バチェラー八重子
バチェラー やえこ バチェラー 八重子 | |
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知里真志保(左)とバチェラー八重子(右)
(1932年3月撮影) | |
生誕 |
向井 八重子 1884年(明治17年)6月13日 北海道伊達市 |
死没 | 1962年(昭和37年)4月29日 |
国籍 | 日本 |
別名 | フチ(幼名) |
民族 | アイヌ民族 |
出身校 | 香蘭聖書学校 |
職業 | 歌人、伝道者 |
宗教 | キリスト教(聖公会) |
親 |
(実父)向井富蔵(モコッチャロ) (実母)フッチセ (養父)ジョン・バチェラー (養母)ルイザ・バチェラー |
親戚 | (弟)向井山雄 |
バチェラー八重子(バチェラーやえこ、1884年(明治17年)6月13日 - 1962年(昭和37年)4月29日)は、アイヌの歌人・キリスト教伝道者。「バチラー八重子」とも表記される[1]。
生涯
[編集]1884年(明治17年)6月13日、北海道伊達町有珠に戸籍名は「向井八重子」、幼名は「フチ」として生まれる[2]。父は、アイヌ豪族の向井富蔵で、アイヌ名はモコッチャロであった[2]。母は、フッチセであった[2]。なお、弟に向井山雄がいる[2]。父の向井富蔵は、イギリス人の聖公会宣教師のジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認するまでになる。八重子が11歳の時、父の富蔵が亡くなる。13歳の時、ジョン・バチェラーを頼り、札幌に出て、バチェラーが運営する「アイヌ・ガールズスクール」に通う[2]。さらに、東京のミッション・スクール香蘭聖書学校に通う[2]。
1906年(明治39年)、八重子は、ジョン・バチェラーの養女となる[2]。22歳のことであった。なお、ジョン・バチェラーには、妻のルイザがいて、彼女ルイザがバチェラー八重子の養母となる[2]。1908年(明治41年)、養父母とともにシベリア鉄道経由で英国に行き、カンタベリー大主教から伝道師として任命される[2]。平取や幌別の聖公会で伝道活動を展開する[2]。滞在中、各地で講演を行った。帰国後、北海道の幌別、平取の聖公会教会で伝道活動を展開した。1912年(明治45年)には、ジョン・バチェラーと共に、樺太に行き、伝道活動を行う[2]。
1931年(昭和6年)に、バチェラー八重子による短歌の歌集『若きウタリに』が出版される[2]。1936年(昭和11年)、養母ルイザ・バチェラーが死去し、札幌円山墓地に葬る[2]。1940年(昭和15年)、養父ジョン・バチェラーは日英間の関係悪化に伴い日本を去り[3]、1944年(昭和19年)にイギリスで死去する[4]。八重子は、日本に残したジョン・バチェラーの蔵書250冊ほどとその他の遺品を自宅に保管する[2]。
1962年(昭和37年)4月29日、関西旅行中に京都にて死去する[2]。77歳であった。
著書
[編集]- 佐佐木信綱 編『若きウタリに』竹柏会〈心の華叢書〉、1931年4月。全国書誌番号:54014368。
- 『写真集 若きウタリに』掛川源一郎写真、研光社、1964年8月。全国書誌番号:64006700。
- 「若きウタリに」『近代民衆の記録 5 アイヌ』新人物往来社、1972年6月。全国書誌番号:73022528。
- 『若きウタリに』北海道編集センター〈復刻双書<北海道の名著> 第2巻〉、1974年2月。全国書誌番号:75003502。
- 「若きウタリに」『アイヌ民族の魂』立風書房〈北海道文学全集 第11巻〉、1980年11月。全国書誌番号:81010750。
- 『若きウタリに』岩波書店〈岩波現代文庫 文芸78〉、2003年12月。ISBN 9784006020781。全国書誌番号:20549106。
- 川村湊 編「若きウタリに(抄)」『現代アイヌ文学作品選』講談社〈講談社文芸文庫〉、2010年3月。ISBN 9784062900799。全国書誌番号:21734025。
- 谷川健一、大和岩雄責任編集 編「若きウタリに」『民衆史の遺産 第13巻』大和書房、2018年7月。ISBN 9784479861133。全国書誌番号:23071964。
伝記等
[編集]- 湯本喜作『アイヌの歌人』洋々社、1963年9月。全国書誌番号:63008332。
- 末武綾子『バチラー八重子抄』北書房〈北海道文学選集・女流小説集 3〉、1971年7月。全国書誌番号:75016022。
- 掛川源一郎『バチラー八重子の生涯』北海道出版企画センター、1988年3月。ISBN 9784832888012。全国書誌番号:89024541。