逐艦1隻によるものと思われる[79]。11時45分、「プリモゲ」艦尾付近に至近弾があり、2名が死亡し、若干の浸水が生じた[78]。11時57分、「プリモゲ」は「マサチューセッツ」に命中弾を与え、小火災を発生させた[78]。12時30分、「プリモゲ」はボイラー室に被弾[73]。これはおそらく「タスカルーサ」からのもので、不発ではあったがボイラー1基を破壊し、「プリモゲ」の速力は4ノット低下した[79]。またカサブランカに停泊中のフランス戦艦「ジャン・バール」を攻撃していた米空母部隊の艦上機が、今度は連合軍上陸部隊を守るために「プリモゲ」などを攻撃する[80]F4Fワイルドキャット戦闘機が機銃掃射をおこなったあと、「レンジャー」のSBDドーントレス急降下爆撃機第41偵察飛行隊、VS-41)と、「スワニー」のTBFアヴェンジャー雷撃機(第27偵察飛行隊、VSG-27)がフランス艦隊を襲撃した[80]。12時40分、ドーントレス5機による「プリモゲ」攻撃で、500ポンド爆弾1発が命中した[78]。その後、「プリモゲ」はカサブランカに戻った[73]

第41偵察飛行隊(レンジャー搭載部隊)などのSBDドーントレスは、ひきつづきカサブランカのフランス艦隊や砲台を攻撃した[80]。14時40分、SBDドーントレス9機による攻撃で少なくとも3発の爆弾が命中[73]。艦橋への被弾もあり、艦長Mercier大佐などが戦死した[81]。15時44分から「ウィチタ」と「タスカルーサ」が「プリモゲ」を砲撃したが、命中弾はなかった[82]。または、そのころ砲弾1発を被弾[73]。16時50分に「プリモゲ」は再度空襲を受け、艦橋に被弾した[73]。その後、「プリモゲ」は擱座し、一晩中燃え続けた[73]

「プリモゲ」の残骸は1951年に売却され、解体された[73]

脚注

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注釈

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  1. ^ 巡洋艦プリモウゲ(一九二五年十一月竣工)[1] 基準排水量七二四九噸、時速三四節。ラモット・ピックヰエと共にデュゲェイ・トロワン級三隻中の一。特に遠洋航行に優秀性を有し、ポンブルジュ艦長指揮の下に現に極東艦隊旗艦たり。水雷二十四個を有し、その艦載水雷艇は一七.七吋水雷四個を備ふ。偵察機二臺を携行。後尾砲塔後部にカタパルト一基を装備。
  2. ^ 二等巡洋艦“デュガイ・トルーアン Duguay Trouin[3] 全要目{排水量7,249噸 速力34節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管(53糎)12門 起工1922年8月 竣工1926年11月 建造所ブレスト海軍工廠} 同型艦“ラモツトピケ Lamotte-Picquet}” “プリモウゲ Primauguet”全長184.08米、幅17.07米、平均吃水5.49米。上記の外に7.5糎高角砲4門その他小砲7門を有す。/水上機2機(哨戒機)を搭載す。34節の全速力に於ける軸馬力は100,000馬力。重油搭載量は最大1,500噸。34節の全速力にて880浬の行動半徑を航續し得、同じく30節では1,290浬、20節で3,000浬、15節では4,500浬と云はれてゐる。魚雷は24個搭載しその外に艦載艇用魚雷(45糎)を搭載してゐる。
  3. ^ 二等巡洋艦 “プリモウゲ Primauguet[4] 全要目{排水量7,249噸 速力34.0節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管12門 起工1923年8月 竣工1926年11月 建造所 ブレスト海軍工廠} 佛國輕巡の中樞をなす同型三艦中の一艦で、1923年の建造は如何にもすでに一昔前ではあるが、その時すでに今日の輕巡の基本形を備へ重巡誕生の母となつた。全長184.08米、幅17.07米、平均吃水5.49米。7.5糎高角砲4門、單葉水上機二機を搭載、カタパルトは艦尾後甲板に据へられてゐる。魚雷發射管は53糎徑の大きなもので、別に艦載機が使用する45糎のものも積んでゐる4推進器艦で主機關の軸馬力100,000馬力なりといふ。
  4. ^ 連合軍艦隊(第34任務部隊指揮官H.ケント.ヒューイット少将)、第34.1任務群(ギッフェン少将:戦艦マサチューセッツ、重巡2隻(ウィチタタスカルーサ)、駆逐艦4隻、補給艦1隻)、第34.9任務群(ヒューイット少将:重巡オーガスタ〈旗艦〉、軽巡ブルックリン、駆逐艦10隻、上陸部隊輸送船団)、第34.2任務群(空母レンジャー、護衛空母スワニー、軽巡クリーブランド、駆逐艦5隻、潜水艦2隻、補給艦1隻)。
  5. ^ 二等巡洋艦 “ラモット・ピケ Lamotte Piquet[9] 全要目{排水量7,249噸 速力34.0節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管12門 起工1923年1月 竣工1926年9月 建造所 ロリアン海軍工廠} プリモウゲの同型艦で、南洋方面の遣外艦隊の旗艦として、幾度か日本にもやつて來た。長さがわが衣笠よりも約10米長く出來てゐるのが見た眼に非常に長細い船だと感じさせるが、もともと遣外艦隊配属を目的として造られたものであるから、大きな圖体には少からざる燃料をつんで15節にて9,000浬といふ航續距離を示してゐる。主砲高角砲共に最新の制式を有し、單騎よく大洋のまん中にあつて決してひけはとらぬと云ふ。もう一隻の同型艦は“デユゲイ・トルーアン Duguay Trouin”要目全く同じである。
  6. ^ 世界巡航の佛國巡洋艦 月曜日來航す[10] 當地佛國領事オーガステ・マークエス氏の許に達した電報に依ると世界巡航の途にある佛國巡洋艦プリマウゲート號は月曜日横濱から來航する、同號は佛國最新式巡洋艦で噸數九千五百噸、長さ六百呎 幅五十七呎、喫水十七呎である、航程はフランスを發しスエズ運河を經て日本に赴きホノルルからパナマ運河を通過して歸航する豫定となつてゐる(記事おわり)
  7. ^ 佛國大使デビリー氏 鎌倉で兇漢に襲はる 佛巡洋艦乗組員とドライヴ中 大使は幸に無事、士官二名負傷す[15](六日東京發)駐日佛國大使デビリー氏は佛巡洋艦プリモゲ號の乗組士官二名と鎌倉附近をドライブ中二名の日本人醉漢に襲はれた。大使は負傷しなかつたが士官は打撲傷を負ひ醉漢と格闘中警官驅けつけ來たり兩名共犯人を逮捕した。同大使に右を單に些細な出來事と看做し外務當局に同事件の解決を迫るやうなことはしまいと(記事おわり)
  8. ^ 「寧海」は6月5日の式典に間に合わないことが判明し、下関に寄港して儀仗隊のみ先行させて式典に間に合わせ、「寧海」は6月6日東京湾に到着した[25]オランダが軽巡「ジャワ (Hr. Ms. Java) 」を派遣したという資料もある。
  9. ^ (3)艦船[27] 10.外國軍艦本邦沿岸出入一覧(フランス)(プリモーゲ)
  10. ^ フランス砲艦(通報艦タユール (Tahure) は弔砲を発射していない[29]
  11. ^ 國葬参列の各國将星を永野大将が招待す ホテル、ニューグランドに悲しみの裡に國際親善[30] 東郷元帥國葬参列の重任を果した英、米、佛、伊、支五ヶ國代表及其一行をば接伴委員長横須賀鎭守府司令長官永野修身大将が招待して六日午後一時より盛大な午餐會を横濱のホテル、ニューグランドに開いた、ドレーヤー大将(英國) アツパム大将(米) リシャール中将(佛) プリポネツシ大佐(伊) 王壽廷(支)を初めとして其幕僚、大使館附武官等各國の将星二十二名出席し、日本側は永野長官以下各聯絡将校等を初め約二十名出席し接伴艦比叡の軍樂隊伴奏裡に一同歡を盡して國際親善の實を収めた(記事おわり)
  12. ^ ◎謁見[31] 佛國極東艦隊司令長官海軍少将アルフレッド、ルイ、マリー、リシャール今般來航ニ付敬意ヲ表スルタメ同艦隊参謀長海軍大佐ルルー外一名ヲ從ヘ同國特命全權大使フェルナン、ジャン、マリー、ピラ同伴同大使館附海軍武官 海軍少佐オーブリー・ド、ラ、ノエト共ニ昨二十一日午前十一時 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ(以下略)
  13. ^ 大連(7月30日~8月6日)[39]、門司(8月31日~9月3日)[40]、敦賀(9月4日~9月11日)[41]、長崎(9月13日~10月1日、装甲巡洋艦「出雲」と交流、三菱長崎造船所で修理)[42]、神戸(10月3日~10月13日)[43]、横浜(10月14日~10月28日)[44]
  14. ^ ◎謁見[50] ◎謁見 米國陸軍長官ジョージ、エイチ、ダーン今般渡來ニ付敬意ヲ表スルタメ同國臨時代理大使エドヴィン、エル、ネヴィル同伴昨十五日午前十一時 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ
    佛國極東艦隊司令長官海軍中将ジャン、ピエール、エステヴァ今般來航ニ付敬意ヲ表スルタメ同艦隊参謀長海軍大佐ルルーヲ從ヘ本邦駐箚同國特命全權大使フェルナン、ジャン、マリー、ピラ同伴同大使館附海軍武官海軍大佐ロザテイト共ニ同日午前十一時三十分 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ(以下略)
  15. ^ 三大海軍國 顔合せ 水兵京濱に氾濫(横濱十六日電通)[51] 十四日入港した米佛軍艦に引續き十六日朝英國一万トン巡洋艦トーセツシヤー號が入港はからずも三大海軍國の顔合せとなり、横濱は青い目の水兵服が氾濫海軍景気を現出してゐる(記事終わり)
  16. ^ ヂブチに到着 謎の佛巡洋艦プ號[58](十四日ヂブチ發ルーター)去る一月十九日何処に行くも分らず突如上海を出港した佛國巡洋艦プリモウゲ号は本日ヂブチに入港した 出港當時パリでは同艦が一年以上も東洋に居たことであるので本國へ歸還するのは豫定のことであり、西貢ヂブチに寄港する筈だと云はれてゐたところである(記事おわり)
  17. ^ 遭難佛國潜水艦 乗組員七十一名 全く絶望(サイゴン十七日同盟)[59] 演習中浸没せるフランス潜水艦フエニツクス號の沈没箇所は十七日夕刻にいたり海上に多量の油が浮かべるのを發見捜査の結果カムラン灣沖で水深二百フイトのところなる事が漸く判明した、現場附近には極東艦隊所属の巡洋艦ラモツト・ピケゴー、同プリモーゲ號その他サイゴンより急行せる救助船數隻が警戒してゐるが、乗組員七十一名の運命は絶望視されてゐる、なほ佛印總督プレピエモは十七日サイゴン發カムランへ急行した(記事おわり)

出典

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  1. ^ 世界海軍大写真帖 1935, p. 48.
  2. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 128a-129デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦/軽防御ながら航洋性に優れたフランス近代巡洋艦の先駆け
  3. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 154(原本290-291頁)二等巡洋艦デュガイ・トルーアン
  4. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 132(原本246-247頁)二等巡洋艦プリモーゲ
  5. ^ French Cruisers 1922-1956, p. 27
  6. ^ a b #弔意一覧表 p.18、#東郷元帥薨去弔意 p.13〔 七、各國弔意表明振 (イ)軍艦特使 〕
  7. ^ a b c d e イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 129.
  8. ^ a b c イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 128b.
  9. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 131(原本244-245頁)二等巡洋艦ラモツト・ピケ
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参考文献

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関連項目

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