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ジラール・ペルゴ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ラ・エスメラルダ
ジラール・ペルゴがドイツ海軍将校用に製造した史上初の量産型腕時計
コンスタント・エスケープメント(2013年)

ジラール・ペルゴGirard-PerregauxGP)は、1791年創業のスイスラ・ショー=ド=フォンに本社を置く、高級機械式時計を自社一貫生産する高級時計メーカー(マニュファクチュール)の一つとして知られている。1864 年に日本に正規代理店を開設、長きにわたって日本市場で販売されてきた。

沿革

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同社はもともとジュネーヴで創立された。また、史上初めて腕時計の量産を行ったメーカーとしても知られる。もっとも当時腕時計の登場は時期尚早であり、大きく広まるにはいたらなかった。

1969年にはセイコーと時を同じくして時計用クォーツの開発に成功、世界初の量産はセイコーに譲ることになったものの、翌年にはスイス初の量産にまで至った。

その後日本製クォーツの爆発的な販売拡大に押され経営危機になるものの、1987年イタリアにおいてブライトリングブームを作り出した時計販売会社のトラデマがジラール・ペルゴのエージェントとなり、その社長で元フィアットのレーサー、ルイジ・マカルーソがデザインした時計GP7000が大ヒットを呼び、かのジョルジオ・アルマーニが愛用したことで有名になった。

5年後マカルーソはジラール・ペルゴ社長となり、イタリアの名門自動車メーカーのフェラーリとのブランドライセンス契約を締結。ロゴ入りスプリット・セコンド・クロノグラフを販売し、2週間で完売するなど人気を博した。その後もマカルーソによる経営建て直しは続き、アメリカスカップBMWオラクル・レーシングチームの後援を行うなどの活躍もするようになり現在に至る。

なお創業者コンスタン・ジラールの義弟でマリー・ペルゴの実弟、フランソワ・ペルゴは幕末の動乱のさなかである1861年に来日、横浜に商館を置き懐中時計の販売をした。すなわち日本に最初に正規輸入されたスイス時計はジラール・ペルゴである。

2011年ジャンリシャールと共に所属しているソーウィンドがフランスのPPRグループ傘下となり[1]、2013年の組織改編によりケリンググループの一ブランドとなった。

2022年、ケリングがソーウィンドグループの株式をパトリック・プルニエCEOらにすべて売却(マネジメント・バイアウト[2]したのに伴い、改めて独立した。

歴史

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  • 1791年 - ジャン=フランソワ・ボット(Jean-François Bautte )が時計を製作。
  • 1793年 - "Moulinié & Bautte"をJacques-Dauphin Mouliniéと設立。
  • 1804年 - Jean-Gabriel Moynierを共同経営者に迎え"Moulinié, Bautte & Cie"に社名変更。同年に時計専門のBautte社を設立。
  • 1837年 - 11月30日にャン=フランソワ・ボット死去、ジャック・ボット(Jacques Bautte )とジャン・サミュエル・ロッセル(Jean Samuel Rossel )が後継者になる。
  • 1852年 - コンスタン・ジラール(Constant Girard )がジラールを設立。
  • 1854年 - ジラールがマリー・ペルゴ(Marie Perregaux )と結婚。
  • 1856年 - ラ・ショー=ド=フォンに、夫婦の姓を組み合わせたジラール・ペルゴを設立。
  • 1861年 - マリーの弟フランソワ・ペルゴ横浜に渡来。日本初のスイス時計商館を横浜に開く。
  • 1867年 - スリー・ゴールド ブリッジ付トゥールビヨンパリ万博(第2回)で金賞を獲得。このモデルは現在も腕時計に採用されている。
  • 1880年以降 - ヴィルヘルム1世から注文を受けドイツ海軍将校用に腕時計を開発。
  • 1906年 - ボットを買収・合併。
  • 1928年 - ドイツ人時計師オットー・グラエフ(Otto Graef )がジラール・ペルゴの株を買い取る。
  • 1930年 - 腕時計の売り上げが懐中時計の売り上げを上回る。
  • 1975年 - ラグジュアリースポーツウォッチの初期の代表作・ロレアートをクオーツ時計で発売。デザインはイタリアの建築家、アドルフォ・ナタリーニイタリア語版[3]ジェラルド・ジェンタと間違えられることが多い)。
  • 1988年 - ルイジ・マカルーソ、ソーウィンドグループを設立。
  • 1992年 - ルイジ・マカルーソ、社長に就任。
  • 1993年 - フェラーリとブランド・ライセンス契約を結ぶ。カヴァッリーノ・ランパンテを刻印したスプリット・セコンド・クロノグラフを限定生産。
  • 1999年 - ジュネーブの国際高級時計展SIHH )に初出展。
  • 2004年 - アメリカズカップでBMWオラクル・レーシングチームを後援。フェラーリとのライセンス契約終了。
  • 2008年 - マンガ「島耕作」とのコラボレーションを行う。島耕作の愛用時計は「ジラール・ペルゴ ヴィンテージ1945」である。
  • 2010年 - ルイジ・マカルーソ死去、息子のステファノ・マカルーソが社長に就任。
  • 2011年 - PPR傘下となる。
  • 2012年 - オメガブランパンなどの時計メーカーで活動した時計師ドミニク・ロワゾー英語版を複雑時計製作チームに迎え入れる[4]が彼は翌2013年に死去した。
  • 2013年 - 母体企業の組織改編によりケリング保有企業となる。また、新作発表の場をバーゼル・フェアへと移行。シリコン製の新たな脱進機「コンスタント・エスケープメント」搭載モデルを発表[5]
  • 2016年 - 創業255年記念としてロレアートを限定モデルで発表、反響を呼んだため翌17年からレギュラーとして本格的に復活させる。
  • 2018年 - ソーウィンドグループのユリスナルダンCEO、パトリック・プルニエがジラール・ぺルゴCEOを兼任。
  • 2019年 - SIHHにて「Earth to sky」のテーマの元に新作を発表。地球儀と天球儀、そしてトゥールビヨンを備えた「コスモス」やブラックとブルーのコンビネーションの「ロレアート アブソルート」などを発表。
  • 2022年 - ケリングから独立。

関連項目

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脚注

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  1. ^ PPRがソーウインドグループの筆頭株主に[リンク切れ]、ジラール・ペルゴ、2011年7月4日2013年6月30日閲覧
  2. ^ これは時計愛好家にとって「幸福な決断」だ! ユリス・ナルダンとジラール・ペルゴのMBO、web Chronos、2022年2月5日、2024年1月15日閲覧
  3. ^ Why the hate? The curious case of the Girard Perregaux Laureato
  4. ^ ジラール・ペルゴ with ドミニク・ロワゾー[リンク切れ]、Gressive、2013年6月30日閲覧
  5. ^ ジラール・ペルゴから「コンスタント・エスケープメント」搭載モデルがデビュー[リンク切れ]2013年4月19日、2013年6月30日閲覧

外部リンク

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