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ノート:明智光秀/過去ログ1

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無題

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利用者:NiKeさんは理由もなく他人の書いた文章を改変しています。ブロック依頼しておきました。

Wikipedia:投稿ブロック依頼 2004年10月をごらんください。-220.99.31.227 2004年10月11日 (月) 11:13 (UTC)

著作権的に拙くはないのですか?

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山崎の戦いの件で桜田晋也氏の著書からの抜粋と書いてありますが、それはウィキペディアにおける著作権の規則にストレートに引っかかるのではないか? 他の方のご意見を聞かせてください。--水野白楓 2005年8月26日 (金) 13:18 (UTC)

  • 2005年8月26日 (金) 21:23 の版で、220.220.212.186氏 (ぷらら)が「桜田晋也氏著『明智光秀』から抜粋。」と記載
  • 2005年7月23日 (土) 23:52 の版で、 61.118.242.97氏(OCN)が「この説は井沢元彦氏著『逆説の日本史』より抜粋」と記載 --忠太 2005年8月26日 (金) 13:34 (UTC)

記事内容について

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  • 段々トンデモ説が幅を利かせてきたように思うのは私だけでしょうか?


私もそう思います。仮説として光秀(あるいは明智秀満)=天海説はどちらかというと際物的な説なのに、それがいかにも確実な話のように書かれています。ウィキペディアはあくまでも 百科事典ですから、その分を越えた事や、個人の憶測は控えるべきだとおもうんですが・・・・ 2006年6月1日、一利用者 以上の署名の無いコメントは、218.131.208.37(会話履歴)氏によるものです。--Sabulyn 2006年7月9日 (日) 06:30 (UTC)

同意します。とりあえず私は断言を避ける形で編集しました。全く嘘だというわけでもないし、他の方の記述を全て否定したくはなかったので。個人的には、何らかの根拠があるなら歴史について様々な主張があってもいいとは思います。でもそれはこの場には相応しくないでしょう。--ガリュウ 2006年6月11日 (日) 03:55 (UTC)

私も同感です……「某テレビ番組にて行われた筆跡鑑定では」とか「「世界ふしぎ発見」で行われた筆跡鑑定の結果では」などはソースとしてはかなり問題があると思いますし、「それに異論を唱える方が少なくないが」など、百科事典としてはそぐわない表現に思えます。少なくとも秀満=天海という説が「天海の素性に関して最も有力とされている」というのは聞いたことがありません。トホホ川 2006年6月26日 (月) 17:23 (UTC)

なんか本能寺の変の朝廷黒幕説のコメントアウト部に 「本能寺の変の原因について、今日においてもさまざまな説が出されているのは、その「朝廷黒幕説」の問題が本質にあるからとも考えられる。いずれにしても、本能寺の変の真相については、なお政治的に微妙な問題が含まれていることは間違いない。以上、核心に近づきつつあるのは確かであるが、歴史的事実はともかく、この場でそれを断言できるような社会環境には至っていない。」 と、やたら政治的云々と言うところに力点が入った記述が見られるが、そもそも立花説は他の一次史料などを根拠に様々な反論をうけているんですけど……。あと、山科言継は本能寺当時には亡くなっていますし。--水野白楓 2006年11月30日 (木) 09:39 (UTC)

本能寺の変の原因に列挙されている各々の逸話や要因として推測される事象などで、出典が書かれていないままのものが多く混沌としています。読んだ方の信憑性の判断の助けにもなると思いますし、少しずつでも埋めていきたいですね。また、各項目のボリュームが増えていったりカッコ書き連番が増えていくと、さらに読みにくくなりそうですね。--Kaeruh 2006年12月6日 (水) 05:34 (UTC)

明智光秀の子のところで、北の方(筒井定次の妻)とありますが、筒井定次の項を見ますと「妻は織田信長の娘、秀子」となって矛盾しています。どちらが正しいか調査をお願いします。--寂華 2007年1月3日 (水) 05:49 (UTC)

光秀が側室喜多村氏に産ませた喜多村弥兵衛の家に伝わる「明智系図」、光秀の長男光慶が出家して妙心寺の住職となったと伝えられる僧玄琳が書いた「土岐系図」の両方から見て、筒井定次の妻は光秀の娘を信長の養女として嫁がせたというのが正しいようです。永井寛さんの地道な研究により、かなり光秀の子女やその後が明らかになっています。手に入りやすいものとしては学研から出ている歴史群像シリーズの「俊英 明智光秀」の中に彼の調査結果が系図およびその説明となって出ています。すでに戦国史の研究はかなり進んでいて、渡辺世祐、高柳光壽の両氏の書いたものはほとんどが誤りであることがわかってきましたし、桑田忠親氏の新説もほとんど否定されています。天海=光秀説みたいなのはともかく(私はさまざまな傍証からみて、天海が光秀に近い親族である可能性はあってもおかしくないと思っていますが本人とは全く思いません。いくらなんでも本人なら、当時秀吉が逃がすはずはないからです。秀吉が信長の後継者レースでトップに立つためには光秀の首が信長の仇を討ったとアピールするためにどうしても必要でした)、基本的にかつての通説、俗説には無条件で信用をおけることが少ないようです。むしろこの20年ほどの間に進んだ研究結果こそが信用できると思います(もちろん新説の中にも憶測に近いものや誤っているものもあるでしょう。その取捨が大事です)。私自身、戦国時代に限らずいろいろな史料や書物を読んで、通説といわれるものの中にいかに根拠薄弱なものや小説や講談を鵜呑みにしたもの、朱子学や自己正当化などに基づいた一方的な決め付けが多いかを何度も痛感させられました。最上段のように通説や俗説に反するすべてをいちがいにトンデモと呼ぶのはどうでしょうか。たとえば明智光慶(光秀の嫡男、十五郎)と玄琳が同一人物である可能性は高いです。少なくとも玄琳が光秀の子であることはほぼ間違いないでしょう。以上によって、筒井定次、織田秀子、明智光慶の項を修正しておきます。--歴史研究家 2007年2月13日 (火) 06:05 (UTC)

徐々に整理していきましょう。「人物」節の第一項、最後の文が太字になってしまっていますね。ここを太字にすることは不自然に見えます。さらに内容も独自の研究結果の発表に見えます。この説の信頼性の確認のためソースを示していただけないでしょうか。「要出展」を挟んでおきます。--Hotsuregua 2007年1月9日 (火) 19:17 (UTC)

出展を示していただきありがとうございます。「本城惣右衛門自筆覚書等を考慮すると、光秀が信長を討とうとしている事はごく一部の家臣しか知らなかった事」という部分がその出展から読み取れる情報とお見受けします。それ以降の部分「むしろ兵の..(..の策略でもある)。」は、出展から発生した自説のようなものでしょうか。ノートにて説明お願いします。いずれにせよ太字は大げさで不自然と思いますが、太字にした本人及び他の方はどう思いますか。ご意見のほどお聞かせ願えれば幸いです。--Hotsuregua 2007年1月10日 (水) 11:30 (UTC)
Hotsureguaさんの仰るとおり、「本城惣右衛門自筆覚書等を考慮すると、光秀が信長を討とうとしている事はごく一部の家臣しか知らなかった」までは原典つきの史実と言うことで良いと思いますが、その後の「兵の大部分にとっては……策略でもある)」の部分は筆者の推測混じりの部分と思われるので微妙に思います。少なくとも太字にすべき内容ではないかと。 --トホホ川 2007年1月10日 (水) 14:20 (UTC)
修正済みです。--Hotsuregua 2007年1月13日 (土) 23:50 (UTC)
あっと言う間に元に戻されてしまったようですね。ノートで議論に参加してもらいたかったのですが。いずれにせよ「兵の大部分にとっては...策略であったとする意見」の部分は自説なのか出展があるものなのか不明なままですので再度、要出展を挟んでおきました。また、その次の項も、信長は人徳篤かったという趣旨で続きものなんですかね。「...と言える」と結んでいますがやはり自説なのか出展があるのか不明ですので、要出展を挟んでおきました。--Hotsuregua 2007年1月14日 (日) 12:28 (UTC)

以前補足として丹波味土野の口伝云々を編集させていただいた者です。明智氏や本能寺の変に関する資料は少なく随分いろんな説がありますが、検証するには本当は文字資料が欲しいですね。あるいは年代を鑑別できるもの。。しかし史実はこれらの中の一つとは言わずともそんなに多くはないはずですね。。

「桔梗紋をつけた謎の人物」とありますが、これは木瓜紋の「織田瓜」では?類似している桔梗紋の「五瓜に桔梗」とは明らかに花弁の形が違いますが。--模様砂漠 2009年1月29日 (木) 17:38 (UTC)

この度は自分の言葉たらずで申し訳ございませんでした。ご指摘のとうり桔梗紋と言うよりは、木瓜紋の内側にある隠された意味での桔梗紋ということで、「明智光秀=南光坊天海」説の根拠の一つとして主張する人達もいるのでこう記述しました。誤解を避けるために脚注を入れて手直しをしておきます。--秋吉越中掾平朝臣諒胤 2009年1月30日 (金) 21:57 (JST)

ありがとうございます。少しどこが違うかを加筆しておきました。--模様砂漠 2009年1月31日 (土) 17:42 (UTC)

追加項目

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記事はありませんが、ドラマに明智光秀~神に愛されなかった男~を加えてもいいでしょうか?

私は同意です。--Hotsuregua 2007年1月9日 (火) 19:05 (UTC)


歴史上人物の分析に関して

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・明智光秀や荒木村重が、信長より謀反を起こしたのは信長に対しての不満から・ と、いうのが一般的な説でしょうが、彼らは、“うつ病”に罹っていたのではないでしょうか?(罹っていたというのは御幣かもしれないが。)と、いうのが、私の見解の中にあるのですが、どうでしょう?  あと、これを踏まえて、歴史人物に対し、心理学的な考察を、加えてみてほしいのですが? いかがでしょうか?

 --狂気の森 2008年2月6日 (水) 14:47 (UTC)

Wikipediaの不文律として『個人の見解』を披露するというのは基本的にご法度なのです。しかしながら、例えば「明智光秀は鬱病に罹っていた」とする学者による文献等があれば、それを紹介するという形で未確定の仮説に関して言及する例は過去に幾多も存在します。まずは文献を探されては如何でしょうか。心理学的な考察を加えてみるチャンスは十分にあると思います。Kuro-hato 2008年2月6日 (水) 15:34 (UTC)

本能寺の変の原因の節について

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本能寺の変の原因の節は本能寺の変#首謀者者ともろかぶってるので、本能寺の変の方にまとめるべきじゃないでしょうか。--Blowback 2008年2月9日 (土) 06:36 (UTC)

一部転記の提案をしてみました。--彩華1226 2008年6月15日 (日) 15:57 (UTC)

「南光坊天海説」の節も南光坊天海との整合も併せて行う必要を感じます。--Suprise red 2008年6月26日 (木) 12:44 (UTC)

明智光秀家臣団のリスト

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明智光秀家臣団のリストを作成しました。参考に記述しておきます。

  • 明智五宿老
    • 斎藤利三(内蔵介)、明智秀満(三宅弥平次)、明智光忠(治右衛門)、藤田行政(伝五郎)、溝尾茂朝(庄兵衛、勝兵衛。三沢少兵衛尉秀次)
  • 明智三羽烏
    • 古川九兵衛、箕浦大内蔵(新左衛門)、安田国継(作兵衛。天野源右衛門)
  • 一族・譜代・美濃衆
    • 明智光近、明智孫十郎(本姓恩田で光秀の義弟)、明智巳蔵、明智九太夫、池田輝家、石森九郎左衛門、奥田景綱(宮内少輔)、奥田景弘、奥田庄大夫、可児才右衛門、可児才蔵、斎藤三存(与三兵衛)、斎藤利光(平三郎)、進士貞連(作左衛門)、瀬田左京、多治見国清(修理)、妻木広忠(藤左衛門)、妻木範熈(勘解由左衛門)、妻木範賢(主計頭)、妻木範武(忠左衛門)、妻木範之(七右衛門)、肥田家澄(玄蕃)、比田則家(帯刀)、藤田藤次郎、藤田行久(藤三)、藤田秀行(伝兵衛)、溝尾庄左衛門、三宅藤兵衛(綱朝)、三宅業朝(周防守)、三宅秀朝(式部大輔)、森勘解由
  • 旧幕臣衆
    • 伊勢貞興(与三郎)、一色藤長、一色昭秀、今峰泰正(新介)、上野秀政、諏訪盛直(飛騨守)、蜷川貞栄、蜷川貞房、御牧景重(三左衛門)、御牧景則(勘兵衛)、三淵藤英
  • 山城衆
    • 佐竹宗実(出羽守、蓮養坊)、佐竹左近允、佐竹称吉、山本秀勝
  • 近江衆
    • 明智秀貞(猪飼野半左衛門)、猪飼野昇貞、磯谷新右衛門尉、磯谷彦四郎、磯谷新介、磯谷新右衛門尉
  • 丹波衆
    • 荒木行重(山城守)、荒木重仲(友之丞)、宇野豊後守、梅若広長(梅若太郎の男子)、尾石予三、荻野重基(彦兵衛)、小畠国明(越前守)、明智伊勢千代丸(小畠国明の子)、小畠左馬助、小畠助太夫、加治石見守、河北一成(五郎左衛門)、酒井孫左衛門、四王天政孝(但馬守)、四王天政実(又兵衛)、田中盛重(山城守)、田中五内(理右衛門、のち志摩守。松井盛永。)、中沢知綱(豊後守)、並河易家(明智掃部)、並河八助、並河金右衛門(志摩守)、並河飛騨守(明智掃部)、藤木権兵衛、藤田藤八、波々伯部員次(権頭)、松田政近(太郎左衛門)
  • その他・不明
    • 阿木弥市、麻生吉左衛門、隠岐惟恒(五郎兵衛)、金津正直、木村吉清(清久。弥一右衛門。伊勢守。)、熊谷宅右衛門、柴田勝定(源左衛門。勝全。)、津田重久(与三郎。遠江守)、津田平蔵、津田正時(主水頭)、東行澄(六郎兵衛)、沼田光友、番頭大炊介(義元)、堀辺兵太、村上清国(和泉守)、村越景則(三十郎)、山崎長徳(長鏡、小七郎、庄兵衛、長門守、閑斎)

以上--Longlongsummer 2011年5月7日 (土) 11:48 (UTC)

明智光秀の記事の統合について

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南光坊天海説に関する掲載と除去の繰り返しについて議論のお願い

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本項目(明智光秀)、かごめかごめ本徳寺 (岸和田市) において、これまで何度も南光坊天海説に関する一部の記述と画像の掲載と除去が繰り返されております。除去される方の理由としては要約覧にNORが挙げられておりますが、掲載される方は要約覧に何もお書きになっておられないようです。しかし、記述に関しては(その信頼性の有無の判断は別として)出典は明記されております。今のところ、どちらも3RRに抵触してはおられないようなので、このままだとブロックも保護もされることなく延々と同じことが繰り返され、リソースの無駄になってしまいます。そこで、お互いの議論の上、掲載するのかしないのか、合意を得ていただきたいと思います。万一、どちらかの方が議論に参加されないようであれば、そのときはそちらの編集は無効ということにし、それでも編集が強行されるようなことがあったら、しかるべき対処をするということでいかがでしょうか。よろしくお願いいたします。--立花左近会話2012年4月5日 (木) 14:23 (UTC)

このユーザーはそもそもの記述において一切出典を示してきませんでした。そして今回は信頼性に乏しい情報源を「出典らしきもの」として提示するなど、これまで行われてきた再三の注意・警告にもかかわらずWikipedia:ウィキペディアは何ではないかWikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないの3大方針に版下反した編集の強行を続けています。そのため、すでに管理者伝言板への通告とブロックの依頼を行っております。そのため、記事のノートページでの議論ではなく、当該ユーザーへのコメント依頼ないしはブロック依頼を行うべきと考えます。--彩華1226会話) 2012年4月5日 (木) 15:05 (UTC)訂正--彩華1226会話2012年4月5日 (木) 15:21 (UTC)

なお、かごめかごめが天海光秀説という論拠の大元となっているのは岩辺晃三なる会計学者が出したトンデモ本であり、情報源の評価の観点(「高い学位は、その学位の専門分野においてのみ権威を与えます」、「広く知られてはいない」「支持されていない主張」「陰謀論を用いている場合」「念入りかつ懐疑的に調べるべきです」)から出典として許容できないことについても述べておきます。--彩華1226会話2012年4月5日 (木) 15:20 (UTC)

管理者伝言板への通告とブロックの依頼を行われたのであれば、さしあたり、そちらの結果を待ちましょう。しかし、最初は出典がなく、途中から件の出典を出してこられたのであれば、その時点で上記のようなことをご指摘して議論すればよろしかったのではないかという気がします。相手の方も積極的に会話するご意思がなかったのかもしれませんが、いずれにせよ各記事のノートや利用者の会話ページで一切つっこんだ議論がないのでは、理解が得られないのもあながち無理ではないような気がします。--立花左近会話2012年4月5日 (木) 16:15 (UTC)
コメント 南光坊天海説自体は日光の観光ガイドブックでも紹介されるなど、よく知られている俗説ですし、個人的には「かごめかごめ」との関連も、岩辺晃三なる人物の著書を出典にできる範囲については、あくまで俗説、オカルトの範疇の内容として扱う限り「そのような説もある」という内容で扱って構わないと考えます。「北海道料理のジンギスカン (料理)チンギス・カンが考案した」「エリア51ではUFOの研究をしている」といった俗説と同様、歴史的事実とは別に「大衆の間ではこのように信じられている」という文化的側面を紹介するのも、百科事典の使命であると考えます。
ただし。該当記述を加筆しているユーザーさんが提示している内容が、どの程度岩辺晃三氏の文献に基づいているのかについては、かなり疑問を抱いています。文献の内容を確認していないので何とも言えないのですが、該当記述で「出典」として示されているのは編集者個人による自説の開陳でしかありませんし、いくら図示によって自説の正しさを証明されても、「Wikipedia:検証可能性」の方針文書に「編集者が独自に検証できるからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはなりません」とありますように、ウィキペディアの掲載基準を満たしたことにはなりません。出典として示されている内容についても、テレビ番組は検証可能な情報源ではないのですから、本当にそのような番組が放送されていたのかを確認することはできず、テレビ番組から都合のよい部分を自説の補強に用いているだけの「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」ではないかという疑念を拭いきれません。
ウィキペディアの記事の書き方としては「こういう説を主張する者もいる」ことを、出典の明示によって示せば十分であるはずですが、自説に有利な情報だけを、この説がさも正しいかのごとく詳しく説明し、執拗に書き立てる態度からは、ウィキペディアを独自の考えを発表する場として利用しようとしているのではないかという疑念を強く感じます。--Kanohara会話2012年4月5日 (木) 17:56 (UTC)
コメントありがとうございます。テレビはおっしゃる通りですが、「かごめかごめ」に関しましては、岩辺晃三の文献の他に『陰謀と暗号の歴史ミステリー』も挙げられております。その二つを見ないことには、独自研究と断定はできないと思います。かくいう私もその二つを見たことはないのですが、高田崇史の『QED 東照宮の怨』で取り上げられたのは見たことがあり、その限りではこの説も図表も、編集者の自説ではないと考えております。しかし、それを掲載すべきか否か、するとしても掲載方法は適切なのかはまた別の問題です。その当たりがこれまで議論されることなく、一方は独自研究とされ、もう一方は反論されることもなく、延々と掲載と除去が繰り返されている状況がいかがなものかと思った次第です。--立花左近会話2012年4月6日 (金) 00:39 (UTC)

(インデント戻す)Wikipedia:管理者伝言板/投稿ブロックへの通報の結果を待とうと申し上げましたが、それ以降の通報でブロックされた方がいらっしゃるのに未だにブロックされておりませんので、編集者さんに呼びかけてみて、1週間を過ぎてもこちらにご意見が寄せられない場合は、対話のご意志がないと見て、問題の編集部分を除去するということでいかがでしょうか。それ以降にご意見があった場合は、議論により再掲載の当否の合意形成をしていただければと思います。また、1週間を経ずして編集者さんがブロックされた場合には、その時点で除去はやむなしと考えます。--立花左近会話2012年4月6日 (金) 00:39 (UTC)

掲載するに当たり、物議を醸し出しているようで恐縮です。彩華1226さんがおっしゃることを否定するつもりはありません。Kanoharaさんのご指摘どおり俗説の域を出ない(オカルトの範疇に入るかも)と思いますが、自説(独自見解)ではありません。出典を明記してあります。「岩辺晃三なる会計学者が出したトンデモ本」かもしれませんが、私は著者や出版社で偏見を持ったり、差別したりはしていません。 自説(独自見解)ではないし、出典を明記してあるので、削除されるのは納得いかなかったので、繰り返し掲載しましたが、問題視されてしまったようですね。 図は、スキャニングして掲載すると著作権等に抵触するので、自分で作成しましたが、これも自説ではありません。--Cosmocat会話2012年4月6日 (金) 22:54 (UTC)

コメント 自説ではないのでしたら、その記述にも出典として文献名を示すようお願いします。私はCosmocatさんの書き方を見て、文献には「光秀の位牌や肖像画には光秀が僧になったことを示唆する記述があった」ことが書いてあったと読み取れても、「後ろの正面」の意味の読み解きはCosmocatさんの独自研究なのではないかと思っていました。定説化しているわけではなく疑惑が持たれているような情報源を用いる場合、「Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源」に沿って、記事中に「○○によれば……」という形で示すことも検討してみて下さい。「Wikipedia:検証可能性#中立性」にもあるように、少数派の言説はあまり大きく扱うべきではないとされている点にも留意して頂ければと思います。--Kanohara会話2012年4月6日 (金) 14:30 (UTC)

Kanoharaさんのご指摘どおり「○○によれば(によると)……」という形で示してみました。改善点があれば、ご指摘願います。 --Cosmocat会話2012年4月7日 (土) 23:09 (UTC)

対話も行われましたし、記事の改善もしていただきましたので、Cosmocatさんがブロックされることはおそらくなくなったと思います。直近の書き込みより1週間が経過しておりますが、特にご指摘はございませんでしょうか。問題ないようでしたら、現在の各記事の記述を残す方向で、今回の「お願い」はクローズさせていただこうと思いますが。--立花左近会話2012年4月14日 (土) 23:38 (UTC)

Cosmocatさんは私の指摘について否定されておりません。私は「情報源の評価の観点から出典として許容できない」と指摘しております。岩辺晃三の項目に記述するならまだしも、明智光秀)、かごめかごめ本徳寺 (岸和田市)に記述することについては容認できません。--彩華1226会話2012年4月18日 (水) 15:16 (UTC)

Kanoharaさんからは、「岩辺晃三なる人物の著書を出典にできる範囲については、あくまで俗説、オカルトの範疇の内容として扱う限り「そのような説もある」という内容で扱って構わないと考えます」というご意見が出ています。そしてその後、掲載方法についてご意見があり、それに対してCosmocatさんさんが修正をしたわけですので、掲載が容認できるかどうかはお3方の間で合意を取ってください。それまでは、くれぐれも記載を除去することのないようお願いいたします。--立花左近会話) 2012年4月18日 (水) 21:51 (UTC) 誤字訂正--立花左近会話2012年4月19日 (木) 14:31 (UTC)

彩華1226さんがおっしゃることを否定するつもりはありませんと言ったのは、受け取り方は「ひとそれぞれだから」ということで、肯定した訳ではありません。抽象的な掲載基準はありますが、個々の案件に当てはめられる客観的具体的な基準はありません(それは無理です)。当てはめには必ず主観が入ります。管理者からブロックされた訳ではないので、そこに(管理者からブロックされたか否かに)判断基準を置いてもいいと考えますが。 --Cosmocat会話) 2012年4月19日 (木) 23:20 (UTC)--以上の署名のないコメントは、222.148.141.208会話/Whois)さんが 2012年4月19日 (木) 14:21‎ (UTC) に投稿したものです(IPユーザーによる偽署名の訂正彩華1226会話)による付記)。

Wikipedia:投稿ブロックの方針には「(投稿ブロックの対象となる)行為を故意に継続しており、複数利用者からの中止要請に応じない場合を条件とする。」とあります。あなたはこうして議論に参加されているのですから、ブロックされなかったことは何ら不自然ではなく、またブロックされなかったからといって、あなたの編集が正しかったと証明されたわけでもありません。
岩辺の説を、当該人物の項目に書くのは別として、学術的な主題である明智光秀かごめかごめ本徳寺 (岸和田市)に記述することはWikipediaの方針上やはり容認できないものです。記述することを容認できない理由として、情報源の評価に加えて、ウィキペディア日本語版の方針から3つの文章を引用しておきます。
「ある事柄が単に「検証可能」だからといって、それをウィキペディアに書いてよいとは限りません。」(Wikipedia:検証可能性#他の原則との兼ね合い
「学術的な主題については、なるべくピアレビュー(査読)を経た情報源を用いるべきです。」(Wikipedia:検証可能性#信頼できる情報源
「もしある観点が極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派に支持されているのであれば、それが正しいかどうかに拘らず、あるいはあなたがそれを証明できるかどうかに拘らず、その内容はウィキペディアで言及するに値しない。」(Wikipedia:独自研究は載せない#Wikipedia:中立的な観点
--彩華1226会話2012年4月21日 (土) 10:48 (UTC)
彩華1226さんが「記述することを容認できない」と主張することが理解に苦しみます。ウィキペディア日本語版の方針から3つの文章を引用していますが、方針の内容は抽象的だと思います。取り方次第で、都合のいいように扱えると思います。
まず「ある事柄が単に「検証可能」だからといって、それをウィキペディアに書いてよいとは限りません。」については、まったくそのとおりで、直接の根拠としては「?」だと思います。
次に「学術的な主題については、なるべくピアレビュー(査読)を経た情報源を用いるべきです。」については、「明智光秀、かごめかごめ、本徳寺 (岸和田市)」は、「学術的な主題」だけではなく「もっと広範囲な内容、性質を持っている」と思います。
三番目の「もしある観点が極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派に支持されているのであれば、それが正しいかどうかに拘らず、あるいはあなたがそれを証明できるかどうかに拘らず、その内容はウィキペディアで言及するに値しない。」については、「観点が極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派に支持されている」と誰が判断できるのですか?(神様でないと判断できないのでは?)
笠倉出版社が、通説、定説に対して、違った視点からアプローチした説を整理し、本を出版した中の項目の一つであり、必ずしも岩辺説だけが元ネタだとは思っていません。
やはり、管理者からブロックされたか否かに判断基準を置くべきと考えます。
--Cosmocat会話) 2012年4月22日 (日) 23:51 (UTC)--以上の署名のないコメントは、221.184.141.114会話/Whois)さんが 2012年4月22日 (日) 14:54‎ (UTC) に投稿したものです(IPユーザーによる偽署名の訂正彩華1226会話)による付記)。
コメント まず第一に。わざわざ指摘するまでもないこととは思いますが、管理者からのブロックが下されなかったことを何らかのお墨付きの証として見做すべきではありません。221.*.141.*さんの意見は、ウィキペディアにおける意思決定のプロセスである「Wikipedia:合意形成」から乖離しており、ウィキペディアが掲げる根本的な理念と相容れないと考えます。そもそも「Wikipedia:管理者#一般の参加者とどう違うのか」にあるように、管理者の意見を特別視するべきではないし、管理者が下す投稿ブロックの判断にそのような価値を背負わせるべきではありません。それは本来公正に下されるべき投稿ブロックの判断に、どちらかに肩入れすることを強いるものです。
それは別にして。彩華1226さんが掲げる、学術的な主題については信頼性が乏しい文献を使ってはならないという主張も、私にはやや奇異に聞こえます。明智光秀が南光坊天海となって生き延びたという俗説を大真面目に信じている方がいるのなら申し訳ないのですが、これは「義経=ジンギスカン説」「徳川家康の影武者説」などと同様の俗説、伝説の類であって、学術的な題材として論じられるものではないと考えます。伝説を史実であるかのように書こうとしたり、俗説でしかないものを学術的に書こうとしても、結局は事実関係がはっきりしないものを無理矢理事実に見せかける虚飾にしかならないでしょう。一方で明智光秀=南光坊天海説自体は無視できるほど無名というわけではありませんので、節自体をバッサリ除去するような編集にも反対です。ここは、こうした説を大真面目に研究している有力な学者が会計学者くらいのものである、という事実を提示するほうが、結果的には記事の信頼性を高める結果になると考えるのですが、どうでしょうか?--Kanohara会話2012年4月23日 (月) 04:45 (UTC)
コメント 管理者からブロックされたか否かは判断基準にならないことは、既に上で複数の方々から示されていますので繰り返しません。なお、Wikipedia:中立的な観点/FAQには、こうあります。「むしろわれわれの任務は、主流派の(科学者の)意見を主流派のものとして提供し、少数派の(時として擬似科学的な)意見を少数派のものとして提供し、更に、科学者がそれら疑似科学の意見をどのように受け止めているかを説明することです」。最もよい解決方法は、明智光秀=南光坊天海説について言及している歴史学者の意見を併記しつつ、最小限の分量に抑えるというものかと思われます。--ろう(Law soma) D C 2012年4月23日 (月) 10:08 (UTC)
コメント私の言葉が足らなかったため、誤解を与えてしまっているのであれば申し訳ありません。私は「光秀=天海」説という人口に膾炙した複数の信頼できる情報源からの言及がある巷説について掲載すべきではないと主張してはいません。「かごめかごめが光秀=天海を意味している」という説は、情報源としての評価に乏しく「ウィキペディアで言及するに値しない」ため、説を唱えている人物の項目以外で記述すべきではないと申し上げております。--彩華1226会話2012年4月23日 (月) 13:48 (UTC)
光秀=天海説が俗説であることは承知の上で、通説定説に対するいわゆる異説を広く周知することが有益だと思い掲載しました。広く周知すること自体が目的であり、学術的な題材として論じるつもりは毛頭ありません。Law somaさんからご指摘を受けた「最小限の分量に抑える」ということですが、今掲載されている現状から文言を削除すると文章的に成り立たなくなってしまいます。最小限の分量に抑えられたスマートな文章を作成することは私の力量ではできません。現状のどこをどういう風に改善したらよいか、具体的にご教授願います。
管理者からのブロックが下されなかったことをお墨付きの証とは全く考えていませんが、彩華1226さんが節自体をバッサリ除去することをご所望しているようなので、管理者からブロックされたならバッサリ除去されてもいたしかたないと思ったまでです。
--Cosmocat会話2012年4月23日 (月) 23:27 (UTC)
正直申し上げてただでさえ光秀=天海説の分量が多いのに、その補強説の1つに過ぎないものが他の根拠に比べて文章量が多い現状には疑問があります。「天海の廟所(日光)、光秀の出身地(岐阜県可児市)、光秀の唯一の肖像画(大阪府岸和田市)が一直線に位置しており、かごめかごめの歌詞は、この関係を暗に示しているという説」程度でよいと思います。書名は脚注にし、それを超える詳しい記述は岩辺晃三に書くべきかと。--ろう(Law soma) D C 2012年4月24日 (火) 02:20 (UTC)
Law somaさんからご指摘を受けた「文章量が多い」ことについて、「かごめかごめ」の項についてはおっしゃるとおりだと思いましたので、私なりに手直ししてみました。「明智光秀」「本徳寺」の項については、Kanoharaさんのご指摘どおり「○○によれば(によると)……」という形で一度手直しした経緯があり、書名は脚注にしてとのご指摘を受けましたが、私としては「○○によれば(によると)……」がふさわしいと個人的に思っております。
かごめかごめの歌詞と光秀=天海説の関係を扱ったのが、岩辺晃三オンリーのような扱われ方をされていますが、疑問を感じます。
--Cosmocat会話2012年4月29日 (日) 22:45 (UTC)

はっきり言ってしまいますと、トンデモ説の宣伝にしか見えないんですよ。他の1から8までの項目が1文程度なのに、かごめかごめ説だけ、ご丁寧に自作の地図まで貼って、いちいち説の詳細を書いているのが。--彩華1226会話2012年5月3日 (木) 00:59 (UTC)

まだはっきりとした合意ができたわけではないのに、再び除去と掲載が行われていますが、どういうことでしょうか?([1][2][3][4]) ここまでの議論を拝見すると、件の記述を三つの記事から完全に除去することについては合意は得られなかったと思われますが、分量は他の根拠と比べて多過ぎることのないようにし、詳細は岩辺晃三に書くべきというところが大勢と思われます。Cosmocatさんは、もっと文章を整理し、画像の掲載についても一考されてはいかがでしょうか。また、「かごめかごめの歌詞と光秀=天海説の関係を扱ったのが、岩辺晃三オンリーのような扱われ方をされていますが、疑問を感じます」ということなのですが、今の書き方だと『陰謀と暗号の歴史ミステリー』に載ったということだけで、誰が提唱し誰がそれをどう評価しているのかがよくわかりません。「○○によれば(によると)……」にするにせよ、書名を脚注にするにせよ、そのあたりははっきりさせた方がいいと思いますがいかがでしょう。いずれにせよ、みなさんで適正な文章量と掲載方法について合意形成をし、これ以上除去と削除の繰り返しをなさらないようにお願いいたします。--立花左近会話2012年5月7日 (月) 00:50 (UTC)

「はっきり言ってしまいますと」「トンデモ説」「しか見えないんですよ。」「ご丁寧に」「いちいち」
ひどい言われ方をされてしまい、かなり応えています。
削除された様子から、次の点が感じられましたので(私が勝手に感じたので、取り違えていたら謝ります)、変更しました(手直しという表現を使うと正しくしたみたいに取られかねないので(何が正しいか私にはわかりません)、変更という表現を使いました)。
「かごめかごめ」の項は、全削除だったので、掲載自体が悪のようです。⇒全削除は納得できなかったので、文章を短くし、画像を消去した上で掲載しました。
「明智光秀」の項は、全削除ではなかったものの、全削除に匹敵する文章の削り方でした。やはり、本音は全削除でしょう。⇒上記かごめかごめと同様、全削除と同様な扱われ方には納得できなかったですが、文章を短くし、画像を消去した上で掲載しました。
「本徳寺」の項は、手つかず(削除も手直しもされていなかった)でした。⇒この項からは削除されていなかった(単なる削除忘れだったかもしれませんが)ので、編集者の氏名を追加し、若干変更したうえで、画像もそのまま掲載させていただきました。
項により、分量等を調整してみましたが・・・・、
何をしても削除しない限り、ご満足いただけないんでしょうね。
--Cosmocat会話2012年5月7日 (月) 23:50 (UTC)
繰り返しますが、これまでの議論で、完全に除去することに対しては合意が得られておりませんので、そこまでする必要はないと考えます。南光坊天海説の他の根拠と比べて文章量を多過ぎないようにする、できれば必要最小限にすればよろしいかと。それと、詳細を「岩辺晃三」の記事に書くのは誰も反対していないのですから、そのようにして、そちらへ誘導するというのも一つの方法ではないでしょうか。--立花左近会話2012年5月7日 (月) 22:48 (UTC)
◆案として編集してみました。削除まではしなくともよいと何度も言われているのに「何をしても削除しない限り、ご満足いただけないんでしょうね」などと感情的なことをおっしゃるのは建設的ではありません。私のした編集に異論があれば、修正して頂いて構いませんが、おそらく多くの方を納得させる必要があるのではないかと思います。--ろう(Law soma) D C 2012年5月8日 (火) 00:09 (UTC)
うまく修正していただき、ありがとうございました。
--Cosmocat会話2012年5月8日 (火) 22:45 (UTC)

その後、コメントがありませんが、皆様、各記事での記載は現在の状況で問題ないということでよろしいのでしょうか。特にご異論がないようでしたら、本件はクローズの方向にしたいと思いますが。--立花左近会話2012年5月16日 (水) 01:26 (UTC)

特にコメントはないようですので、本件はクローズしたいと思います。皆様、ご議論ありがとうございました。--立花左近会話2012年5月23日 (水) 12:32 (UTC)

今後の注意事項

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本項目(明智光秀)、かごめかごめ本徳寺 (岸和田市) における、童謡かごめかごめにまつわる明智光秀=南光坊天海説の記述は、上記議論による合意を経たものです。今後、それらの記述の完全除去または大幅な加筆をする際には、本記事のノートなどで合意形成をしてから行うようお願いいたします。--立花左近会話2012年5月23日 (水) 12:32 (UTC)

咲村庵『明智光秀の正体』ブイツーソリューション、2017年について。

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咲村庵『明智光秀の正体』ブイツーソリューション、2017年ですが、これは自費出版の書籍であって、WP:SELFPUBLISHのいう「自主公表された情報源」に当たりますので、方針上、明確に出典として使用不可能なものです。当該書籍による記述や説は除去すべきものとして修正しましたが、差し戻されています([5])。個人ブログなどを出典としている場合と同様に、本来であれば議論の余地なく除去の対象だと思いますが、[6]のように除去するということで、ノートで合意を得たいと思います。すでに当該書籍を出典として使用された編集者の方には、利用者‐会話:Putiii#咲村庵『明智光秀の正体』を使用することについてで方針をご案内したのですが、ご理解いただけませんでした。ご意見お願いします。--伊佐坂安物会話/履歴) 2018年11月3日 (土) 11:56 (UTC)修正--伊佐坂安物会話/履歴2018年11月3日 (土) 12:05 (UTC)

大いに同意いたします。作者について色々調べましたが、この書籍に関することでしか発見できませんでした。また、他にも瀬田の唐橋弥助織田信忠安土城本能寺の変でも出典として利用されていることを確認しましたので、こちらも併せて除去すべきと考えます。--Hideokun会話2018年11月3日 (土) 12:09 (UTC)
明智光秀の研究については、現在歴史学会で研究がなされておらず、近年の発見などの情報を記載するには学術書以外の文献から引用せざるを得ないものです。本能寺の変の研究については、現在の学会では藤田達生氏しか研究を続けておらず、こちらについても学術書以外の文献から新説の情報などを得る必要があります。光秀天海説については、これを研究している研究者はいないので、これも学術書以外から引用する必要があります。明智光秀の項に書き込みした記事は、すべて一次資料と照らし合わせて誤りがない記事を書き込んでいます。誤りのない記事を削除するということは、理由なく削除することと同義と考えます。また、学術書以外の文献からの引用について、明智光秀の項全体にわたって精査するのならまだしも、明智光秀の項には根拠が示されていない箇所、個人のホームページを根拠とする箇所が存在し、それらを放置したまま、当該根拠文献のみを問題視するのはいかがなものかと。まず、根拠なしの箇所、個人ホームページを根拠とする箇所の問題から取り上げるべきと考えます。--Putiii会話2018年11月4日 (日) 00:48 (UTC)
返信 (Putiiiさん宛) 近年の研究者の書いた明智光秀や本能寺の変に関する論稿がない(あるいは藤田達生さんだけ)ということはありません。例えば、ネットで本文が読めるものだと田端泰子「明智光秀の親族・家臣団と本能寺の変」女性歴史文化研究所紀要18号、2010年([7])というものがあります。藤田達生福島克彦(編)『明智光秀 史料で読む戦国史』八木書店、2015年([8])とか、一般書ですが研究者が執筆しているものとして、『ここまでわかった本能寺の変と明智光秀』洋泉社、2016年([9])、盛本昌広『本能寺の変 史実の再検証』東京堂出版、2016年、木下昌規「本能寺の変」『信長軍の合戦史』吉川弘文館、2016年。 、柴裕之(編著)『図説 明智光秀』戎光祥出版今月刊行)などがあります。本能寺の変であれば、四国政策とか石谷家文書とかの関係で近年でも多数の研究者による言及があるでしょう。--伊佐坂安物([[利用者‐会話:: 返信 (Putiiiさん宛) |会話]]/履歴2018年11月4日 (日) 04:07 (UTC)
返信 (伊佐坂安物さん宛) 研究者とは、歴史学会で発表している方を指しています。渡辺大門氏はライターに該当すると思われます。上で挙げられている論文はいささか古く、例えば米田文書に言及した論文はありません。本能寺の変研究については、藤田氏のほか盛本氏も著書を発表していると思います。石谷文書は藤田氏が言及しているので私も知っています。いずれにせよ、明智光秀の前半生及び本能寺の変の学会での研究は沈滞しています。また、今回問題になっている範囲は、上で挙げられた論文とはあまり関係がないところです。本能寺の変の本願寺説は、公家の日記から導き出されたもので、上に挙げられている論文と重なり合う部分はほとんどありません。--Putiii会話2018年11月4日 (日) 05:38 (UTC)
返信 (Putiiiさん宛) 私の挙げたのは渡辺大門氏ではなくて木下昌規氏の文章ですね(余談ですが渡邊氏はいろいろ批判もあるそうなので鵜呑みにすべきではないですが、博士号あるそうですし、『日本歴史』にその研究書の書評が掲載されてますから研究者の範疇だとは思います([10])。)。それで、咲村庵さんの書籍を用いた記述について個別に検討すると、
  • 生年 - 通説の享禄元年説と谷口克広の永正13年説のみを記述しておけば十分だと思われます。ちゃんと調べたわけではないのですが、例えば手元の新書の呉座勇一『陰謀の日本中世史』p.249も「より信頼性の高い『当代記』」に基づくものとして谷口克広の説を採用しているのでこの説が有力なのではないでしょうか。なお、谷口氏は学位こそありませんが、池上裕子『織田信長』吉川弘文館2012年、や金子拓『織田信長』河出書房新社2017など多くの研究者がその著書に依拠している専門家です。上で挙げた『ここまでわかった本能寺の変と明智光秀』洋泉社、2016年([11])には、「光秀家臣団の構成や出自はどこまでわかっているのか?」という谷口克広氏の文章がありますから、これを出典にすればよいでしょう。
  • 「明智頼明の猶子だった」という説 - 何の史料によるのかが不明ですし、研究者のあいだで支持されているということでもなければ記述しないほうがよいでしょう。
  • 明智家の滅亡年 - 同上
  • 米田家文書 - これについては藤井讓治編『織豊期主要人物居所集成』第2版、思文閣出版、2016年。の訂正一覧のPDF([12])のp.13に光秀との関連が書かれています。第2版では本文にも反映されているようですし(当該部分の執筆者は早島大祐)、元ネタは、村井祐樹 「幻の信長上洛作戦 : 出せなかった書状/新出「米田文書」の紹介をかねて」古文書研究 (78)、2014年([13])という学術論文だそうなので、咲村さんの本ではなくてこの2つを出典にすれば良いでしょう。「光秀が朝倉家に仕えていたとする説に疑問」の部分は咲村さんの独自説ということであれば除去。
  • 「明智家が滅亡した後に美濃を出た明智光秀は室町幕府奉公衆となったとする説」 - なくても意味は通じますし、不要だと思います。
  • 「光秀は低い身分ではなかったという見方」 - すでに上の二段落で十分に説明されているので、この記述自体が蛇足です。
  • 「石山本願寺と羽柴秀吉実行犯説」 - 申し訳ないですが咲村さん以外に取り上げている方はいないと思いますし、「両者の共謀を推測」という推測止まりなのであれば書くべきではないでしょう。
  • 光秀天海説 - Putiiiさん自身が認めているように「これを研究している研究者はいない」俗説なのですから、記述を肥大させることはないでしょう。
  • 「『淡海国木間攫』には、明智十右衛門尉(略)」 - 記述自体の重要性が乏しく、出典の是非にかかわらず載せる必要はないでしょう。
  • 「創作された系図ではないか」 - 不要。系図については田端泰子氏による上記の論文があるのですから、これを出典にすればよいでしょう([14])。
要するに、いずれの論点についても、研究者による説(それもできるだけ他の研究者による支持のある説)を載せれば問題ないということです。もちろんウィキペディアの出典として咲村庵『明智光秀の正体』が使えないからと、この本に価値がないというわけではありません。おそらくよく調べて書かれた本なのだとは思います。ただ、WP:VWP:RSなどのルールに照らしてウィキペディアではこの書籍は出典として使えないというだけです。--伊佐坂安物会話/履歴) 2018年11月4日 (日) 06:58 (UTC)修正--伊佐坂安物会話/履歴) 2018年11月4日 (日) 07:05 (UTC)再度修正--伊佐坂安物会話/履歴2018年11月4日 (日) 07:53 (UTC)
返信 (伊佐坂安物さん宛) 注の部分をあなたが読んでいないので二度手間になります。生年については、明智物語に1549年に光秀は元服前だったという記述があるので、これを載せる必要があります。明智物語は1610年代に成立した元明智家臣の回想録なので、作者、成立年ともに不明な明智軍記より信頼できます。ちなみに明智物語は内閣文庫に所蔵されている文献で関西大学が活字化したもの。明智頼明の猶子だったも明智物語出典。明智家の滅亡年は沼田土岐家譜出典。本能寺の本願寺説は、この説が組み立てられるまでに公家の日記を精密にひも解いており、これまで公家の日記を研究者が詳細に読むことがなかったことからも画期的な説です。光秀天海説について、俗説だから言及する必要はないとすると、wikipediaの本来の趣旨と離れてしまうでしょう。また、光秀天海説で削除された筒井家の改易や光秀の孫が助命された件については、歴史の事実なので記載してもよいでしょう。『淡海国木間攫』の重要性についてはあなたが判断するものではありません。光秀の祖父にあたるかもしれない人物のことが書かれている江戸時代の文献なので重要です。また、先ほども書きましたが、光秀に関する正式な研究が下火なので、学会で研究されていない文献を根拠とした記述については、実際の文献の解釈、引用に誤りがなければ記載してよいと考えます。そうでなければ、明智光秀の記事は研究者が重い腰を上げるまで凍結されてしまうことになるからです。--Putiii会話2018年11月4日 (日) 08:45 (UTC)
明智物語はウィキペディア用語の「一次資料」(史料ではなく)ですので、それに基づいたウィキペディアン独自の説はWP:PSTSの観点から掲載不可能です。咲村さんの本はWP:SELFPUBLISHの観点から二次資料としては使用不可。明智物語が重要だと言っている研究者がいないのですから百科事典に載せるべきではありません。「百科事典の場合では事実とは、その主題についての学者や専門家の共通認識によって同意された記述」(WP:RS)のことです。Putiiiさんの主張はウィキペディアの方針・ガイドラインに明確に反しています。「いつまでも「納得」しない」状態になっていることを自覚してくださらないと、早晩「WP:BP#コミュニティを消耗させる利用者」として投稿が制限されるでしょう。--伊佐坂安物会話/履歴2018年11月4日 (日) 09:01 (UTC)
返信 (伊佐坂安物さん宛) よく読んでおられないようです。明智物語は、原文がそのまま活字化されたもので、現在販売されている兼見卿記と同じようなものです。ウィキの光秀のページ内に「信長に七盃入りの大きい盃に入った酒を強要され、下戸の光秀が「思いも寄らず」と辞退すると、信長に「此の白刃を呑むべきか、酒を飲むべきか」と脇差を口元に突き付けられ酒を飲んだとしている(湯浅常山『常山紀談』」とありますが、このような記事が載っていることから、同様のスタイルの記事を投稿することに問題はないと思います。--Putiii会話2018年11月4日 (日) 11:44 (UTC)
史料の取捨選択をするのは専門家のすること、Wikipediaで匿名で投稿する我々のする作業ではありません。もし使いたいのであればまず当該書籍の著者の経歴を明らかにすべきでしょう。大学、なんらかの専門機関の裏付けのある研究家である、なんらかの学会に所属している、もしくは当人は無名ではあるが学会において議論を起させる切っ掛けになった、書籍がある程度権威ある出版社から出版された等々…。少なくとも当該書籍の著者は単純なグーグル検索でもこの書籍に関すること以外では引っかかりません。これではただの素人が研究したのをどこも出版してもらえないから自費出版したとしか考えられません。つまり資料としては読み物レベルであって、なんらかの研究に使われるような代物ではないということです。大学の卒業論文でも使用することはできないでしょう。
上で色々と史料批判をなされていますが、Putiiiさんは各書籍の内容を批判できるレベルの地位であるということでしょうか?我々はあくまで素人、独自研究のオンパレードになる事を避けるために伊佐坂安物さんが上記されたことを説明されているわけです。
ただ、これはあくまでも現段階での話、歴史というモノは常に研究されており、新たな説が登場し、今までの説が否定されることは多々ある話です。あくまでも現段階では素人研究に過ぎないこの書籍に記載されている説が将来、見直されることがあるかもしれません。その時までWikipediaはあることでしょう、気長に待たれるのが吉だと思います。現段階ではこの書籍に拘泥することで投稿できなくなる可能性もありますのでご注意までに。--Hideokun会話2018年11月4日 (日) 12:50 (UTC)
返信 (Hideokunさん宛) では、そのようにいたしましょう。--Putiii会話2018年11月4日 (日) 14:05 (UTC)
  • コメント依頼から来ました。自費出版書籍や本職の歴史学者でない方が書いた本でも、学会誌で評価されているなどある程度信頼性がありそうだと思われるものであれば出典に使用できることもあると思いますが、この本はそうではないようですし、郷土史などのあまり資料が見つからないような題材ならばともかく、明智光秀でわざわざ自費出版書籍を使うことはないと思いますので、記述の除去・整理に賛成します。--さえぼー会話2018年11月5日 (月) 01:53 (UTC)
  • 同じくコメント依頼からです。咲村庵氏は少なくとも本職の研究者とは言えないと思われます。その自費出版書籍となるとやはり出典としては不適当だと思います。実際に明智光秀についての研究がそこまで下火とはあまり思わないのですが、仮にPutiiiさんが指摘する通り現在研究が進展していないのだとしたら「明智光秀の記事は研究者が重い腰を上げるまで凍結されてしまう」ことはむしろ正当で、研究者による調査研究を待たずに新たな知見を追加していくのはWikipediaの記事のあり様ではないと思います。また、他の記事やこの記事内に同様の問題点があるかどうかは、この問題点を許容すべきかどうかと関係はないと思われます。あまり追加で書くことが無い程度に既に論じられているのですが、一応コメントさせていただきます。--TEN会話2018年11月5日 (月) 07:24 (UTC)
Putiiiさんにもご同意いただけたようですし、当該書籍の記述を除去することで合意が得られたとしてまとめたいと思います。なお、他にも自費出版書籍等を根拠とする説などが記載されていたのでその部分も除去し、また、生年と米田文書については上記の『織豊期主要人物居所集成』を利用して記述を修正しています。Hideokunさんのご提案どおり、他の記事においても咲村庵氏の書籍を出典とする記述は除去しました。コメントいただいた皆様、ありがとうございました。--伊佐坂安物会話/履歴2018年11月11日 (日) 04:01 (UTC)
本能寺の変の記事で咲村庵『明智光秀の正体』による記述を除去したところ別の方に差し戻されましたので、改めてノート:本能寺の変#咲村庵氏の著書についてで議論を行っています。--伊佐坂安物会話/履歴) 2018年11月11日 (日) 07:42 (UTC)修正--伊佐坂安物会話/履歴2018年11月11日 (日) 08:32 (UTC)

見出し「丹波国の平定と福知山城」について

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これは「福知山城」の丸写しじゃないですか?(しかも微妙に間違っている) それよりも、この項目においては光秀の生涯「織田家に仕官」において既に述べられた事柄であり、別見出しで書く程の内容ではないと思います。流れとしてもここに入れるのはおかしいですし。

更に、福知山音頭において光秀ゆかりの歌詞は多々ありますが、「殿様」と言われているのは光秀のことではありません。 見出しごと削除したいのですが、いかがでしょう。 --以上の署名の無いコメントは、FAT26会話投稿記録)さんが 2006年9月27日 (水) 02:59 (UTC) に投稿したものです。

幼名について

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系譜の冒頭に「幼名は桃丸」とありますが出展はあるのでしょうか? 桃丸の名はネット上では光秀の幼名としてよく出てきますが、光秀の前半生については幼名も含めてほとんど明らかになっていないのでこの部分は出展が明らかでない限り削除したほうがいいように思います。 --以上の署名の無いコメントは、125.30.33.180会話/Whois IPv4IPv6)さんが 2007年6月13日 (水) 17:12 (UTC) に投稿したものです。

敵は本能寺にありの発言

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実際は明智光秀本人はこのあまりにも有名な言葉は発言していない。 この発言は江戸時代の詩人頼山陽が書いた詩本能寺の内容の一節に出てくる文章である。 あくまで後世の脚色に拠る物である。 これ以外にも「本能寺の堀の深さは如何ほどになるか」がある。 しかしこちらは余り世間の認知度合いは低い。 --以上の署名の無いコメントは、218.228.193.122会話/Whois IPv4IPv6)さんが 2007年10月30日 (火) 20:48 (UTC) に投稿したものです。

「細川ガラシャ展」展覧会図録につき

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特別:差分/72686729/72695546について、簡単に調べてみました。

以上から、「出典が2018年9月24日会期後に通信販売も終了した展覧会図録で検証可能性がありません。」というのは、おそらく正しくないのではないでしょうか。まだこの図録を実見していないため、差し戻さずノートに記すに留めますが、奈良たかしさんもお手すきであれば図書館でこの資料を探していただくようにお願いいたします。--Rasalghul会話2019年5月10日 (金) 12:01 (UTC)

熊本県立美術館の展覧会なので同県立図書館にあるのは当然ですが、現状の各地図書館への収蔵から見ると検証可能性があると判断しなければなりませんね。実見以前にとりあえず私の方で戻しておきます。--奈良たかし会話2019年5月10日 (金) 13:23 (UTC)

惟任は名字か姓か?

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現在の記事では、明智光秀は惟任氏を賜姓されたとありますが、加筆の参考にしようとしていた柴裕之氏の『シリーズ・織豊大名の研究 第八巻 明智光秀』の総論(19ページ)には「惟任の名字と受領名『日向守』とを与えられ(以下略)」となっております。賜姓だとすると、秀吉における豊臣と同じ姓(カバネ)になりますし、名字を与えられたとすると秀吉における羽柴を与えられたのと同じ意味合いになるかと思いますが、どちらが正確なのでしょうか?--水野白楓会話2020年7月8日 (水) 22:09 (UTC)

コメント どの史料かは申し訳ないことに失念しましたが、秀吉が「豊臣」を賜姓された当時に、大江広元が、中原から先祖にあたる大江氏への改姓の際の手順の史料を探して参照したとかの公家の日記があったような気がします。また、光秀が改姓は他の織田の重臣と共に既に名跡が途絶えたか途絶えそうになった名族の氏姓を継がせるつもりで信長から与えられたようなので、先述の件と合わせて朝廷からではなく、また「惟任氏」はさらに「大神姓」([15])のようなので名字になるかと思います。--ジャムリン会話2020年7月9日 (木) 01:00 (UTC)
天正3年7月3日に信長は官位を断り、思うところあり、光秀らに惟任と日向守の名乗りを許しています。これは最近の金子拓『信長家臣明智光秀』2019年、pp.140-142でも指摘されています。『信長公記』第8巻角川文庫p.191でも信長が「なされ」としています。つまり「賜姓」だと言われているのはこのときは間違いなのです。信長がそう名乗りをさせたということで、名字を与えたということになります。おそらく官位も織田信長家の自称ということになります。なぜなのかこの意味は。この名乗りの意味は金子拓先生もわからないとしています。--奈良たかし会話2020年7月9日 (木) 03:39 (UTC)

出典25につきまして

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wikipedia初心者ゆえ見当違いな話でしたら大変申し訳ないのですが、「青年期」の項の記載とその出典が、ヤフー知恵袋の回答となっています。さすがに出典として使うには精度が低すぎますし、記載を削除するか要出典の状態に留めるのが妥当かと思うのですが、いかがでしょうか。 Walla rew会話2020年7月27日 (月) 00:24 (UTC)