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ノート:文禄・慶長の役/過去ログ1

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文禄・慶長の役全般の編集について

Category:文禄・慶長の役を色々いじってみましたので加筆添削をお願いします。人名などの記事候補は利用者:Yasumiにも少し纏めてみましたが、もう少し主導的立場にあった人などを充実させたい物です。yasumi 2007年10月21日 (日) 12:09 (UTC)


大幅に加筆してみました。ご意見お願いします。yasumi 2006年3月20日 (月) 05:43 (UTC)

鼻切りは最近ではベトナム戦争でも普通に行なわれていた、歴史上の戦争では至極一般的な行為であり、特筆に価するか否か疑問 ←本文側へ書き込まれたご意見ですが、第二次晋州城攻略戦あたりから日本の戦国風の農民保護の戦争スタイルから、一揆と見なした反抗農民の撫で切り戦略への転換があったり。消極大名が取り潰されたプレッシャーによる功名争いと戦果確認のための鼻切り、それから耳塚に至る過程は歴史的に重要かと思います。また鼻切りは時間と場所が限定されていることも考慮する必要がありますし、誰か纏めてくれないかな…yasumi 2006年4月10日 (月) 06:12 (UTC)

現在、明の武将劉挺を劉テイに改名することがノート:劉挺で提案されていますので議論に加わってください。
また、鄧子龍はトウ子龍、記事がないですが申砬も申リツが良いのではないかと思います。
その他、まだまだ見直し点があると思いますが、よろしくお願いします。yasumi 2007年10月22日 (月) 12:28 (UTC)

戦役呼称に関する話題

編集の際の要約に書ききれなかったので補記。日韓歴史共同研究の分科会報告の「呼称について」という項において”韓国併合によって朝鮮人を同胞と見なすようになったことから、「朝鮮征伐」の表現は避けられ”とされています。教科書などに"朝鮮侵略"という呼称を広めることに腐心する北島万次氏も加わっている分科会ですので、この見方・表現が標準と考えてよいでしょう。Jinzuu 2006年8月26日 (土) 06:33 (UTC)

文禄慶長の役の名称で「戦後の侵略反省史観に基づいて、400年前の戦役を反省材料とするという特定思想」についてですが、確か記憶によると北島万次「豊臣政権の対外認識と朝鮮侵略」(校倉書房、1990) の後書きにそのようなことが書かれていたように記憶しております。
現状、現物確認が出来ない環境ですのですが、「朝鮮侵略」を提唱している人の動機ですので確認されては如何でしょうか?裏が取れれば、併合による「朝鮮征伐」呼称が廃れた件と同じく記載されても良いと思います。yasumi 2007年3月30日 (金) 01:45 (UTC)

北朝鮮での戦役呼称「壬辰祖国戦争」は下記の出典で良いでしょうか?検討下さい。 「文禄・慶長の役〔壬辰・丁酉倭乱〕文学に刻まれた戦争」崔官(1994/7)講談社選書メチエの まえがき(1ページ)から名称を抜粋すると「日本では文禄・慶長の役、秀吉の唐入り、高麗陣、朝鮮陣、朝鮮征伐、三韓征伐、征韓、朝鮮役、朝鮮出兵。 中国では万暦朝鮮役、壬辰倭禍。 北韓(北朝鮮)では壬辰祖国戦争。 韓国では壬辰・丁酉倭乱」などがあげられています。 また、日韓共同歴史研究「壬辰倭乱(文禄・慶長の役)研究の現況と課題 朴晢暁」の4ページ目に北朝鮮での呼称「壬辰祖国戦争」をタイトルとする論文が引用されています。ttp://www.jkcf.or.jp/history/2/2_1_2park_j.pdf また「文禄・慶長の役(壬辰倭乱) 六反田豊」でも日本、中国、韓国での呼称が紹介されています。ttp://www.jkcf.or.jp/history/2/1_1_2roku_j.pdf yasumi 2007年10月21日 (日) 12:09 (UTC)



221.191.27.159 の加筆部分は百科事典にそぐわないものと判断し削除します。--HI 2006年9月7日 (木) 01:01 (UTC)



目次まで遠すぎる気が…

”16世紀、世界最大の戦闘”節の削除

主観的で冒頭にはそぐわない内容であると判断しましたので、とりあえず全文こちらに移動しました。Jinzuu 2007年2月20日 (火) 15:22 (UTC)


16世紀、世界最大の戦闘

世界史的に見れば、日本と李氏朝鮮との間のコンフリクトと見るのは間違いで、当時東アジアに君臨していた明国を中心とする支配体制(中華秩序)に対する、秀吉の挑戦である。または、ポルトガルの侵略に対抗するため、日本の統一を内外に知らしめ、日本は、強国であると誇示し領土拡大をしたかった秀吉と朝鮮や明の物品などを貿易で入手するより自国の産物として安価で入手することでポルトガルの商業資本に対抗しようとする豪商と利害が一致した結果と思われる。(実際に1599年ペデロ・デ・ラ・クルスと言うイエズス会士がイエズス会総会長に送った手紙に日本を攻撃すれば九州四国を植民地化できると書かれている。)また16世紀としては世界最大の戦闘で、双方に甚大な被害をもたらした。


「ポルトガルの侵略」?イエズス会の「植民地」?まるで、19世紀の植民地時代の話みたい。秀吉は16世紀末ですよ。言葉遣いはおかしいです。あなたはペデロ・デ・ラ・クルスの"手紙”を読みましたか?とんでもない空説を流さないでください。朝鮮出兵は16世紀世界最大の戦闘はではありません。リヴォニア戦争、オスマン帝国の戦争、宗教改革によるの戦争などは同じような規模やインパクトを持っている紛争です。秀吉の朝鮮出兵は地域の紛争(戦闘)の一つにすぎません。--Alex K 2007年2月22日 (木) 09:13 (UTC)


ペデロ・デ・ラ・クルスの手紙には、「日本は、海軍力が非常に弱く、兵器に不足している。そこで国王陛下(ポルトガル)が決心されるのならば、我が軍は、大挙してこの国を襲うことが出来よう、そしてこの国は、島国なので、主にその内の一島、すなわち、九州または、四国を包囲する事(海軍で)は、容易であろう」との様なことが書かれているのではないのですか、そうでなければ、すいません、私も、16世紀最大の戦闘というのは、おかしいと思いましたが、私がこの節を最初に作ったのでは無く、文を追加しただけなので、その部分を軽い気持ちで無視していました。今では自分の怠慢を恥じております。本当に申し訳ありませんでした。しかし、19世紀でなく16世紀でも、ポルトガル、スペイン、オランダなどの国は、天然資源獲得のためであったり、重要航路の防衛や貿易独占または、奴隷貿易基地化の為、軍を派遣し、そのような土地を征服していきました。ポルトガルやスペインなどは征服のための地ならしにイエズス会のカトリック布教を利用しています。その為にバテレン追放令や禁教令が出されたのであって、秀吉がイエズス会とその後ろに存在する、ポルトガルを警戒していたのがわかります。19世紀とは、植民地化される流れが違いますが、征服された土地は、本国に併合されていませんし、奴隷の供給地や奴隷の被供給地、本国、に金の循環が存在し、農園や鉱山、奴隷貿易基地建設のため植民をしています。また植民地が拡大するにつれて行政機構が必要となり行政区が設定されます。(ブラジルでは、16世紀半ばに導入されている。)植民地における行政区の領主は、本国から任命されており、その土地の防衛と開発が義務化されているが、19世紀の中央集権的なものでは無く、世襲領主の地方分権で、本国の行政とは、一線を画している。それを総括してみると植民地体制は、成立しているので、たとえ16世紀末の話でも、言葉遣いがおかしいとは思いません。なので、見出しやそれに関連する部分だけ削除しても、全文を削除する必要は無いと思います。--曹洞 2007年2月24日(土)08:13(UTC)

冒頭は総論に相当しますから、通説ではないものについてどうしてもその記述が必要と判断されるのであれば、後段に相応の節を立てて、”見方によれば~”、”一説では~”といった但し書きをつけて投稿していただければと思いますがどうでしょう。Jinzuu 2007年2月27日 (火) 06:26 (UTC)

解りました。では、何処に追加したら良いでしょうか、意見を書いていただければ幸いです。曹洞 2007年2月28日(水)05:15(UTC)

それは適宜判断してください。個人的な見解では、秀吉の挑戦やら、朝鮮や明の物品を自国の産物としてポルトガルに対抗する豪商やらはPOVとしか思えませんので、そんなものは加えてほしくは無いというのが本音です。Jinzuu 2007年2月28日 (水) 12:05 (UTC)
では、その部分は、追加しないことにします。しかし、ポルトガルの脅威を秀吉が感じていたのは、事実だと思いますし、秀吉がそれまで明と冊封関係にあった東アジア諸国に服属を命じ、中華秩序に代わる日本を中心とした新秩序を構築しようとしたのは、挑戦とは、言わないのですか、というか当時の諸外国から見れば挑戦にしか見えないと思うのですが、失礼なことを聞いて、すみません。曹洞 2007年3月1日 (木) 01:45分 (UTC)
コメント「16世紀、世界最大の戦闘」はともかく、「16世紀、東アジア最大の戦闘」である主旨、鄭杜煕、李ギョンスン、金 文子、小幡倫裕編『壬辰戦争』明石書店 (2008)には書かれています。いずれこの件については私も加筆したいかと思います。あと、これは編集にはあまり関係ないですが、コメントします。イエズス会の侵攻計画については、古くは松田毅一『秀吉の南蛮外交』新人物往来社、1972年、近年では高橋裕史『イエズス会の世界戦略』講談社、1999年などで書かれています。ですので、基本的な主旨は全く誤りというわけではないので、出典を明記されたうで、編集されるとよいかと思います。ただ、唐入り=中国征服構想と対キリスト教政策とがどこまで直接に連関しているのかについては、私には現時点では不明ですが。あと、Alex K さんの「秀吉の朝鮮出兵は地域の紛争(戦闘)の一つにすぎません」というのは過小評価かと思われます。ノエル・ペリン『鉄砲を捨てた日本人』によれば、16世紀の人口は、日本2500万、フランス1600万、スペイン700万、イギリス450万、アメリカ100万であり、1597年の時点での推計は、日本の武士人口200万、イギリスの騎士人口は3万です。それに同書には、当時の貿易取引書からの推計で、日本の鉄砲保有数は一時、世界一であったとも書かれています。--西方 2011年5月29日 (日) 13:14 (UTC)

世界最大の戦争というのは朝日新聞の夕刊の記事にもなったことです。確かアメリカか欧州の歴史学者が発言していました。--121.103.30.223 2013年2月12日 (火) 09:20 (UTC)

ハングル表記は不要だと考えますがどうでしょうか?

 朝鮮側の人名等にハングル表記を付記する編集が行われましたが、あくまでここは日本語版ですので不要であると考えます。当時ハングルが人名表記に一般的に使われていたという事実もありませんし、実際問題としても、大多数の日本語使用者にとっては意味を持たないハングルを付記することで、文面が見にくくなっていると私自身は捉えています。 Jinzuu 2007年10月15日 (月) 14:46 (UTC)

Jinzuu氏の意見に同意します。本項は総合的な項目の為、日本語版としての各人物項目を日本語で立て、ページ左にある他の言語の韓国語版へリンクさせるのがよい思います。特にハングル表記の削除理由として、日本語版なのに日本語環境で表示されないことが一番問題だと思います。yasumi 2007年10月15日 (月) 16:27 (UTC)
私も同じ意見です。韓国語・朝鮮語読み(発音)をどうしても表記したいのであれば、カタカナで事足ります。
金誠一(キム・ソンイル) 鄭撥(チョン・バル) 宋象賢(ソン・サンヒョン) 金命元(キム・ミョンウォン) 惟政(ユ・チョン) 休静(ヒュ・チョン) 金応瑞(キム・ウンソ)
李桓福(イ・ファンボク) 李陽元(イ・ヤンウォン) 李英男(イ・ヨンナム) 桂月香(ケー・ウォリャン) 論介(ノン・ケ) 李参平(イ・サムピョン) 鄭起龍(チョン・キリョン)
高敬命(コ・キョンミョン) 趙憲(チョ・ホン) 崔慶會(チェ・キョンフェ) 尹斗壽(ユン・トゥス) 尹根壽(ユン・クンス) 李恒福(イ・ハンボク) 李德馨(イ・トギョン)
こんなんでいかがでしょう?--210.159.243.39 2007年10月15日 (月) 16:43 (UTC)
早速のコメントありがとうございます。一定の合意は得られたものと判断し、人名のハングル表記は削除しました。ただ、戦役名については、とりあえずはそのまま残してあります。また、ご提案のあったカナ表記付加については個人的に反対はしませんが、積極的に行う必要があるとも思いませんでしたので、漢字表記のみにしました。このあたりの判断は、210.159.243.39さんにお任せします。^^; Jinzuu 2007年10月17日 (水) 14:22 (UTC)
現代の韓国側の文献に触れる際に、ハングル表記は参考になるのではないのですか?百科事典として考えるとき、この利便性は無視できないのでは?また、英語版の日本についての項目の多くに、日本語の漢字の表記が含まれていることも周知のことでしょう。「あくまでここは日本語版ですので不要」というのはナンセンスで、理由とになっていないと考えます。再度の検討を主張します。 220.219.125.97 2007年12月16日 (日) 15:40 (UTC)
 ”現代の韓国側の文献に触れる際に”などという、実際の需要があるかどうかも判らない仮定を持ち出してハングル表記を主張する方が、よほどナンセンスだと思いますが? その論でいけば、”中国側の人名については現代中国の文献にあたれるように簡体字も表記すべき”となりますね。
 また、英語版を引き合いに出していますけれど、同じく総論にあたる英語版の文禄・慶長の役該当記事の人名には、日本語(漢字)もハングルも表記されておらず英文表記のみです。ハングル表記をも必要とするほどの著名な人物なのであれば、上記でyasumi氏が提起されているとおり、個別の各人物項目を立てて、そちらでハングル表記を併記する筋合いのものでしょう。
 ごく一部の利用者の利便性もしくは自尊心を満足させるために、むやみにハングル表記を行うことは、大多数の利用者の可読性を妨げる弊害の方が大きいと考えます。 Jinzuu 2007年12月17日 (月) 06:38 (UTC)


2008年1月22日 (火) 14:41の版へのリバート理由

要約欄に記載ミスしましたのでこちらに補記しておきます。 /龍山の糧秣焼き討ち(3月)は和平交渉開始後であり、時系列に反する明らかな誤編集であるため。 Jinzuu 2008年1月22日 (火) 17:21 (UTC)

秀吉の死と撤退命令

 公式に日本諸将に撤退命令が伝達されたのは1598年10月に徳永・宮本両使の口頭連絡によるものですが、秀吉は6月以降の不順であったり、秀吉自身の形見分けがあったことなどから国内でも生前に死亡説が流れたりしています。  これらの噂は朝鮮にも伝わっており、朝鮮実録の1598年八月条で複数の報告があったり、明史朝鮮伝で十月に福建から明朝廷へ秀吉の死亡(但し七月九日と誤報)が報告されています。  明鮮軍の南下編成は八月、九月末から十月まで三路で攻撃が始まりますが、現地での企画時はともかく攻撃実施時は秀吉死亡の噂は知れ渡っていたと考えられます。少なくとも李氏朝鮮は噂を知っていました。  また、小西行長は明軍の劉テイと講和交渉を明軍南下前の1598年の8月にも行っており。朝鮮王子を人質とすることと日本軍の撤退をバーターにして交渉しています。  従って、日本側が「秀吉の死を秘匿した」ことと「現地では秀吉の死を知らなかった」ことは直結しません。  従って、現状の文禄・慶長の役泗川の戦いのように秘匿に成功した様な表現は良くないと思われます。如何でしょうか?--yasumi 2008年4月16日 (水) 13:15 (UTC)

 明史朝鮮伝では、明の朝廷に秀吉の死が伝わったのは順天、泗川、蔚山(第二次)の戦いがあった後です。この情報が北京から前線に伝わるには更に多くの日数がかかったことでしょう。
 講和交渉の話なしなら、もっと早い時期の秀吉が元気だった1598年1月初め第一次蔚山の戦いの際も講和交渉の話は出てきます。明・朝鮮側から降倭を派遣して、おそらくは蔚山城の明け渡しか、降伏を求める内容だとおもいます。小西行長と劉テイの講和交渉の話も、秀吉の死や、それににともなう朝鮮からの帰国に関する講和交渉とは断定できず、第一次蔚山の戦いと同じように単に順天倭城の明け渡しか、小西行長らの降伏要求に限定される話なのかもしれません。
 李朝実録についてですが、噂として情報があったようですが、あくまで噂の域を越えるものではないのではないでしょうか。実際に李朝実録の順天、泗川、蔚山(第二次)の戦いについての記述部分では、秀吉の死や日本軍の撤退に関する記述は出てきません。このことから、明・朝鮮軍が秀吉の死を知った上で戦っている印象は受けません。--Tokugawa 2008年4月17日 (木) 08:49 (UTC)
ええ、ですからすでに8月以降に現地朝鮮で知られていた秀吉死亡説は日本諸将にとってと同じくらい確報ではないものの、明鮮現地首脳部では複数の上申情報に加えて実際に最盛期から1/2から1/3程度に日本兵力が減員・帰国していく過程と合わせ、まことしやかに説得力を持った情報として認知されているのです。
なお、この宇都宮高麗帰陣物語で小西の8月交渉条件で提示されているのは日本軍の撤退を条件とするものです。朝鮮実録にも権慄による日本軍帰陣の見込みが述べられています。明鮮諸将はそのような日本軍撤退の現実的雰囲気の中で三路南下作戦を発動し、後に交渉で日本軍帰国の意志を知っているのです。--yasumi 2008年4月26日 (土) 12:30 (UTC)
在朝鮮日本軍の削減は慶長3(1598)年前半には完了していますので、8月18日の秀吉の死とは関係ないでしょう。慶長の役が始まり、慶長2(1597)年の全羅道、忠清道方面への進攻から南岸に撤退した後、新規諸城の築城と防御体制が整い次第、防御に必用な兵力だけを城に在番させ、負担となる過大な兵力は削減・帰国の準備を進めていました。慶長2(1597)年末には小早川秀秋らに帰国命令が出ています。少なくとも慶長3(1598)年度中は守城久留策による持久戦で臨む方針だったようです。秀吉の死で結果的に立ち消えとなりましたが「島津家文書」によると、翌慶長4(1599)年には大軍を派遣する予定で遼東との国境まで進出する新たな進攻が行われるプランもありました。兵力削減は一時的な処置だったのでです。慶長2(1597)年末の削減予定が慶長3(1598)年の前半にずれ込んだのは(第一次)蔚山城の戦いの影響でしょう。何れにせよ在朝鮮日本軍の削減は秀吉の死より前に行われたことで、これらは秀吉が元気な内に指図されたものです。よって秀吉死とは関係のないことです。
なお「現地では秀吉の死を知らなかった」との趣旨の文言は泗川の戦いのみで本稿にはありません。秀吉の死が、風聞や非公式なルートで情報を掴んでいたかどうかはともかく、公式には知らされていなかったのは事実です。本稿にはそうした事実が書かれてあるのみです。泗川の戦い関しては記述を削除しておきました。--Tokugawa 2008年4月29日 (火) 10:59 (UTC)

記事の分割と今後の方針

やはり順天倭城順天の戦いはジャンルも違うし他の記事と分けた方がよいと思います。(統合するのであれば、むしろ戦いの方かと思うのですが・・・)なお順天倭城のノートに統合賛成の意見があります。また、文禄・慶長の役全般に於いて他の戦いの記事命名や今後増やしていくべき記事などの今後の編集方針についても少し話し合っておいた方がよいと思われるのでこちらへ投稿します。例えば現在ある戦闘の記事は蔚山城の戦い閑山島海戦泗川の戦い順天倭城晋州城攻防戦碧蹄館の戦い鳴梁海戦露梁海戦などですが、海戦と野戦は良いとして特に城攻めで城や倭城が付いたり付かなかったりしています。記事名は一番通用している呼び名が良いと思われますが、実際に何と呼ばれているのか議論すべきかと思います。--yasumi 2008年4月16日 (水) 13:15 (UTC)

順天倭城の分割提案なら順天倭城のノートで議論するのが適当かと思います。--Tokugawa 2008年4月17日 (木) 07:40 (UTC)
戦闘名としては攻城戦も野戦に合わせて「~城の戦い」とするのが適当なような気がしますね。今なら晋州城攻防戦を直すだけで済みますし。海戦も、陸戦との整合性からは「~の戦い」でもいいのですが、「~海戦」なら記事名だけで海戦と解る大きなメリットがありますから今のままで。今後の新記事作成に当たっては、本記事の”主な戦い[1]”準拠でどうでしょう。 なお、順天についてはむこうのノートにコメントしておきました。 Jinzuu 2008年4月19日 (土) 06:26 (UTC)
本記事の”主な戦い”は概ね良いように思えます晋州城攻防戦だけ異質な感じですよね。書架の本を眺めていたところ、陸戦については「場所名+の戦い」が主流のようですね(「泗川の戦い」、順天であれば「順天の戦い」)。海戦は「場所名+の海戦」もあるようですが、「の」を省いても普及しているのでそのままでよいと思います。なお充分と言うまでにはジャンル自体がマイナーなのが現状のようです。
また、記事の重複は許容されているとはいえ李氏朝鮮日朝関係史豊臣政権のように概要からかなり踏み込んでいる記事もあり、詳細は本項参照として概要記事のようなものを考えた方がよいかも知れませんね。(これは本項序盤に置いても良いと思いますが)--yasumi 2008年4月26日 (土) 12:30 (UTC)
陸上の野戦は「場所名+の戦い」。城の攻防戦の場合は場所名の後に「城」を付ければ良いでしょうね。海戦の場合ですが船対船の戦いは「海域名+の海戦」又は「付近の陸地名+沖+の海戦」で問題ないと思いますが、水軍が陸上の拠点を攻撃した場合をどうするかが難しいですね。例えば文禄元年9月の朝鮮水軍による釜山攻撃(まだ記事はありませんが)。これは日本軍側が一切船を出撃させず、ひたすら陸からの発砲に終始したため、船同士の戦いにならなかったばかりか、元々朝鮮水軍側の予定では兵士が上陸して、陸対陸の戦いになる予定であったものが、果たせず、陸対海の戦いに終わったものなので、海戦とはいい難いですから。
なお、李氏朝鮮の正史である李朝実録でも概要を越えた詳細な内容まで記述されています。Wikipedia内の李氏朝鮮日朝関係史豊臣政権など他の記事で、文禄・慶長の役についての記述が概要的な内容を越えていたとしても、それは記事が充実していると考えるべきことだと思います。ここはここ、他は他で、それぞれ記事が充実しているならば、それはWikipediaにとって良いことではないでしょうか。--Tokugawa 2008年4月29日 (火) 11:10 (UTC)

文禄の役時、加藤嘉明の領地は淡路志智のようですね

文禄・慶長の役関連の本には、文禄の役時における加藤嘉明の領地が伊予松前になっているものが多いようですが、伊予松前へは文禄4年(1595)に加増転封になったようで、実際は淡路志智が正しいようなので訂正しました。--Tokugawa 2008年4月29日 (火) 18:33 (UTC)

正しくは淡路「志知」ですね。--yasumi 2008年4月30日 (水) 13:49 (UTC)
ご指摘有難う御座います。検索すると松前町公式ホームページも含めて意外と「志智」になっているものが多いんですよ。ただ、ご指摘通り「志知」のほうが正しいようですね。訂正します。--Tokugawa 2008年4月30日 (水) 17:04 (UTC)

「朝鮮征伐」の呼称はいつから始まったか

江戸時代初期に堀杏庵『朝鮮征伐記』があるということは、江戸時代初期には既に「朝鮮征伐」の呼称が他の呼称と共に存在したということです。ところが現状の「幕末から明治初期にかけては朝鮮征伐征韓などと呼ばれるようになった」では江戸時代初期に「朝鮮征伐」の呼称が無かったことになってしまいます。日韓歴史共同研究委員会で報告されているということですが、はたして日韓歴史共同研究委員会なる存在が、実際に江戸時代初期「朝鮮征伐」の呼称が有ったという事実を、無かった事にしてしまうことも許されるような存在なのでしょうか?--Tokugawa 2008年8月22日 (金) 15:03 (UTC)

(追記)「朝鮮征伐」呼称について述べましたが、「征韓」呼称についても1670年頃、島津家が編纂した『征韓録』が存在します。--Tokugawa 2008年8月22日 (金) 15:12 (UTC)
ご承知の通り、『朝鮮征伐記』より遙かに広く知られた書籍に17世紀中葉成立の朝鮮出兵に関する島津家の公式記録とも言うべき『征韓録』がある訳であり、それらはいずれにせよ研究者にとっては周知の事実です。それをふまえて複数の専門家連記での呼称の時代区分の判断ですので、それは尊重されるべきと考えます。そして、××征伐、征××というのは日本語(漢語)においてはごくありふれた造語であって、当然あるであろう先行する使用例がいつかどうかではなく、時代背景もふまえて一般的にあるいは公にそれが使われたどうかを勘案すべきものでしょう。加えて言えば、”朝鮮征伐”という場合はその主体、すなわち豊臣秀吉を高める意味を含みますが、果たして徳川政権においてそれが許されたのかという考察も必要かと考えます。また、『朝鮮征伐記』が写本としてではなく刷本として刊行され少なからず知られるようになったのは幕末ではないのでしょうか。 Jinzuu 2008年8月22日 (金) 18:25 (UTC)

当時出陣した各大名家の文書などから、唐入り・唐御陣という呼称が一般的だったのではないでしょうか?個人的な推測を述べさせてもらうと、唐入りは失敗したので後日、朝鮮○○という呼称になっただけかと思います。--210.136.112.53 2009年1月1日 (木) 09:15 (UTC)

朝鮮の造船技術は日本より優れていたとする根拠について

軍事力の項で”この当時、朝鮮の造船技術は日本より優れていた。”とありますが、その根拠は何なんでしょうか。英語版原文の対訳部分を当たってみると”Even though China was the main source of new military technologies in Asia, Korea excelled in both cannon manufacturing and shipbuilding in this age.”とあり(この訳がどうしてそうなるの?というのはおいといて)、英語版でも朝鮮の造船技術の優秀性については出典として書名が挙げられているのみで根拠は詳しく示されていません。

もっともこれについては、『日本戦史 朝鮮役』にも朝鮮の船舶建造が日本より優れていたとあるので、一種の定説化はしているのだと思いますが、同書自体が朝鮮船に”竜骨”があるとするなど、船舶関係についてはかなり怪しい所見に基づいているのは現在では明白なので、かねてより疑問に感じている点です。

実際に朝鮮船の推定構造図などをみると、船底は角材をしき並べ、舷側は分厚い多数の部材を積み上げて構成し、また船型はほぼ箱形であり、一見した印象ではとても優れた造船技術とは感じられないのですが、他方、日本船は良材に恵まれているという利点はあったにせよ、竜骨に相当する厚い一枚板の船底板(航)に片側三枚の舷側板の基本7部材で流線型に構成されるセミモノコック構造であり、非常にシンプルで生産性も高く優れた船舶構造に思えます。(ただし外板がたわむような衝撃には弱く、軍船には不向きということは確かにありますが)

ということで、朝鮮の造船技術のどのような点が日本より優れていたのかご存じの方があればご教示いただければ幸いです。正直、同じ木造建造物である、李朝の残存する建築物などを見ても、あの曲がりくねった部材でよく建てたと感心することはあっても、優れた建築技術とはサッパリ感じられないので疑問は深まるばかりです。 Jinzuu 2009年7月4日 (土) 05:59 (UTC)

私も疑問に思います。人間の歴史では、他者の優れたものに接したときには、それを取り入れようと努めるもので、日本も外国の優れた技術に接するとそれを取り入れながら文明を築いてきました。朝鮮出兵においても出征軍が陶工を連れ帰って日本の焼き物に影響を与えています。もし朝鮮出兵当時、本当に朝鮮の造船技術が優れていたなら、出征した日本軍は朝鮮の造船技術者を連れ帰り、彼らの技術を取り入れ、その後の日本船は朝鮮船の影響を大きく受けたものに変化していたでしょう。しかし実際のところ、この戦争を契機に日本船が朝鮮船の影響を受けた形跡は全く見られません。つまり朝鮮の造船技術は取り入れるに値するような優れたものではなかったということではないでしょうか。したがって朝鮮の造船技術が優れていたといった記述には疑問を感じます。
また、朝鮮水軍が日本船を体当たりで撃破したということも過ったものでしょう。これは、恐らく『李忠武公全書』など李舜臣関連の記録に頻出する「撞破」という言葉を「体当たり」と誤認識したものではないでしょうか。金在瑾著『亀船』にもそいった誤認識に基づいて朝鮮船が丈夫で優秀であると主張する記述があります。しかし、実際のところ「撞破」の使われ方をみると、「銃筒放中撞破焚滅」など、「火器による破壊」に使われている言葉です。
他に、造船技術の問題からは少し逸れますが、船に積まれた大砲関連の記述についても疑問にに思えますので、少し触れます。「開戦初期、日本軍は海戦を想定しておらず、軍船には基本的に大砲を装備していなかった。」とありますが、天正6年の第二次木津川口の戦いで信長水軍の安宅船に大砲が搭載されていたことはオルガンティノの報告にもあり、これで毛利方水軍を破っています。また、天正12年、秀吉が小牧に出陣した直後の3月、紀州の雑賀衆・根来衆・国人湯河氏らが岸和田・堺方面に 130隻で進攻したときには、小西行長が大友宗麟から贈られた大砲を船に積んで迎え撃っています。大量に搭載されていたわけではないにしろ、朝鮮出兵以前に大砲搭載の記録があるのに、朝鮮出兵時日本で船に大砲が搭載されていなかったとする確かな根拠はあるのか疑問に思えます。
「日本の軽量な船の設計では、多くの砲を載せたり、大きい砲を載せる事は困難だった」とありますが、水線より少し上の位置に水夫が櫓を漕ぐ層があり、その上に戦闘員の層を設ける構成は、日本の安宅船も朝鮮の板屋船も基本的に同じです。どこの船であれ、大型の大砲を大量に載せるのは、手漕ぎ船では水夫のスペースを確保するという構造上不可能であり、西洋でも手漕ぎ船であるガレー船の大砲搭載量は僅かなものでしかなく、大量に大砲が搭載されるのは帆走のガレオンになって初めて実現したのです。朝鮮船に大砲が搭載され、それなりに活躍しているのは事実のようですが、手漕ぎ船の構造上搭載できる大砲の大きさや数には限度があるので、朝鮮船の大砲につても過度な強調にならない程度に止めたほうが良いかもしれません。--Tokugawa 2009年7月5日 (日) 06:11 (UTC)
早速のコメントどうもです。確かに造船技術のみならず、韓国人がやたらと自慢する角弓やら大砲やらも全く日本に技術的影響を与えていないんですよね。優れた造船技術云々については、欧米の研究でも基本書として下敷きになってるらしいので、やはり『日本戦史 朝鮮役』の記述がが元凶でしょうか。
撞破についてもご指摘の通りと思います。実際には、砲撃で船体になんらかの損害を与えたら”撞破”、火災が生じたら”焚滅”という程度だったのだろうと思います。実はそのような指摘をしている日本人研究者もいて書籍になってるので、そのあたりはいずれ出典付きで附記しようかと思ってます。(図書館で以前借りた本なので書籍名失念)
大砲関連についても概ね同感です。ただ、「開戦初期、日本軍は海戦を想定しておらず、軍船には基本的に大砲を装備していなかった。」というのは、全く装備しなかったこともないだろうけれど、Tokugawaさんが例示されたような日本の搭載例もいわば特殊事例なので普遍化もできないだろうから、元訳に『基本的に』という文言を足して、皆無ではなかったであろうというニュアンスにした形ですね。朝鮮船は構造は安宅船類似でも、艪数が少ないのでその分日本船よりは砲を据えるスペースはとくに舷側にあったのではないでしょうか。といって、韓国ドラマなどでは朝鮮の板屋船は上甲板の舷側にずらりと大砲を並べた、なにやら西洋の戦列艦のようなイメージになってますけど、実際の朝鮮の火砲は最大級のもので全長130cm・重量が300kg程度とさほど大きくはないですが、やはりそれを上甲板に据えるのは無理で、そのクラスはほんの数門を艪甲板に載せたものと思います。他に何十門だか搭載していたという内の大多数は60cmほどで3~5kgの手持ちの銃筒の類だと解釈してますので、意図するところを読みとってもらえるかどうかは別として、自分自身は、朝鮮のものについては後世の西洋系の大砲のイメージと混同しやすいので”大砲”ではなく”火砲”とか”火器”という言葉を使うようにしていますね。あと、個人的には日本船が大砲を載せなかったのは構造的な面と共に、砲は火薬の使用量が火縄銃とは桁違いだったということと、当時の海戦は日朝共に少しヤバイと思うととっとと船を捨てて陸に逃げる傾向が見られるので、船は消耗品だけれど、日本軍には大砲はそれとともに簡単に捨てるには惜しい貴重品だったという点があるように思います。 Jinzuu 2009年7月5日 (日) 10:24 (UTC)
お久しぶりです。なかなか時間が取れないのですが、英語版の和訳を持ち込まれて全体的な体裁や後世がおかしくなっているようですね。タンブルの英書は2冊持っているのですが、細かく見ている閑がありません。所感として、兵器については双方共に捕獲をしてハードは理解しているので必要なものは取り入れて大差はないと思うのですけどね。(例えば朝鮮砲を日本軍戦に装備したり、降倭を使って朝鮮側で鉄炮を生産したり、倭城を真似て戦後に朝鮮が石垣を築いてみたり・・・)--Yasumi 2009年7月27日 (月) 10:54 (UTC)
報告『戦国全史』のP.536に「日本の安宅船は、戦闘力で朝鮮の亀甲船に劣った」という記載が見受けられましたので、報告しておきます。--ブレイズマン 2010年10月3日 (日) 13:14 (UTC)

造船技術の差は知りませんが明確に差があるとすれば朝鮮の船の方が大きいとのことです。それなら搭載できる火砲の大きさに差が出るのも道理でしょう--肉欲獣 2010年12月30日 (木) 15:09 (UTC)

報告
  • 安宅船(全長33.67m、全幅11.77m)九鬼嘉隆が朝鮮役用に作ったもの・・出典『海の戦国史・海賊大将の栄光』P34(原典不記載)
  • 亀甲船(全長約20m、最大幅4.4m)朝鮮水軍統制営のもの・・出典『歴史群像シリーズ35・文禄・慶長の役』P125(原典『李忠武公全書』と記載)
船のサイズについて以上の記載がありました。歴史群像シリーズ35には前記の他、P20に船尾の尻尾のような張り出し部を含めて全長34.6m、含まない場合27.6mという記載もあります。もっともこの本はあまり信頼性の高い情報源だとは思ってないものなので、これを出すべきかどうか迷いましたが、参考までに提示しておきます。--Tokugawa 2010年12月31日 (金) 06:03 (UTC)
金在瑾って人の「亀船」という本をソースとしてある軍板の人が言うには、亀船に関して言えば主力艦でもなんでもないようですね。安宅船も果たして主力艦なのかどうか・・・関船などが100隻いる中に1隻こういった大型の船があるようでは戦力に趨勢はないでしょうし。結局安宅船と一括りにしてある場合でも結構大きさに差がありますしその具体的総数も分かりませんが、日本丸のような30mの大台を超えたものは「並外れた巨艦である」と記述されているということは一般的なサイズでなかったと解釈できます。とはいえ匿名人の記事はソースとして使えないので、どなたかちょっとこの本を探して執筆していただけるとありがたいです(この辺りでは見つかりませんでした)--肉欲獣 2010年12月31日 (金) 10:54 (UTC)

『海の戦国史・海賊大将の栄光』P34に、九鬼嘉隆が朝鮮役用に作った安宅船が1500石積とあります。 『日本の船を復元する・古代から近世まで』P26に安宅船の大きさは「通常1000石以上2000石積級」とあるので九鬼嘉隆が朝鮮役用に作った安宅船が、安宅船の中で特別に大きいわけではないようです。実際に 『参謀本部編纂・日本戦史』本編P61には、出征前に山内一豊・松下吉綱に命じ、大井川河口にて建造中の船舶は、長さ19だったのを18間に改め、幅は依然6間とする。との記述があり、これはメートル法に換算すると全長約33m、幅約11mになりますので九鬼嘉隆が朝鮮役用に作った安宅船の全長33.67m、全幅11.77m、と大きな差はなく、このことからも九鬼の船が特別ではなかったことが判明します。

『海の戦国史・海賊大将の栄光』P87に、「李舜臣が5月4日に麗水を出港したときの陣容は、板屋船24隻、挟船15隻、鮑作船46隻、合計86隻であった。船のサイズは、それぞれ日本の安宅船、関船、小早などの規模に相当する。」との記述があります。 『歴史群像シリーズ35・文禄・慶長の役』P126にも、「板屋船は日本の安宅船に匹敵する」との記述があります。 これらの記述からすると、朝鮮水軍最大の船が板屋船であり、日本水軍最大の安宅船と大きさに差異はないことが判ります。

『海の戦国史・海賊大将の栄光』P89に、天正19年1月20日に「一、海に面した国々は東は常陸から、北は秋田から、それぞれ九州まで、石高10万石について大船2艘を用意すること。」「一、直轄領は10万石について大船3艘、中船5艘を作る。」とする大船準備の指令が出されたことが記述されています。この記録からは日本で大船が大量に建造されていたことがわかります。

『豊臣秀吉合戦総覧』P223に、泗川の海戦の記述で「日本の楼閣船12隻が海上に停泊」。唐浦の海戦の記述で「日本船は大型船9隻、中小船12隻」。同書P235に、栗浦の海戦の記述で「日本軍の大船5隻と中型船2隻に遭遇」との記述があります。 これらの記述を見る限り、安宅船の比率がそれほど低いわけではなく、また、それほど希少な存在でもないようです。

ここまでに書いた日朝双方の戦闘時の船数を比較すると、朝鮮水軍が数的優位に立って戦っていることが判ると思います。これは日本側が水軍戦力の分散と逐次投入の愚を犯したためで、初期の戦闘において朝鮮水軍が少数で行動する日本水軍を期せずして各個撃破していたということです。日本側もこれらの結果を鑑みて、閑山島海戦のときは船手諸将を集め、戦力を集中して決戦に挑むはずでしたが、脇坂安治の抜け駆けの結果、やはり戦力を逐次投入する形となり、李舜臣の誘引作戦に引っかかったことも相まって敗退する結果となりました。つまり、初期海戦における朝鮮水軍の成功は、日本水軍の戦力の分散と逐次投入の結果、数的優位を保って戦えたことと、用兵上の問題であって、船の大きさや、造船技術によるものではないのです。--Tokugawa 2011年1月1日 (土) 11:31 (UTC)

日明戦争

「日明戦争と呼ばれることがある」云々とあり色々調べてみたのですが、使用事例については匿名掲示板や個人BLOG以外で信頼できる情報源が発見できませんでしたので一旦除去しました。信頼できる参照先・文献情報等御座いましたら明示のうえ再投稿頂きますよう宜しくお願い申し上げます。--大和屋敷 2010年12月20日 (月) 07:19 (UTC)

みんま

この版[2]で伊予松山周辺の「みんま」の風習について投稿があり、いったんそれなりの情報源を追加[3]したつもりなのですが。ちょっと全体の記事内容から考えて異質な一節のような気がします。おそらく探せば日本各地に文禄・慶長の役に由来する風習なり民話なりが残されていると思うのでそれをまとめる項目があればよいのですが、史実を淡々と記述しているなかにとつぜん民俗史の話題が入ってくるのはどうなのだろうか。また「伊予の国」の兵士たちが水軍の主力であったかのように読めてしまうのですけれども私の知識では(「googleっただけ」がモットーの編集者では)正確性が確認できません。正確性と、採用の適格性について困っています。--大和屋敷 2010年12月29日 (水) 05:33 (UTC)「影響」の項に移動させました[4]--大和屋敷 2010年12月29日 (水) 05:37 (UTC)

「みんま」をgoogle検索してみたところ上位10件のうち朝鮮出兵と関連づけている所はの2件(ギフト屋と餅屋)だけでした。それほど有力な説ではないようです。医座寺住職のブログには「どうも時代は「戦国時代」南朝・北朝が戦った頃とか、豊臣秀吉が伊予を攻めた頃と言われますが、定かではありません。しかし、5~600年前から続く行事らしい。」と書かれており、他のサイトも朝鮮出兵と関連付けているところは少ないので、朝鮮出兵とは無関係にも思えます。そもそも私はこういった由来不明瞭な風習が百科事典である「Wikipedia文禄・慶長の役」の項に載せるべきことだとは思えません。--Tokugawa 2010年12月31日 (金) 09:10 (UTC)
引用元[5]にも「乱世に異郷の地に出て合戦に敗れ、戦死した・・」とのみ記されているだけで文禄慶長の役のことをさすのかどうかいまひとつハッキリしないので困ってしまいます。もうちと情報提供をまったほうがよさげですかね(;´Д`)--大和屋敷 2011年1月2日 (日) 05:56 (UTC)

脚注についてのテクニカルな問題

私はこれまで脚注は一般的なref/refの表記しかしていませんので、よくref name の脚注形式について理解できていません。現在、stephen tunbullについての既存の記述の脚注について修正を繰り返しておりますが、Help:脚注を参照しても、解決できません。記事日本人においてref name は"◯◯"の括弧(“”)が外されていて、機能しています。ただし、Help:脚注にも“”表記は明記されており、反映されない理由がわかりません。これ以降の他の脚注も一切表記されません。どなたかご存知の方、編集のご協力をお願いいたします。--西方 2011年6月2日 (木) 08:05 (UTC)

井戸端会議Jkr2255さんとEULE さんにご教示いただき、解決いたしました。--西方 2011年6月2日 (木) 09:14 (UTC)

耳塚の記載について

ID114.17.233.16氏による2011年6月5日 (日) 07:44時点における編集ですが[6]、耳塚についての記事が、「経緯」のなかに唐突に挿入されました。耳塚そのものの記載はむろん本文中にあっていいと思われますが、私はこれはエピソード的なものであり「その他」節を作るか、あるいは「影響」の本文のなかで記載されることで十分かと思います。--西方 2011年6月5日 (日) 10:24 (UTC) また、この手の編集につきものの、「残虐さ」についての編集合戦の可能性もあり、たとえば朝鮮軍が、日本兵の死体を切り刻んで、皮を剥いて晒したという史実も他方であり(中野等著)、中立的な観点からは双方を記載すべきでしょう。私見では、耳塚については別項目もありますし、上記理由より、本文中で触れるにとどめておく方がより適切であると思います。また、捕虜、自発的または非自発的な亡命者・についても、おなじく中立的な観点から、記載されるべきでしょう。ID114.17.233.16氏の現時点の編集だと、政治的偏向が存する編集の可能性が高いと思われましたので、いったん差し戻しいたしました。--西方 2011年6月5日 (日) 10:32 (UTC)

IP氏によるカテゴリ一括削除について

この編集[7]ですが、ノート:元寇と同一人物による編集であり、かつ同一内容の案件であるので、議論はノート:元寇で統合させます。編集行為についてのコメント依頼ものちに考えておりますが。--西方会話2012年3月19日 (月) 03:55 (UTC)


名称節

「豊臣政権の対外認識と朝鮮侵略」はこの戦役を端的に標記する名称・名辞・名詞ではなく一般名詞を用いた述部(「豊臣政権の~」がなければ成立しない)ですので除去しました。--大和屋敷会話2014年7月21日 (月) 23:00 (UTC)

テンプレート(Battlebox)の「交戦勢力」において「明」が「朝鮮」よりも上になっていることについて

細かいことかもしれませんが、「日本は小国の朝鮮ではなく、大国である明と戦ったのだ。」という印象付けるためにこの順番にしている気がします。朝鮮出兵の話になると、よくネット右翼がこの論理を用いるので、そう感じました。しかし、他言語版を見てみると、英語、スペイン語、フランス語、韓国語、ロシア語、ポルトガル語において「朝鮮」が「明」よりも上にありました(ドイツ語はBattleboxのテンプレートがありませんでした)。中国語では「明」が「朝鮮」よりも上でした(これは明は後の中国であるから仕方ないかもしれませんが)。しかし、実際は日本側は朝鮮領からほとんど出られず、戦力、損害から見ても明より朝鮮と戦ったことは明白ですし、最初の交戦相手は朝鮮でした。軍の指揮系統についても、朝鮮軍は必ずしも、明の下にあったわけではなく、和平交渉においても、明と朝鮮の足並みは揃っていないので、文禄の役の和平に失敗し、慶長の役に繋がったという事実があります。それなので、「交戦相手」の順番が「朝鮮」を「明」より上にすることを提案します。(まずノートで議論していからでないと無言で差し戻す利用者がいるので、ノートにて提案させていただきます。)--番組の途中ですが名無しです会話2014年12月21日 (日) 13:59 (UTC)

1607年の幕府と朝鮮の和平成立においても、朝鮮が独自の外交権を持っていたことがわかります。もし朝鮮の外交権を明が掌握しているなら、朝鮮は幕府と和平交渉すらできません。幕府が明ではなく、朝鮮と和平を結んだということも重要で、幕府(日本側)からすれば、明ではなく朝鮮と戦ったのだから、朝鮮と和平交渉をするという認識になります。よって、「交戦勢力」において、「朝鮮」を「明」よりも上の順序にすることを重ねて提案します。--番組の途中ですが名無しです会話2014年12月21日 (日) 14:19 (UTC)

明が上に来るのが自然だと思いますよ。他言語ウィキペディアでは、KPOVになってしまっているからかもしれませんし、戦場が朝鮮なのでそう思い込んでしまったからなのかもしれません。まず、冊封体制を考慮すれば明が上に来るのはアリです。次に、軍事指揮権は明にありましたので、やはり明が上ですよね。北朝鮮とアメリカ合衆国および韓国との間に戦端が開かれた場合、戦時作戦統制権がアメリカにあるのなら、コンバットボックスでもアメリカが上になるでしょうし、戦時作戦統制権が韓国にあれば韓国が上になるでしょ。さらに、外交交渉におけるイニシアティヴは明にありましたから、明が上にくるのがふつうでしょうね。もう少し詳しくお勉強するつもりがおありならば、『アジアのなかの日本史』第二巻に北島万次さんの「壬辰倭乱期の朝鮮と明」というのがありますので、読んでみてください。Takabeg会話2015年11月30日 (月) 12:20 (UTC)

改悪編集

利用者:番組の途中ですが名無しです氏によりリバートが繰り返されておりますが、利用者:Quark Logo氏により「より充実した」記事に仕上がっているものをなぜ差し戻しておられるのか理解できかねます。冷静な編集対処をお願いいたします。--大和屋敷会話2015年1月10日 (土) 05:20 (UTC)

英語圏呼称を日本呼称(韓国、中国呼称)より先にする必要がないということについて

英語圏呼称を先頭にしたら差し戻されていますが、具体的な理由を書いてください。「日本語での呼称に先んじて英語での呼称に触れる必要はない」と書かれていますが、その理由は何なのでしょうか。「英語の呼称に先んじて日本語での呼称に触れる必要がない」と返すことができてしまうのですが。英語圏呼称を先頭にすべき理由は、当事国ではないから中立的である呼称そのものから出来事がわかるという点です。日中韓の3国の当事国の表記では、どれも主観的でどの国とどの国が戦ったのかが、どこが侵略をしたのかがわかりません。--番組の途中ですが名無しです会話2015年1月10日 (土) 08:12 (UTC)

ここはウィキペディア日本語版であり、まず日本語での呼称に触れるのはごく自然なことです。次いで当事者である中国語および韓国語での呼称。英語での呼称は、日中韓それぞれでの呼称を単に英語に訳しただけのものであること、当事者ではないことから低い優先度で扱われるべきです。また、「The War of Bunroku-Keicho (文禄・慶長の戦争)」「The Imjin War(壬辰戦争)」「Japanese invasion of Korea(日本の朝鮮侵略)」や「Japan's Korean War(日本の朝鮮戦争)」と4つ挙げられている英語呼称のうち「Japanese invasion of Korea」「Japan's Korean War」の2つのみを他よりも優先する理由は何ら示されていません。--Claw of Slime (talk) 2015年1月10日 (土) 08:15 (UTC)
  • 「ごく自然なこと」というのはあなたの主観です。Wikipediaのルールに基づいて該当する部分があるなら提示してください。「Japanese invasion of Korea」、「Japan's Korean War」は日中韓それぞれのどの呼称を英訳したものであるか答えてください。この2つが優先されるべき理由は戦争当事国が一目でわかるからです。特に前者は日本が侵略したことまでわかります。日中韓の呼称、あるいはその英訳ではそれがわかりません。--番組の途中ですが名無しです会話2015年1月10日 (土) 08:20 (UTC)

利用者:Claw of Slimeさんに同感です。2つだけ恣意的に取り上げる理由が、名称を説明する節という本来の目的に外れています。またそもそも英訳が必要かということも疑問があるところです。当時のスペインとポルトガルは関係国であり、英語よりはポルトガル語やスペイン語の方がまだ関連性があります。英語の必然性がない。さらに、ほぼそのまま訳しただけのような文章であり、歴史用語とも呼べません。利用者:番組の途中ですが名無しですさんは侵略戦争だといという主張を1行ながら演説したいらしいですが、節を創って論じろと言っているわけです。そういった努力はしないでの編集強行は、ブロックものでしょう。利用者:番組の途中ですが名無しですさんは英語表記をねじ込んできたので、バランスを中立性的観点からほかの表記も追加しましたが、氏がこのようにいつまでも納得しない姿勢を維持するのなら、英語表記はそもそも不要ではないかと思っています。--Quark Logo会話2015年1月10日 (土) 08:25 (UTC)

  • 「名称を説明する節」という決まりはありません。単純に英語圏でこう呼ばれているということを列記してもいいはずだと思います。英語は約80の国・地域で話されており、世界で最も多くの国・地域で使用されている言語であり、ネイティブスピーカーの人口でも、中国語(約13億7000万人)に次いで二番目(5億3000万人)に位置する。と書かれています(Wikipediaより)(中国語は公用語としている国が少ない)。侵略戦争だという主張がしたいというのもあなたの一方的な決めつけです。ブロックするかどうかはあなたが決めることではありません。--番組の途中ですが名無しです会話2015年1月10日 (土) 08:30 (UTC)

いえ、あなた以外の全員が前々から名称を説明する節として書いています。だから「名称」という節なのです。そこであなたが演説してようとして弾かれたという構造です。もうちょっと説明責任を果たしすだけでなく人よがりを改めるべきではないですか。侵略戦争云々は会話ページでご自身で語ってますが・・・。--Quark Logo会話2015年1月10日 (土) 08:37 (UTC)

  • 「あなた以外の全員が前々から名称を説明する節として書いています」これが名称の節のルールを決定づけるものではありません。少なくともそのことについて私は同意していません。Wikipediaのルールで該当部分があるなら明示してください。私がしていることはただ単に英語表記の優先化であって演説ではありません。私の利用者ページを「侵略戦争」で検索してもヒットしません。よってそういったことは語っていません。--番組の途中ですが名無しです会話2015年1月10日 (土) 08:40 (UTC)
というか、今のこの節を書いたのは私で、名称の説明として書きました。作者本人がそういってる。しかもその前も名称の説明という内容でした。これは英語版なども同じ。基本的に名称の節はほかのページでも名称の説明や紹介にとどまっている。というか、別の意図を持つなら、なぜ別の節を立てないのか? そういう頑迷さが問題では。
あと、訂正すると、「英語圏では文禄・慶長の役を併せて1つの侵略戦争として「Japanese invasion of Korea(日本の朝鮮侵略)」と呼ばれている。」と書いて何度かこれに戻して、「Japanese invasion of Koreaという言葉で日本が韓国を侵略したことが一目でわかります」と言っていたということです。私に大差ないように思いますが、どっちにしても前々から作意を自ら表明しており、独自研究をまこうとしていると批判せざるえません。また英語表記優先は全く説得力がないです。日本、韓国、中国よりも優先って・・・。--Quark Logo会話2015年1月10日 (土) 08:56 (UTC)

朝鮮侵略説と元寇への報復説について

16世紀の文禄・慶長の役を「秀吉の朝鮮侵略」と言う人がいます。朝日新聞は2015年6月19日付社説「日韓国交50年」でそう書き、TBSサンデーモーニングもそう報じていました。しかし13世紀の2度の元寇という日本侵略への「報復だった」とする説も存在します。元寇とは、いうまでもなく中韓連合軍による日本侵略です。大勢の日本人が殺され、今も海の底に眠っています。文禄・慶長の役を「朝鮮侵略」とするなら、その前に元寇という日本侵略が行われたこと、その日本侵略への報復が秀吉の朝鮮出兵を含む文禄・慶長の役だったことにも触れなければ公正とはいえません。

日本の侵略だけを非難し、中韓の侵略には目を瞑るのはおかしなことです。本項に書くために、然るべき出典をご存知のかたがいましたら、ご教示お願いします。--220.211.188.165 2015年11月3日 (火) 15:03 (UTC)

報復であれば、侵略ではないとお考えなのでしょうか。
そもそも「報復」名目で侵略返しをしたところで、もともと侵略した人間が苦しむのではないので、国家間で「報復」などということはありませんし、もちろんそれが正当化されることはありません。
13世紀に元寇で侵略した人が16世紀の文禄・慶長の役で「こんなにひどい目にあうのであれば、元寇なんか実行しなければ良かった」と反省する機会を与えられたのですか?
現在の中韓が日本に軍隊を出し「文禄・慶長の役や第二次世界大戦で侵略されたのだから、これは報復である」などと言いつつ虐殺略奪をするとして、今の日本人が甘受する義務はありますか?
日本であろうと、中韓であろうと、過去の侵略を正当化するのは恥ずかしいことです。--プリズム11会話2015年11月3日 (火) 22:41 (UTC)

まず誤解があります。秀吉が文禄の役を起こした理由は、元寇の報復ではないですが、当時、日朝交渉の場にいた(開戦を回避しようと努力していた)景轍玄蘇という外交僧が儒教的序列論ばかりにこだわる頭の固い朝鮮の官僚の前でキレて日本には元寇を報復をする道義的理由があると言ったことがあって、それを朝鮮側が記録したという経緯があるのです。朝鮮側は秀吉の真意を最後まで理解できなかった(もしくは小中華主義的観念から秀吉の主張を無視した)ので、結局、どういうことだったかを余り考えずに、「倭乱」だと片付けてしました。思考停止の李氏朝鮮はその後も停滞国家のままで、同様に蛮族扱いしていた女真族の後金に征服されてしまうわけです。

このような経緯から、報復論が出てきた背景を説明する必要があり、それとは別に文禄の役が始まったり理由も説明する必要があります。これらは直接関係ありませんが、それぞれ説明する必要があるわけです。

また侵略云々の話ですが、侵略が非難されるのは現代の話で、当時そのような概念は薄いです。儒教的正義は序列をつければ誰でも討伐を可能にするわけで、何とでも言えるものでした。侵略が違法になるのは現在の国連憲章によるもので、全く現在の感覚により、当時は存在しません。というか、近年まで存在してすらません。戦前までは侵略と征服は誇りですらありました。元寇や文禄慶長の役を非難するという視点は、現代人の価値観を遡及的に適用しているだけで、歴史学とは無関係です。「侵略」という言葉にあまり過剰反応する必要はないでしょう。

文禄慶長の役が注目される理由は、日本の大陸進出の前史と捉える学者がいるからです。しかしそういう学説はあるものの、一般的にいうと、拡大解釈であり、直接的因果関係はないとされています。--Quark Logo会話2015年11月4日 (水) 02:53 (UTC)

日本の敗北という出典付きの記述を消さないように

ルール違反です。偏った編集はおやめください。--番組の途中ですが名無しです会話2015年11月20日 (金) 14:05 (UTC)

Wikipedia:検証可能性とくに歴史・医学・科学分野のときは、学術的で査読を経た出版物が存在する場合、それが最も信頼できる情報源です。しかしこれらの分野でも、それだけが信頼できる情報源ではありません。学術的でない情報源であっても、それが特に主流の権威的出版物だと信頼されている場合は使用することができます。というのをご存知でしょうか? 菊池正憲さんの『図解戦国史』はこれに該当するでしょうか? 該当しないのは明白ですよね。Takabeg会話2015年11月23日 (月) 16:14 (UTC)
それ以外でも、大学レベルの教科書・権威的な出版社からの書籍・雑誌・論文・主流の新聞などは信頼できる情報源です。

なぜこの一文を引用しなかったのでしょうか?西東社は1932年創業の権威的な出版社であり、明らかに菊池さんの「図解戦国史」は信頼できる情報源となります。--番組の途中ですが名無しです会話2015年11月25日 (水) 12:55 (UTC)

それはあり得ないですね。詭弁はおやめください。 Takabeg会話2015年11月30日 (月) 12:21 (UTC)

「日本と朝鮮の戦争ではなく、明中国の支配体制への秀吉の挑戦、日本と中国の戦争だ」を削除しないで下さい

以下の記述を、2015年11月4日 (水) 04:06の版で、利用者:Quark Logoさんに削除されてしまいました。

「米ボールステート大のケネス・スオープ(中国軍事史)は、『日本と朝鮮の戦争だとの見方はやめるべきだ』として、「明・中国を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦であり、日本と中国の戦争だった』としている」

の部分です。これは、朝日新聞2006年6月28日夕刊文化面「『倭乱』と東アジア 韓国の国際シンポから」に書かれたもので、ちゃんとソースも提示しています。以下がその出典です。

「ケネス・スオープ米ボールステート大準教授(中国軍事史)は、「日本と朝鮮の間の戦争だとの見方はやめるべきだ」として、「明(中国)を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦。これは日本と中国の戦争だ。秀吉軍の侵攻直前に明で内乱が起きたため、明はすぐに兵を送ることができなかったが、朝鮮の要請ではなく、自分の利益のために参戦した」「『明軍は弱い』というイメージは明を倒した清により作られたもので、当時は武器も優秀で精強だった。一方の秀吉軍は戦乱で鍛え上げられた世界最強の軍団。両者の激突は16世紀世界最大の戦争だった」と述べている(朝日新聞2006年6月28日夕刊文化面「『倭乱』と東アジア 韓国の国際シンポから 上」より)。

利用者:Quark Logoさんは、どうしても文禄・慶長の役を「日本による朝鮮侵略」ということにしたいようです。けれどもそれは一つの見方であって、別のもっと大局的な見方も存在するのです。出典を提示しているのだから、削除するのは規約に触れます。--123.198.15.60 2017年4月8日 (土) 18:41 (UTC)

消していない。前からずっとあり、重複

返信 IP:123.198.15.60会話 / 投稿記録さん、まず削除してません。整理して場所を変えただけです。冒頭で論じない、主張をしない。冒頭部は本文の概要になっており、本文で論じる。これが基本です。もう1年前に「動機に関する諸説」の中に移動済みです。冒頭部に書くべき事ではないというは理解されないと困ります。スタイルマニュアル等を熟読ください。
見方がどうのこうの、大局がどうのこうのという決めつけは、ただの個人攻撃なだけでなく、全くの見当違いなので、やめてください。そんなこと言ってもないし、やってもないし、迷惑千万です。--Quark Logo会話2017年4月9日 (日) 01:20 (UTC)

「日本軍の補給」の項目について

全体的に独自研究の色が見られると思うのですが、どのように修正すべきでしょうか。 一つ一つの記述については、出典を追加することでWikipediaに適う内容にすることが可能なもののように見えます。 ただ、それらの記述を論拠として、「補給が妨害された事実は存在しない」という論を自ら立てているように見受けられます。 内容が多く、また私自身自分で修正を行う自信がないため、相談させてください。--Junichi Iida会話2017年9月9日 (土) 18:31 (UTC)

項目を追加した者です。文章を修正しました。修正前は断言する形であったので問題があったと思います。 「補給が妨害された事実は存在しない」と断言せず、「補給路が安泰であったことを示す資料が存在する」という形にしました。また全体的に「~うかがえる」といった形にしましたが、どうでしょうか? --Exmkt会話2017年9月11日 (月) 02:05 (UTC)

9月17日、出典を追加し、文章の追加・編集を行いました。どなたでも、問題のあると思われる所を指摘していただけたらと思います。(--Exmkt会話2017年9月16日 (土) 15:50 (UTC)

素早い対応をいただけて驚いています。通知は見ておりましたが、なかなか時間が取れずに先送りしておりました。

さて、私が心配していたのは、文章が断定口調になっているということではなく、「独自研究」に該当するのではないかということでした。

ご存知かと思いますが、ウィキペディアでは、別の場所で発表された主張や事実を記載することはできますが、ウィキペディアの編集者が独自の主張をすることはできないということになっています。これには、すでに明らかになっている事実を組み合わせれば一見明白に導き出せるような結論も含まれます。 「日本軍の補給が妨害されていなかった」という結論、あるいは推論を導くために、複数の事実を論拠として並べ立てているのは、これに該当するのではないか、ということです。(参照:独自研究は載せない

書き方が断定的であるか、あるいは推論にとどまるかのような書き方であるかということは、「独自研究に該当するか」ということを検討する際には影響を与えないと思います。

最新の版を拝見しましたところ、「補給が妨害されていなかった」という結論部分に出典をつけていただけたようで、これはとても良いことだと思います。ありがとうございます。

独自研究の状態を脱するためには、結論をサポートする事実を除去、あるいは別の節に移動した上で、「補給が妨害されていなかった」という主張を紹介するに留めるべきではないかと考えております。--Junichi Iida会話2017年9月17日 (日) 06:30 (UTC)

もう一度文章の修正をしました。 一次史料にあたる部分を

「日本軍の補給の状況を示す資料も多数存在する。」

「漢城在陣諸将が文禄2年3月3日に発した連署状には、海路、釜山には兵糧は運ばれており、4月11日までは漢城に兵糧があることが書かれている」

「ルイス・フロイスの『日本史』には、朝鮮南部の沿海地域に兵糧・弾薬が海路輸送され豊富に備蓄されていたことが書かれている」

「ルイス・フロイスの『日本史』によれば、これらの城郭には、兵糧・弾薬が海路輸送され豊富に備蓄されており、しかもそれは2年以上持ち堪えるほど莫大な量に達していた」

「文禄3年5月24日に豊臣秀吉が発した朱印状には、釜山・加徳島・東莱・竹島(金海)等の倭城に莫大な量の兵糧が備蓄されており、これらが古米化しないように、新しい兵糧米との入れ替えを指示する内容が書かれている。」

「慶長3年3月13日に豊臣秀吉が朝鮮在番の諸将に発した書状には、「兵糧を日本の都へ届けるよりも、その方(朝鮮)に届けるほうが容易である」と書かれている」

以上のように、「(史料には)~と書かれている」というような、事実を述べるに留めました。「結論のサポート」のためではなく、「日本軍の補給」という項目のタイトルに沿った文になっているのではと思いますがどうでしょうか?

以下のような、「独自研究」「結論のサポート」に繋がると思われる部分を削除・修正しました。

「補給線が寸断されずに継続していたことを示す資料も多数存在する」

「この大兵力を支える補給物資が集積されていたことがうかがえる。」

「海上交通路が安全化されていたことがうかがえる。ここでも、李舜臣が日本軍の補給線を寸断していたという説と矛盾する。」

「このように、文禄の役を通じて日本軍の補給線が寸断されずに継続していたことを示す史料が多数存在する。」

「日本軍の海上補給線が寸断されず安泰であったことがうかがえる記録である。」

「日本軍の海上補給線が安泰であったことがうかがえる記録である」

「このように、文禄の役と同様に、慶長の役においても、日本軍の補給が安泰であったことを確認できる史料が存在する。」

「このように、文禄の役を通じて日本軍の兵糧が豊富であったことを示す史料が多数存在する。」

(--Exmkt会話2017年9月18日 (月) 14:38 (UTC)

ありがとうございます。最新版を確認しました。独自研究と呼ぶべき状態ではなくなっていると思います。

すでに別のユーザーの方が独自研究テンプレートを除去していますので、このままにしておきます。 --Junichi Iida会話2017年9月23日 (土) 06:40 (UTC)

外部リンク修正

編集者の皆さんこんにちは、

文禄・慶長の役」上の1個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。

編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。

ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2017年10月5日 (木) 10:14 (UTC)

韓国の三大捷について

韓国の三大捷が「閑山島海戦」と「幸州の攻防戦」および「晉州の攻防戦」とありますが、これら三つの戦闘は、韓国の三大捷ではなく、「壬辰倭乱の三大捷」もしくは「壬乱三大捷と呼ばれるものです。韓国史の三大捷は「薩水大捷(サルスデチョップ)」と「龜州大捷(キジュデチョップ)」と「閑山島海戦」です。韓国人もしばしば間違われますけどね。2009年2月9日(月) --以上の署名の無いコメントは、61.76.75.218会話/Whois IPv4IPv6)さんが 2009年2月8日 (日) 15:51 (UTC) に投稿したものです。

豊臣軍の内訳

@Sumpssilks:原文 上曰:「賊兵幾何?半是我國人云、然耶?」 斗壽曰:「此言、不知虛實矣。」

朝鮮兵が半数であったというのは、確定した情報ではありません。一部の部隊なのか、日本軍全体の内訳に言及したものなのかどうかも不明。断片的な一次資料をもとにしたソースなので「信頼性が低い」と言いました。--Dafrann会話2021年7月16日 (金) 00:30 (UTC)