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ジャンヌ・ダルク (軽巡洋艦)

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竣工時の本艦
艦歴
発注 サン・ナゼール造船所
起工 1928年9月28日
進水 1930年2月14日
就役 1931年10月
退役
その後
除籍 1964年7月
前級 プリュトン
次級 エミール・ベルタン
性能諸元
排水量 基準:6,496トン
満載:8,960トン
全長 170.0m
水線長 160.0m
全幅 17.7m
吃水 6.4m
機関 ペノエ式重油専焼水管缶4基
+パーソンズギヤードタービン2基2軸推進
最大出力 32,500hp
最大速力 25ノット
27.8ノット(公試)
航続距離 14.5ノット/5,000海里
燃料 重油:1,400トン
乗員 505名+(士官候補生:156名、指導士官:20名)
648名(戦時)
兵装 15.5cm(55口径)連装速射砲4基
7.5cm(60口径)単装高角砲8基
37mm(50口径)連装機関砲2基
13.2mm(76口径)単装機銃12丁
55cm水上魚雷発射管単装2基
装甲 舷側:-mm
甲板:-mm
ボックス・シタデル:20mm
主砲塔:30mm(前盾)、-mm(側盾)、-mm(後盾)、-mm(天蓋)
バーベット部:30mm
司令塔:30mm
艦載機 水上機2機、カタパルト1基

ジャンヌ・ダルク (Croiseur-École Jeanne D'Arc) は、フランス海軍1926年度海軍整備計画において[1]第二次世界大戦前に建造した軽巡洋艦[注釈 1]。 一般的には練習巡洋艦として認識されている[3][注釈 2]。 艦名はフランスの英雄にしてキリスト教聖人ジャンヌ・ダルクに因む[注釈 3]太平洋戦争以前の大日本帝国[5][注釈 4]サンフランシスコ平和条約締結後の日本を訪問したことがある[7]

コンセプト

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本艦の竣工までフランス海軍には「練習巡洋艦」と呼ばれる艦種は存在せず。士官候補生の遠洋航海訓練には装甲巡洋艦を使用していた。しかし、第一次世界大戦船団護衛任務で酷使された装甲巡洋艦は老朽化が目立っていたため、ここにフランス海軍は新たに練習巡洋艦を建造することとしたのである。

本艦の設計は機雷敷設任務に特化した「プリュトン」よりも、本格的な軽巡洋艦として建造された「デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦」をタイプ・シップに採り、魚雷兵装を減じて、浮いた重量を士官候補生と訓練士官の居住施設や授業用の教室区画に充てた。さらに6,000トン台の小型の船体を有効活用するため、舷側の開口部には二層式のプロムナード・デッキを設けている。本級は練習巡洋艦であるが、6インチ連装砲塔4基8門、速力約27ノットを発揮し、ある程度は通常の巡洋艦としての性能も有している[8][注釈 5]

艦形について

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本艦の艦形図

船体型式は「デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦」と同じく船首楼型である。軽くシア(傾斜)の付いた艦首甲板から「1920年型15.5cm(55口径)砲」を連装砲塔に納め、1・2番主砲塔を背負い式で2基、箱型艦橋を基部に持つ軽量な三脚檣、シフト機関配置のため間隔の空いた二本煙突の中間点に艦載艇の揚収クレーンがあり、周りは艦載艇置き場となっていた。

2番煙突の背後には水上機2基が置かれ、簡便な単脚後檣の基部に2対のジブ・クレーンにより艦載機は水面に下ろされて運用された。後檣の背後に主砲塔二基を後ろ向きで背負い式に配置した。舷側には上下二列に丸い舷窓が並ぶが、これは酷暑の植民地で乗員が熱射病にやられないように通風を考えてのことである。

左右の舷側甲板には「1922年型 7.5cm(60口径)高角砲」を単装砲型式で左右2基ずつ計4基装備する。また、雷装としてプロムナード・デッキ下層の舷側に55cm単装水上魚雷発射管を片舷2基ずつの計2基2門を配置した。

主砲、高角砲、その他備砲について

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主砲は新設計の「1920年型15.5cm(55口径)砲」を採用した。砲身は当時の最新技術である自緊砲身を採用し、製造にいち早く成功した。砲の旋回・俯仰動力は電動方式を採用し、1927年に射撃方位盤が取り付けられ、方位盤管制による効果的な射撃が可能になった。

他に、対空砲として「1922年型 7.5cm(60口径)高角砲」が採用された。この砲は長命で続く「シュフラン級」と戦利巡洋艦にも搭載された。他にはオチキス社製37mm(50口径)連装機関砲2基と13.2mm(76口径)機銃が12丁が載せられている。

なお、1940年に「自由フランス軍」に編入された折に対空火力が増備され、ボフォース 40mm(56口径)単装機関砲6基とエリコン20mm(70口径)単装機銃20丁と連合国製対空レーダーにより射撃管制された。

艦体

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艦体は艦首構造に高速航行に適したクリッパー・バウを採用しており、艦首から艦橋部までが1段高い船首楼型を採用しているが、これは波の荒い北大西洋インド洋での長距離作戦航海を考慮した為である

舷側装甲は存在せず、甲板防御に20mmの装甲を張り、弾火薬庫や舵機室など主要防御部に「ボックス・シタデル」と呼ばれる20mm装甲板で囲む軽防御方式を採っている。その代り機関区画への縦隔壁と細分化された水密区画により水線下触雷時の浸水被害の局限化を図っていた。また、高い乾舷は荒天時の航海で横風をはらむ危険性を持っており、風の影響を受けやすかった。

機関配置

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缶室・機関分離配置も「デュゲイ・トルーアン級軽巡洋艦」と同様である。主缶にはペノエ式重油専焼水管缶4基を採用し、主機関にはパーソンズ式ギヤード・タービン2基を組み合わせた結果、公試において最大出力32,500馬力、速力27.8ノットを発揮し、抵抗の少ない船体により常時23ノットで高速巡航する事ができた。

安定性の高いボイラーとオーソドックスなギヤード・タービンにであり、航続性能は14.5ノットで5,000海里であった

その他

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フランス巡洋艦はこのクラスの竣工時から水上機運用能力を持つようになり、水上機2機を運用した。なお、これらの装備は1943年頃から撤去され、対空設備を増備するためのスペースに充てられた。

艦歴

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1926年度計画でシュフラン級重巡洋艦の「コルベール」と共に建造が決定した[10]サン=ナゼール造船所で建造され、1931年(昭和6年)10月に就役。ただちに練習航海任務に投入された。1932年(昭和7年)7月上旬からはじまった練習航海では、地中海を経由して東まわり航路をとる[11][注釈 6]。 1933年(昭和8年)3月19日、日本長崎に到着する[13][注釈 7]。 つづいて広島県江田島神戸に寄港した[注釈 8]。4月3日、横浜に入港する[注釈 9]。 4月6日[17]、ジャンヌダルク艦長アンドレ・マーキス英語版フランス語版大佐は[18]昭和天皇に拝謁した[注釈 10][注釈 11]。 フランス海軍の士官や士官候補生は横須賀におもむき横須賀海軍航空隊や戦艦「長門」を見学したほか、横須賀鎮守府司令長官野村吉三郎中将の歓待を受けた[注釈 2]。4月14日、横浜を出港する[21]。日本出発後、アメリカ合衆国ハワイポートランドサンフランシスコなどを訪問した[注釈 6]

1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦が勃発すると、大西洋でドイツの貨物船(封鎖突破船)警戒任務に従事した[10]。1940年(昭和15年)5月、連合国軍西部戦線大敗する。同月下旬、フランス軽巡「エミール・ベルタン」と共に、フランス銀行の金塊カナダハリファックスに輸送する任務に加わった。航空機輸送任務に従事中のフランス空母「ベアルン」と合流し、ヨーロッパ大陸に戻る途中で6月22日独仏休戦協定を迎えた。フランスの一部は占領されヴィシー政権が成立する。「ジャンヌ・ダルク」はカリブ海フランス領西インド諸島に行き[10]、「ベアルン」などと共にマルティニークで待機した(マルティニークの歴史[注釈 12]

1942年(昭和17年)5月以降、アメリカ合衆国との協定で不稼働状態となる[注釈 13]。 1943年(昭和18年)7月、自由フランス軍に加わった[10]。以後、フランス解放に絡む反攻作戦に従事する(ドラグーン作戦など)。 第二次世界大戦終結後は、ふたたび練習艦として運用された[10]

1963年(昭和38年)2月、遠洋航海中の本艦は、フリゲート艦ヴィクトル・シュルシェール英語版と共に日本を訪問した[注釈 14]2月6日東京港に到着する[7]。「ジャンヌ・ダルク」乗組員は靖国神社に参拝した[注釈 15]。 1964年(昭和39年)6月8日、ブレストに到着して最後の練習航海任務を終えた[10]。本艦の航海距離は74万浬に及ぶという[10]。艦名を新造のヘリ空母に譲り、本艦は除籍された[10]

出典

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注釈

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  1. ^ 二等巡洋艦“ジヤンヌダルク Jeanne d'Arc[2] 全要目{排水量6,490噸 速力27節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管(53糎)2門 搭載飛行機1 起工1928年10月 竣工1931年11月 建造所サン・ナザール・ベンヘエト造船所} 全長160.1米、幅17.52米、平均吃水5.38米。上記兵装の外に7.5糎高角砲4門、3.7糎速射高角砲6門を有す。全速27節の軸馬力は39,120馬力で、重油搭載量は1,400噸。行動半徑は15節の巡航速力にて5,000浬。この艦はかつて日本にも來訪したことのある同國海軍の練習艦で、艦内も少尉候補生の練習航海に適するやう設備されてゐる點他の巡洋艦と異なつてゐる。即ち定員外に少尉候補生156人と教官20人の居住が考慮されてゐる。外觀にも現はれ練習艦たる趣きが察しられよう。
  2. ^ a b 佛海軍の生徒 長門を見學 昔しは海軍の先生たりし佛國だつた[4] (東京八日電通)横濱港に碇泊中の佛國練習巡洋艦ジャンダーク號の司令官各士官及士官候補生一行は本日横須賀軍港を訪問した 海軍飛行場其他を見學し大戰闘艦にて佛國海軍には其比を見ざる長門を見學後、鎭守府長官野村提督の午餐會に臨んだ。(記事おわり)
  3. ^ フランス海軍において、ジャンヌ・ダルクの名前を冠した艦艇一覧。先代については装甲巡洋艦ジャンヌ・ダルク (croiseur cuirassé Jeanne d'Arc) を参照のこと。
  4. ^ 二等巡洋艦“ジヤンヌダルク Jeanne d'Arc[6] 全要目{ 排水量6,490噸 速力27節 備砲15.5糎砲8門 魚雷發射管(53糎)2門 搭載飛行機2 起工1928年10月 竣工1931年11月 建造所サン・ナザール=バノエ造船所 } 全長160.1米、幅17.52米、平均吃水5.38米。上記兵装の外に7.5糎高角砲4門、3.7糎速射高角砲6門を有す。全速27節の軸馬力は39,200馬力で、重油搭載量は1,400噸。行動半徑は15節の巡航速力にて5,000浬。この艦はかつて日本にも來訪したことのある同國海軍の練習艦で、艦内も少尉候補生の練習航海に適するやう設備されてゐる點他の巡洋艦と異なつてゐる。即ち定員外に少尉候補生156人と教官20人の居住が考慮され、外觀はどちらかといへば通報艦に近い。なほ目下建造中のものに1932年計畫になる新二等巡洋艦グロワール Gloire” “マルセイエーズ Marseillaise” “モンカルム Montcalm” “ジヨルヂユ・レイグ Georges Leygues”の4隻がある 。
  5. ^ 日本海軍が建造した香取型練習巡洋艦も旧式装甲巡洋艦の代替として計画されたが、迅鯨型潜水母艦をタイプ・シップとしており、戦闘的な運用を考慮していない[9]
  6. ^ a b 日本で歡迎された佛國の練習船隊 三色旗を掲げて入港 三十九番埠頭へ繋留[12] フランス練習艦ジーニー、アク號は十一日百五十餘名の候補生をのせて當地に入り、三十九番波止場へ横づけされた/同艦は地中海、インド、支那を經て日本を訪問し未曾有の歡迎をうけ、ハワイ、ポートランドに寄港して桑港に来たものである、碇泊期間は一週間で、その間諸種の歡迎が在桑佛人の主として行はるるはずである、同艦は全く練習艦としてつくられたフランス獨特の造船技術を發揮してをり假装巡洋艦式の艦型をしてゐる、因みに園艦には霞ヶ浦航空隊の教官たりし人も乗艦せり(記事おわり)
  7. ^ 佛國練習艦 日本で歡迎 長崎へ着く[14] (長崎十九特電)フランス海軍練習艦ヤンザク號(六四九六トン)は十九日午前九時シャンハイより當港に入港した二十日午後三時より長崎海岸において市會、商工會議共同主催の歡迎會を行ふはず、なほ三日間市内見物ののち二十三日長崎出港宮島に廻り二十八日神戸に入港の豫定(記事おわり)
  8. ^ 9.外國軍艦本邦沿岸出入一覧 昭和7年度[15]〔 國名:佛國|艦船名:ジャンヌ、ダルク|期間:8-3-25 3-26|寄港地名:江田島 〕
  9. ^ 【横濱三日聯合】[16] 佛蘭西最大練習艦ジヤンヌダルク號(六六〇〇噸)は三日午前八時神戸から横濱に入港した、同艦は世界一周練習航海の途にあるもので來る十一日まで碇泊日本各地の春光を尋ねる筈である(記事おわり)
  10. ^ 宮廷記事[19] ○謁見 佛國海軍練習艦「ジアンヌダルク」艦長海軍大佐「マルキ」今般來航ニ付敬意ヲ表スルタメ副長海軍中佐「アモン」ヲ從ヘ本邦駐箚同國特命全権大使伯爵「ダミアン、ド、マルテル」同伴大使館附海軍武官海軍中佐「オーブリー、ド、ラ、ノエ」ト共ニ四月六日午前十時三十分 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ(以下略)
  11. ^ 佛國艦長 拝謁 大使が同伴し[20] (東京六日電通)目下横濱に碇泊中の佛國練習艦隊シヤンダーク號艦長ほか一名は佛國大使マルテルが同伴し本日午前十時半敬意を表するため宮中に参内した 鳳凰の間に於て陛下に拝謁し優遇の御禮を言上して退下した(記事おわり)
  12. ^ (ヴィシー廿二日發)[22] フランスの對獨協力に關する獨佛協定の成立に狼狽した英米兩國は最近頻りと對佛壓迫態度を示しつゝあり、佛領西印度諸島マルチニツク島附近に軍艦を派遣して、これが武力占領を敢行せんとするが如き氣勢を示してゐるが、ヴイシー政府は二十一日右英米の策謀に斷乎拮抗すべき決意を固め、同島守備の陸海空軍に對して防備に万全を期すべき旨訓令を發した模様である、なほマルチニツク等守備群は最近同地碇泊中の巡洋艦エミール・ベルタン及航空母艦ベールンその他艦艇参加の下に陸海空三軍の防備演習を行ふ等非常な緊張を呈してゐる(記事おわり)
  13. ^ 『華府五月十四日』[23] 米佛代表間にマルチニツク島に在る佛國艦隊武装解除の協定が成立したと本日發表されたが之れにより西半球に對する直接脅威は除かれた譯で米國外交の大成功と同時にビシイ政府の面目丸潰れである。武装を解除される佛艦中には二千七百噸の航空母艦バーン号を初め輕巡洋艦ヱミルパーティン、假装巡洋艦バルフラワ号 元巡洋艦ヂーンダーク号、練習艦等がある。而して米國代表と佛總督間に殘る問題は佛船舶と百機の米國製飛行機の始末であるが右に關し佛首相ラバルは米國に正式申入れをなし艦隊武装解除は承認するも船舶を接収する事には反對すると警告したと云はる(記事おわり)
  14. ^ 東京(共同)[7] 七日發 = 遠洋航海訓練中のフランス海軍兵學校生徒を乗せた巡洋艦ジャンヌダルク號(九千九百トン)と護衛艦ビクトール・シェルシェ號(二千千トン)の二隻が六日朝東京港に入港した、十二日まで東京に滞在、十四日から十八日まで神戸、その後二十一日まで江田島をそれぞれ訪問、志賀防衛廰長官都知事をはじめ海上自衛隊防衛大學生海上保安廰な關係者などと懇談する、なおフランス海軍の日本訪問は戰後はじめて(記事おわり)
  15. ^ ▲ホノルルにも寄港したフランス軍艦ヂヤンヌダルク號乗組員は東京で靖國神社に儀禮兵を送り第二次大戰々死者の靈に捧げ銃で参拝した(日本人は世思議そうな顔)[24](記事おわり)

脚注

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  1. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 137a練習巡洋艦「ジャンヌ・ダルク」/戦前から戦後まで長きにわたり働いた練習艦
  2. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 155(原本292-293頁)二等巡洋艦ジャンヌ・ダルク
  3. ^ 福井、世界巡洋艦物語 1994, pp. 87–89練習巡洋艦
  4. ^ Shin Sekai Nichinichi Shinbun 1933.04.09、新世界日日新聞/nws_19330409(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21021889400  p.1
  5. ^ 海軍省年報、昭和8年 1935, p. 20a(原本18頁)9.外國軍艦本邦沿岸出入一覽 昭和8年度
  6. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 134(原本250-251頁)二等巡洋艦ジェーヌ・ダルク
  7. ^ a b c 遠洋航海の佛軍艦訪日”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1963.02.07. pp. 10. 2024年1月21日閲覧。
  8. ^ 福井、世界巡洋艦物語 1994, p. 88(ジャンヌ・ダルク写真解説)
  9. ^ 福井、世界巡洋艦物語 1994, pp. 335–339練習巡洋艦 香取型
  10. ^ a b c d e f g h イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 137b.
  11. ^ #ジャンヌ・ダルク艦長叙勲 pp.4-5(佛國軍艦「ジャンヌ、ダルク」艦長 勳三等瑞寶章 海軍大佐 アンドレ、アメデ、アベル、マルキ)
  12. ^ Shin Sekai Nichinichi Shinbun 1933.05.13、新世界日日新聞/nws_19330513(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21021896400  p.3
  13. ^ 昭和8年 海軍公報 上巻(防衛省防衛研究所)3月(1) 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070336300  p.25〔 海軍公報 第1830号 昭和8年3月18日(土)/○佛艦「ジャンヌ、ダルク」來航豫定 地名 着 發/長崎 三月十九日 三月二十二日/宮島 二十四日 二十五日/江田島 二十五日 二十六日/神戸 二十七日 四月二日/横濱 四月三日 十一日 〕
  14. ^ Shin Sekai Nichinichi Shinbun 1933.03.20、新世界日日新聞/nws_19330320(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21021885400  p.3
  15. ^ 海軍省年報、昭和7年 1935, p. 22(原本20頁)
  16. ^ 佛國練習艦 横濱に入港”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nippu Jiji. pp. 01 (1933年4月3日). 2023年10月30日閲覧。
  17. ^ 昭和8年 海軍公報 上巻(防衛省防衛研究所)4月(1) 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070336500  pp.25-26〔 海軍公報(部内限)第2879号、昭和13年4月6日(水)/○艦船所在 ○四月六日午前十時調(略) 〕
  18. ^ 佛國練習艦隊 横濱入港 長官拝謁す”. Hoji Shinbun Digital Collection. Kashū Mainichi Shinbun. pp. 01 (1933年4月6日). 2023年10月30日閲覧。
  19. ^ 外務省報第二百七十三号(昭和八年四月十五日)/宮廷記事/外務省報 第十八巻(外・報18)(外務省外交史料館) 」 アジア歴史資料センター Ref.B13091683400 
  20. ^ Shin Sekai Nichinichi Shinbun 1933.04.07、新世界日日新聞/nws_19330407(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21021889000  p.1
  21. ^ 海軍省年報、昭和8年 1935, p. 20b.
  22. ^ 佛國と英米の關係漸く急迫 英米側、大西洋上の佛領島嶼占領を企謀 實力對抗期し佛國守備急行”. Hoji Shinbun Digital Collection. Shin Sekai Asahi Shinbun. pp. 01 (1941年5月24日). 2023年10月30日閲覧。
  23. ^ マルチニツク佛總督 米國の要求を承認 碇泊中のフランス軍艦の武装解除”. Hoji Shinbun Digital Collection. Yuta Nippō. pp. 03 (1942年5月15日). 2023年10月30日閲覧。
  24. ^ スケッチ”. Hoji Shinbun Digital Collection. Hawaii Times, 1963.02.06. pp. 05. 2024年1月21日閲覧。

参考文献

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  • 「世界の艦船 第101号」(海人社) 仏練習艦隊来航 (ジャンヌ・ダルク、ヴィクトル・シェルシェ)
  • 「世界の艦船増刊第50集 フランス巡洋艦史」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊第17集 第2次大戦のフランス軍艦」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊 2010年10月増刊 近代巡洋艦史」(海人社)
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想 第八巻 世界巡洋艦物語』光人社、1994年6月。ISBN 4-7698-0656-6 
  • 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)「フランスの巡洋艦」『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3 
  • 「Conway All The World's Fightingships 1922-1946」(Conway)
  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 『仏国軍艦ジヤンヌ、ダルク艦長海軍大佐アンドレ、アメデ、アベル、マルキ叙勲ノ件/叙勲裁可書・昭和八年・叙勲巻七・外国人(国立公文書館)』。Ref.A10113121400。 
    • 『官房第724号 8.2.20仏国練習艦「ジャンヌ・ダルク」本邦来航に関する件/公文備考 D巻4外事 海軍大臣官房記録 昭和8(防衛省防衛研究所)』。Ref.C05022740200。 
    • 『官房第1047号 8.3.13仏国練習艦「ジャンヌ・ダルク」艦載水上機の飛行に関する件/公文備考 D巻4外事 海軍大臣官房記録 昭和8(防衛省防衛研究所)』。Ref.C05022740300。 

関連項目

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外部リンク

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