フランソワ・ペルゴ
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フランソワ・ペルゴ(François Perregaux 、1834年6月25日 - 1877年12月18日)は、スイスの時計職人である。ジラール・ペルゴを創業したマリー・ペルゴの弟。幕末来日して時計商社を設立し、日本で初めてスイス時計を正規に輸入した。
埋葬された横浜外国人墓地の記録が関東大震災で失われたことなどから、彼の日本での足跡はこれまでは不明な点が多く、墓の所在も近年になって松山猛らの尽力で判明するなど、今なお調査の余地が多く残されている。
2006年と2007年に、ジラール・ペルゴは彼の名を冠した日本限定生産の腕時計「ヴィンテージ1945 フランソワ・ペルゴ」ⅠおよびⅡを限定250本で発売した。そしてフランソワの来日から150年に当たる2011年に「ヴィンテージ1945 フランソワ・ペルゴトリビュートモデル」をピンクゴールドケース18本、ステンレスケース150本限定で発売した。
ジラール・ペルゴの日本代理店であるソーウィンド・ジャパンは2013年からフランソワの墓の整備事業を開始し、翌2014年から墓周辺の整備と修復を開始している。
略歴
[編集]- 1834年 - スイス、ル・ロックルで時計製造業を営む家庭に産まれた。
- 1853年 - H.ペルゴ(H.Perregaux & Co. )の代表としてニューヨークへ向かった。
- 1859年 - ニューヨークから帰国した。
- 1861年 - ジラール・ペルゴの懐中時計12個を携え、フランス人として来日した。
- 1864年1月12日 - オランダ人冒険家エドワード・シュネル(Edward Schnell )と共同でスイス時計の輸入商社シュネル&ペルゴを横浜で設立したが、武器の方がビジネスになると考えたシュネルと対立したことからこの会社は解散に至り、F.ペルゴ(F.perregaux & Co. )を設立した(場所は現在の横浜中華街だった)。時計だけでは生計が立てられず炭酸飲料水販売等もしていた。
- 同年2月6日 - スイス全権行使エメ・アンベールらの尽力により日瑞修好通商条約が調印されて日本とスイスとの国交が成立し、ようやくスイス人としてフランソワの身分が安定する。
- 1873年 - 日本でグレゴリオ暦が採用され、商売が軌道に乗り始めた。
- 1877年 - 会社が火災となった。
外部リンク
[編集]- フランソワ・ペルゴ - ジラール・ペルゴ
- フランソワ・ぺルゴ―日本における初のスイス時計師 - ジラール・ぺルゴ日本
- フランソワ・ペルゴ トリビュートモデル、待望の新作 【ジラール・ペルゴ1966 フランソワ・ペルゴ トリビュートモデル】が発売開始!(2012年11月8日) - ソーウィンド・ジャパン
- スイス時計を日本に初めてもたらしたフランソワ・ペルゴの偉業を偲ぶ - Gressive
- 「横浜外国人墓地」が財政難に陥っており、埋葬されているスイス人時計師の一族が創業した会社が、墓地の整備と募金活動をしているらしい - はまれぽ.com