ハインリヒ・ホーレ
ハインリヒ・ホーレ Heinrich Hoerle | |
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ハインリヒ・ホーレ作、「未知の人工器官のモニュメント」(1930) | |
生誕 |
1895年9月1日 ドイツ、ケルン |
死没 |
1936年7月3日 ドイツ、ケルン |
ハインリヒ・ホーレ(Heinrich Hoerle、1895年9月1日 - 1936年7月3日)はドイツの画家である。 「ラインラント表現主義」(Rheinischer Expressionismus)や第一次世界大戦後はバールゲルト(Johannes Theodor Baargeld)やマックス・エルンストと「ケルン・ダダイズム」の画家として活動し、レーデルシャイト(Anton Räderscheidt)のグループにも属した。
略歴
[編集]ケルンで生まれた。ケルンの工芸学校(Kunstgewerbeschule)で学んだが絵は独学であった。1913年に両親の家にスタジオを開き、同じ年に美術家グループ「Lunists」に加わり、マックス・エルンスト(1891-1976)やオットー・フロイントリッヒ(1878-1943)とも知り合った。第一次世界大戦で、1916年から兵士として出征した。1917年に文芸誌「ディー・アクティオーン(Die Aktion)」に初めて作品が掲載された。
1919年に画家、写真家のフィック(Willy Fick)の妹でダダイズムの画家アンゲリカ(Angelika Hoerle:1899-1923) と結婚し、夫妻はケルンのダダイズムのグループ「Stupid」の創立メンバーとなった[1]。メンバーの画家のフランツ・ヴィルヘルム・ザイヴェルト(Franz Wilhelm Seiwert:1894-1933)とはザイヴェルトが亡くなるまで親友であった。1920年からザイヴェルトとダダイズムの雑誌「Der Ventilator」で活動した[1]。
ウラジーミル・タトリンやエル・リシツキーの「ロシア構成主義」や、フランスのフェルナン・レジェやオランダの「デ・ステイル」の技術家などの影響を受け自らのスタイルを作り上げた[2]。「新即物主義」の画家の一人とされることもある。1929年にザイヴァートらとケルンの前衛芸術家グループの雑誌を創刊した。ホーレ夫妻は結核に罹りアンゲリカは1931年に亡くなり、ハインリヒも1936年に亡くなった。
作品
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「労働者」(1922/1923)
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「工場労働者」(1926)
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「葉の絵」(1928)
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「水差しと梨のある静物画」(1929)
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マスク(1929)
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「憂鬱な少女」(1930)
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「2人の婦人」(1930)
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Zeitgenossen (1931/1932)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Backes, Dirk; Wolfram Hagspiel and Wulf Herzogenrath (1981). Heinrich Hoerle, Leben und Werk 1895–1936. Cologne. (Ausstellungskatalog Kölnischer Kunstverein)
- Michalski, Sergiusz (1994). New Objectivity. Cologne: Benedikt Taschen. ISBN 3-8228-9650-0
- Poore, Carol (2007). Disability in twentieth-century German culture. University of Michigan Press. ISBN 0-472-11595-2
- Schmied, Wieland (1978). Neue Sachlichkeit and German Realism of the Twenties. London: Arts Council of Great Britain. ISBN 0-7287-0184-7