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バチェラー八重子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バチェラー やえこ

バチェラー 八重子
知里真志保(左)とバチェラー八重子(右) (1932年3月撮影)
生誕 向井 八重子
1884年明治17年)6月13日
北海道伊達市
死没 1962年昭和37年)4月29日
国籍 日本の旗 日本
別名 フチ(幼名)
民族 アイヌ民族
出身校 香蘭聖書学校
職業 歌人、伝道者
宗教 キリスト教(聖公会)
(実父)向井富蔵(モコッチャロ)
(実母)フッチセ
(養父)ジョン・バチェラー
(養母)ルイザ・バチェラー
親戚 (弟)向井山雄
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バチェラー八重子(バチェラーやえこ、1884年明治17年)6月13日 - 1962年昭和37年)4月29日)は、アイヌ歌人キリスト教伝道者。「バチラー八重子」とも表記される[1]

生涯

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1884年明治17年)6月13日、北海道伊達町有珠戸籍名は「向井八重子」、幼名は「フチ」として生まれる[2]。父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロであった[2]。母は、フッチセであった[2]。なお、弟に向井山雄がいる[2]。父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師ジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認するまでになる。八重子が11歳の時、父の富蔵が亡くなる。13歳の時、ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出て、バチェラーが運営する「アイヌ・ガールズスクール」に通う[2]。さらに、東京のミッション・スクール香蘭聖書学校に通う[2]

1906年(明治39年)、八重子は、ジョン・バチェラーの養女となる[2]。22歳のことであった。なお、ジョン・バチェラーには、妻のルイザがいて、彼女ルイザがバチェラー八重子の養母となる[2]1908年(明治41年)、養父母とともにシベリア鉄道経由で英国に行き、カンタベリー大主教から伝道師として任命される[2]平取幌別の聖公会で伝道活動を展開する[2]。滞在中、各地で講演を行った。帰国後、北海道の幌別平取の聖公会教会で伝道活動を展開した。1912年(明治45年)には、ジョン・バチェラーと共に、樺太に行き、伝道活動を行う[2]

1931年昭和6年)に、バチェラー八重子による短歌の歌集『若きウタリに』が出版される[2]1936年(昭和11年)、養母ルイザ・バチェラーが死去し、札幌円山墓地に葬る[2]1940年(昭和15年)、養父ジョン・バチェラーは日英間の関係悪化に伴い日本を去り[3]1944年(昭和19年)にイギリスで死去する[4]。八重子は、日本に残したジョン・バチェラーの蔵書250冊ほどとその他の遺品を自宅に保管する[2]

1962年(昭和37年)4月29日関西旅行中に京都にて死去する[2]。77歳であった。

著書

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  • 佐佐木信綱 編『若きウタリに』竹柏会〈心の華叢書〉、1931年4月。全国書誌番号:54014368 
  • 『写真集 若きウタリに』掛川源一郎写真、研光社、1964年8月。全国書誌番号:64006700 
  • 「若きウタリに」『近代民衆の記録 5 アイヌ』新人物往来社、1972年6月。全国書誌番号:73022528 
  • 『若きウタリに』北海道編集センター〈復刻双書<北海道の名著> 第2巻〉、1974年2月。全国書誌番号:75003502 
  • 「若きウタリに」『アイヌ民族の魂』立風書房〈北海道文学全集 第11巻〉、1980年11月。全国書誌番号:81010750 
  • 『若きウタリに』岩波書店岩波現代文庫 文芸78〉、2003年12月。ISBN 9784006020781全国書誌番号:20549106 
  • 川村湊 編「若きウタリに(抄)」『現代アイヌ文学作品選』講談社講談社文芸文庫〉、2010年3月。ISBN 9784062900799全国書誌番号:21734025 
  • 谷川健一大和岩雄責任編集 編「若きウタリに」『民衆史の遺産 第13巻』大和書房、2018年7月。ISBN 9784479861133全国書誌番号:23071964 

伝記等

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脚注

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  1. ^ バチラー夫妻記念堂”. 北海道伊達市. 2021年2月13日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 文筆活動に生きた女性(向井八重子)”. 日本キリスト教女性史(人物編). 2021年2月13日閲覧。
  3. ^ 仁多見巌『異境の使徒 英人ジョン・バチラー伝』北海道新聞社、1991年8月29日、206頁。 
  4. ^ 仁多見巌『アイヌの父 ジョン・バチェラー』楡書房、1963年4月30日、178-179,197頁。 

外部リンク

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